2006 針を呑む
■2006.01 針を呑む
この雑文は佐々木禎子さんの『野菜畑で会うならば』の書評である。
『野菜畑で会うならば』は佐々木さんが中島梓氏の「小説道場」の門弟だったころの小説で、中島氏に「JUNEの本質を継承する作品のひとつ」と評された、JUNEの歴史のなかでも重要な作品である。
主人公の立野くんは、あるきっかけで人間の顔が野菜に見えるようになってしまった。立野くんは、自分が人嫌いなので人が野菜に見えてもかまわないと思っていたが、唯一「人間」の顔に見えた阿坂くんに恋をする。そして自分の世界に疑問をもちはじめた立野くんは、「人間」に見えていた自分の顔がメロンになっていることに気づいて絶望する。
子どものころの私たちは、自分のために世界が回っていると思っている。が、あるとき世界のなかに自分が存在していることに気づく。そして自分が世界にとってさして重要ではないことにも。
世界が天動説から地動説に変わった瞬間、子どもはそのことに傷つく。そしてその事実を拒否する。それでも世界が変わらないということに気づき、絶望しながらそれを受け入れていく。針を呑むような痛みとともに。
やがて自分がほんのすこし世界を変えることができるということもわかってくる。
立野くんの人間が野菜に見えるようになった体験も、この天動説から地動説の転換の過程であるように思える。
立野くんは、自分が人間嫌いだから人間が野菜に見えるようになったのだと思いながらも、唯一人間に見える阿坂くんを好きになる。これは矛盾である。
立野くんは人嫌いで人恋しい自分の性格を嫌悪している。が、立野くんが阿坂くんをほんとうに好きなわけではないと思う。
阿坂くんは立野くんと実際に交流しているわけではない。なのに立野くんが交流してくれる千葉くんではなく阿坂くんを好きになるのは、自分の理想を理想のままにしておきたいからだ。立野くんは、阿坂くんが自分を好きになった瞬間、野菜になってしまうことを恐れている。立野くんには、恋愛の対象が「ただの人」になってしまうことを恐れる心象がある。
立野くんの世界は、私たちの心象風景を極端にしただけで、立野くんの知覚はそれほど狂ってはいない(ように私には見える)。
私たちには自分が野菜扱いしている人間の顔が「人間」に見える。ただそれだけのことだ。
「人間」以外の人間が野菜に見える立野くんのほうがある意味正直ではないだろうか。「人間」の顔をした人間を苦もなく野菜扱いしている私たちのほうが不誠実であるようにも思える。しかしそうしなければ私たちは生きていけないのだ。人間がすべて「人間」に見えるのは、聖人か鈍感な人間かのどちらかである。
大人になることは世界に対して不誠実になることだ。そして子どものころに感じていた疑問や痛みに鈍感になることだ。
私は、立野くんが苦痛でなければ、人間がこのまま野菜に見えていてもいいのではないかと思う。それが苦痛であれば、自分からすすんで野菜に「人間」の顔を書きつづければいいのだ。私たちだって知らずにそうしているのではないか、と。
そうすればいつかは立野くんが「人間」として見たいと願う存在が出てくるのではないかと思う。
続編の『雪だるまの休日』に、立野くんが夢のなかで出会った雪だるまのエピソードが出てくる。
雪だるまは立野くんといっしょに遊ぼうという。が、立野くんが雪だるまに触ると雪だるまは悲鳴をあげる。「人間の体温は熱すぎるから近づくとあたしは溶けてしまうの」と。立野くんは雪だるまを傷つけてしまったことを悲しみ、人間の身体がほしいという雪だるまに自分の身体をあげようとする。
雪だるまは立野くんのいまの姿である。人間とほんとうに触れ合うには熱すぎて、あるいは怖すぎて、「野菜に描いた顔」というクッションを必要とする。雪だるまも立野くんも、だれかと触れ合いたいと願いながらも、実際に触れ合ったら自分がダメージを受けてしまう。
立野くんは自分に絶望して、人間をやめてしまおうと思う。「野菜の国で、体温にすがって、やっとどうにか「人として」生きてる」必要はないと思って自殺を試みる。
が、立野くんが人間を野菜にしているのは、立野くんがこの世界で生きていくための防衛でもある。立野くんは人間が野菜に見えるといいながら、「視線っていうのは本当に痛いんだ」という。
野菜には目がないはずなのに。
立野くんは自殺未遂後の夢のなかで、雪だるまに自分の身体をあげようとする。「きみが好きだから」と。「雪だるまになって凍えて死にたい」と願いながらも、立野くんにはだれかを好きになりたいという心境が隠れている。「好き」でもあり「嫌い」でもある雪だるまは、立野くんの分身である。
立野くんは雪だるまに好意を告げる。雪だるまは、立野くんの身体をいらないといい、陽光に溶けて消えていく。
「本当は大好きだったんだ。きみたちが」という言葉をのこして。
立野くん=雪だるまにとって、現実の世界は刺戟が強すぎる。かれらは「雪の身体」や「人間が野菜に見える目」を持たなければ、この世界で生きていくことができないのだ。
「本当は大好きだったんだ、きみたちが」という言葉は、立野くんが隠し持っている本音でもある。
「好き」で「嫌い」な現実で生きていくために、立野くんはこの世界を野菜畑に変えている。
いつかこの世界で「人間」と出会うことができるほど、自分が強くなるために。
雪だるまの夢はその予行演習なのかもしれない。
野菜畑に埋もれている人間のなかで唯一「人間」に見える存在を見つける。自分も野菜であるという絶望を抱えながら、誰かひとりの「人間」になりたいと願う。この小説こそがJUNEだと喝破した中島氏は正しい。それはJUNEを志向した私たちの願いでもあるのではないだろうか。
『JUNE』は子ども(おもに少女)が大人になるときの世界への苦痛や疑問、拒絶、絶望に真摯に向かい合い、それを受け入れてくれる雑誌だった。
それは「文学」にとっては稚拙な表現であったかもしれないが、私には、JUNEに替わるような「文学」はいまだに存在していないように思える。私が寡聞にして知らないだけで、「文学」のなかにもJUNEを思わせる作品があるのかもしれない。あればいいな、と思う。そのような作品を教えていただけると嬉しいです。以上私信。
針を呑むような思いでこの世界を受け入れるとき、いまでもきっとこの作品や須和雪里さん、金丸マキさん、嶋田双葉さんの小説のようなJUNEの世界を必要とする人がいるだろう。
それはごく少数の人間かもしれないけれども。