2001 「黒い白」と「白い黒」
■2001.09 「黒い白」と「白い黒」
よしながふみ氏の『西洋骨董洋菓子店』一巻に、ケーキ好きの警察庁のキャリア、忠広氏のお話があります。
見合いの席で忠広氏を「大蔵省に入れるのに、自分から警察庁に入った」と紹介する仲人の言葉に、相手の女性が「お金を動かす大蔵省よりも、警察庁のほうに優秀な方が入ったほうがいいのではないですか」と返すシーンがあります。忠広氏はただちに「あなたのような女性を妻にしたいと思っていました」と結婚を申し込みます。
このくだりを読んで、私は岸田秀氏の『母親幻想』のあるエピソードを思い出しました。
『母親幻想』に、外務官僚が友人の文部官僚を褒めるくだりがあります。その理由は「教育に熱意を持っていて、わざわざ文部省に入ったから」というものでした。
二人とも東京大学出身の方だったのですが、文部省は、官僚候補の東大生のなかでも大蔵省など他の省庁へ行けなかった落ちこぼれが行くところだそうです。ゆえに文部官僚のほとんどは、いわば高級官僚の落ちこぼれだということです。
この外務官僚は、他の省庁へ行けたにもかかわらず自ら文部省に行った友人を褒めたのです。
私は高級官僚のなかでも階層があるのか、と競争の熾烈さに驚いたのですが、岸田氏はその理由を次のように述べています。
この点から、なぜ文部官僚が東大を頂点とする大学の階級組織を必死に維持しようとするかが理解できます。いわば彼らは東大出身の高級官僚のなかのプア・ホワイトなのです(中略)。黒人への偏見がもっとも強く、白人の特権をもっとも熱心に守ろうとするのがプア・ホワイトであることはよく知られています。(P166-167)
以下はプア・ホワイトの差別意識から読み取れるもののお話です。
プア・ホワイトの差別意識には法則性があります。
「下位の者をもっとも差別するのは、上位の最下層にいる者である」という法則です。
あと、これは推測ですが、
「最上層の下位の者は、上位の最下層にいる者と、ほかの下位の者から上位へ向かうことを妨げられる」
これだけではわかりにくいので、例を挙げます。
上位・下位を男・女に言い換えると、
女をもっとも差別するのは、最下層の男である。
最上層の女は、最下層の男と、ほかの女から上位(男)へ向かうことを妨げられる。
先進国・発展途上国に言い換えると、
発展途上国をもっとも差別するのは、最下層の先進国である。
最上層の発展途上国は、最下層の先進国と、ほかの発展途上国から上位(先進国)へ向かうことを妨げられる。
以上言葉遊びですが、これは嫌な法則ですね。
「下位の者をもっとも差別するのは、上位の最下層にいる者である」
上位の人間が恐れるのは、自分が下位の人間と一緒にされる可能性です。
「最上層の下位の者は、上位の最下層にいる者と、ほかの下位の者から上位へ向かうことを妨げられる」
上位の人間は、下位の人間と同じだと思われるのが嫌で彼らを突き落としますが、「ほかの下位の者」は下位から抜け出そうとする人間を自分たちと同じ位置へ引きずり下ろそうとします。
上位・下位に文学・やおいをあてはめてみます。
やおいをもっとも差別するのは、最下層の文学である。
最上層のやおいは、最下層の文学と、ほかのやおいから上位(文学)へ向かうことを妨げられる。
これはやおい論のサイト『蜜の厨房』から影響を受けた発言ですが、最上層のやおい(と見なされる作品)は、ときどき「これはやおいではない」という褒められ方をしますよね。そうすると、最下層の文学からは「やおいと自分たちは違う」と思われ、ほかのやおいからは「自分と同じやおいではない」と思われる。
下位はどこまでいっても下位である、という文章もあります。
女は男よりも劣った存在である。もし男よりも優れた存在がいるとすれば、それは女ではなく、何か別のものであろう。
これは下位の者を下位にとどめておくための循環理論であるようです。
これを文学・やおいで言い換えてみると、
やおいは文学よりも劣った存在である。もし文学よりも優れたやおいがあるとすれば、それはやおいではなく、何か別のものであろう。
以上の文章は、上位と下位に位置づけたものがほんとうに「上位」であるか「下位」であるかということは考慮せずに書いています。
やおいは「下位」の物語である、という意識からこのような見方が生まれているのではないか、というお話でした。