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2021 『蜜の厨房』さんのこと6 Garden for the blind

 小泉蜜さんのサイト『蜜の厨房』のやおい論、第六回目です。
 今回は『蜜の厨房MENU-2 やおい少女の心理I 闇夜の庭』のご紹介です。

 蜜さんは、やおい小説を書くことが心理療法のひとつ『箱庭療法』に似ていると指摘します。

「異世界を作る」「物語を作る」という作業には、そのひとの無意識を表層化させるという副作用があります。
つまり、物語を作るという作業は、その人の苦しみの原因を探る手段のひとつでもあるのだとわたしは考えています。
わたしはそういった、ある種の苦しみを抱えた人がその苦しみを表面化させた作品は、すべて芸術であると思っています。
わたしは、やおいにはこの「箱庭」と、似たような効果があるのではないかと思っています。
アニメやまんがの世界のなかで、それらのキャラクターを使って自己流の物語を作り上げるあたりが、箱庭の、すでに用意された規格どおりの箱の中に、用意されたミニチュア人形を配していく作業に、酷似しているからです。

 蜜さんは、やおい少女が追い詰められている原因を「コミュニケーションの難しさ」だと指摘します。

前章の繰り返しになりますが、やおい少女たちはおそらく母子関係の正常な構築に失敗しています。
母子関係をうまく築くことができないと、人間関係までもうまく築くことができない、ということになってしまいます。
つまり他者とのコミュニケーションがうまくとれないのです。
したがって、やおい作品にて表現される内容は、やはり母性への回帰に関係した内容が多かったのです。誰かと完璧に理解しあう夢と、それが決してありえないという悲しい事実。
そこに登場人物たちの、いうなれば作者の分身としての彼らの悲しみが、痛いほど表現されていたのです。
しかし、母性というものが社会における共同幻想であるかぎり、幸福な他者との一体感など、本来は存在しない幻であるということを、そこで認識せざるを得ません。
その認識には当然痛みが伴います。
そしてその痛みから、おそらく人間は生涯解放されることはないと思います。
しかし、以前の章でも述べましたとおり、最近のやおい少女たちは、その幻から少しも抜け出さないまま、やおいを描くようになってしまいました。
「全能の母」のごとき保護者の青年(あるいは少年や中年や老年(笑))と、被保護者の少年の、ラブラブハッピーエンドな物語です。
やおい、という一種の「狂気」を描く媒体を選んだからには、やおい少女たちには、自分をごまかさないで、苦しいだろうけれど、自分の内面を凝視できるようになってもらいたいのです。
わたしが今までさんざん云っていた、「逃げないで欲しい」「世界の崖っぷちから引き返さないで欲しい」というのはこのことです。
自分の心の深淵を覗き込むのは恐ろしいことではあります。
自分の心の深淵、そんなものはなかったことにして、幻想の輪廻を繰り返すための歯車となるのも、そのひとが選んだ道なのでしょう。
けれど、忘れないでほしい。
あなたの苦しみは、その幻想ゆえにあるのだということを。
それをいま断ち切らずに繰り返すということは、あらたに苦しまなければいけない人間を生み出すのだということを。
わたしは、ひとりでも多くの少女に、その苦しみの輪廻を断ち切って欲しいのです。

 『闇夜の庭』をご紹介させていただきました。
 ここからは私見及び補足となります。

 物語をつくることは「箱庭療法」に似ていると蜜さんは述べています。
 箱庭療法とは、決められた箱のなかに患者が自由に人形や物を置いて世界を作り上げていく心理療法のことです。
 やおい、特に二次創作では、箱はパロディの元になる物語、箱の中身はキャラクターや設定などの構成要素です。
 そして、抑圧されている人ほど、箱庭において壮大な物語を作り出すのだといいます。

 やおい少女の抑圧は、母子関係の正常な構築の失敗からきていると蜜さんは指摘します。
 私は前項でお話ししたように、それは資本主義社会の特性からくるものであり、時代の流れによるものではないかと思います。
 人間関係の基本である母子関係の構築に失敗した少女たちは、彼女たちの箱庭――やおいによって、母子関係の再構築を図ります。
 それがなぜ「男」と「男」になるのか、というと、少女たちはヘテロセクシュアルであり、現実のヘテロセクシュアルの権力構造に絶望したり疑問を持っていたりするからです。
 しかし、母子関係のような他者との完璧な合一は奇跡のようなものであり、永続するものではありません。
 セックスの一体感が一瞬しか続かないように。
 私たちは母子の合一と欠落を生まれるときに経験しています。それを求めながらも、永続的には得られない痛みに苦しみ続けなければなりません。

 母子関係の合一とは「あなたはここにいていいんだよ」という、ありのままの存在の肯定です。
  私たちは、自分の存在の根幹であるその肯定を、母から、そして社会から貰い損ねているのです。

 が、えせやおいであるBLは、その構造自体を「ファンタジー」とすることで、母子関係の合一の状態を永続させることに成功しました。
 「嘘」だから、「ありえないこと」だから成立する。それがBLの共同幻想です。
 BLはエンターテインメントであり、ままならない現実を癒やすサプリメントであり、依存性のある麻薬です。

 サプリメントなのだから、「ファンタジー」な世界に癒やされてもいいじゃない。
 「ファンタジー」なのだから、母子関係の合一のような男同士の恋愛が永遠に続いてもいいじゃない。
 「ファンタジー」の世界でまで、現実の痛みを味わわなくてもいいじゃない。

 やおい少女が作ったのは遊園地の「ホモセクシュアルのアトラクション」だと蜜さんは指摘します。
 ままならない世界を生き延びるための「やおい」が、ままならない世界を存続させる「BL」となったのです。
 
 BLを書くことでこの世界に適応したい、疲れた精神を癒やすためのサプリメントを提供したい、というのであれば、BLを書き続ければいいのです。

 蜜さんや私が呼び掛けているのは、BLというファンタジーでは癒やされない、不特定少数の人々です。
 母子関係の合一をいかにリアルに成り立たせるかという問題に苦闘する、ドン・キホーテのような人々です。

 そういう人たちにとって、やおいとは騙しです。
 おそらくはそれを見抜いて「BL」に距離を置いていた栗本薫/中島梓氏でさえ、そこから抜け出せなかった。「もっとも人畜無害な依存症であるやおい依存症であってもいいじゃない」と言わしめた、強力な騙しです。

 私たちは母子関係の合一の状態を一瞬なら作り上げることができるかもしれない。が、それを永続させるのは至難の業です。
 が、その状態を構築するためにどれだけ真摯に世界と向き合うか。

同性愛でなく男子でない森娘が幼時の記憶だけを手掛かりにこのもどかしい程に抑圧とも欺瞞とも付かぬ自分でこしらえた癖に出方の判らぬ、錯綜した感情の迷路を通り抜け切れずに、どの位混乱して、文を大回転大車輪文体逆上がりさせてくださるかだなー。それを見たい。実に、実に見たい。(『幽界森娘異聞』 笙野頼子 講談社 2001年 P132)

 笙野さんが語る森娘≒森茉莉さんです。

 他者との完璧な結合という、この世界ではありえない状態を作り上げるための膨大なロジックを。
 そしてそのロジックが世界を侵食して、ままならない世界を変えていく奇跡を。

 そういうものを、私は見たいのです。


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