2001 AはA'であるが、A'はAではない
■2001.06 AはA'であるが、A'はAではない
東電OL殺人事件とやおいに走る下地に関する文章です。
東電OL殺人事件とは、1997年に東京電力勤務のOLが渋谷で売春をしていた最中に殺害された事件のことです。当時東京電力のエリート社員だった女性が渋谷の円山町で直引き(街に立って客を取る売春)をしていたことが話題となり、マスコミに大きく取り上げられました。
□「AはA'であるが、A'はAではない」1
速水由紀子氏の『あなたはもう幻想の女しか抱けない』の東電OL殺人事件のくだりを読んで、以前「彼女は私だったかもしれない」と被害者に同調する文章を読んだことを思い出しました。
東電OL殺人事件について。私は下世話な報道が嫌で「殺されたのが買春した男だったらここまで騒がれることはなかっただろう」と醒めた目で見ていました。
当時被害者にはあまり興味を持っていませんでした。
被害者に同調する意見を書いていた本は、藤本由香里氏の『快楽電流―女の、欲望の、かたち』です。
藤本氏は『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』から『少女まんが魂』まで少女マンガと女性の評論を書いている編集者です。
速水氏・東電OL・藤本氏の共通点は、高学歴で女性エリートの雇用された最初の世代であること、女性エリートが会社に受け入れられなかった苦労を知っていることです。
現在の日本では、子供たちは男女ともに学歴社会のトップを目指すよう教育されています。そして建前上は男女平等に成績に見合った大学へ入学することができます。
が、社会へ出ると、男性は能力をフルに生かすことを要求されますが、女性は男性の補佐に回ることを要求されます。学生までは男女ともにAであったのが、男性はA、女性はA'になってしまう。
女性がAとして働くときは、男性のAよりも有能さ・熱心さが要求され、ときには自分がBになる可能性(結婚・出産)を犠牲にすることも求められます。
男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年。東電OLの入社は81年。この年は、東京電力が女性キャリアを採用した第一期でした。
慶應義塾大学で成績優秀者であった彼女は、お茶汲みや雑務を拒否し、自分の知識をひけらかす態度を取って、社内では浮いた存在になっていました。
当時のエリートOLのあいだで、お茶汲み論争は珍しいことではなかったそうです。私は、A'のような仕事をしたくないというエリートOLの矜恃を感じるのと同時に、管理職でも女性だけが仕事の邪魔をされるという実務上の問題があるように思います。
エリートOLたちは社内ではエイリアン扱いされていました。東電OLたち優秀なA'は、Aと同じ仕事をしながらもAになることを許されなかったのです。
男性は、彼女たちをどのように考えていたのでしょうか。
Aよりも優れているA'への嫉妬。
「お前はA'のくせに、なぜAよりも優れているんだ」
Aよりも選択肢が広いA'への嫉妬。
「お前にはBになる道もあるのに、なぜAになろうとするんだ」
Aと同じ立場に立とうとするA'への怒り
「お前はA'なのだから、A'らしくしろ」
家父長制の資本主義社会。現在の日本は、女性は下位であるがゆえに選択肢が広くなっています。
女性にはA、A'、Bの三つの可能性があります。BになったあとでもA、A'に戻る可能性があります。
が、現在の日本が男性優位の社会であるがゆえに、男性には始めからAの選択肢しか与えられていません。
学校・会社ともにトップを目指すAの人々。終わることのない競争――男性は、エリートOLが参入することで競争が苛烈になることを恐れているのではないでしょうか。だからAより優れているA'を必要以上に否定し、貶める。
私が東電OL事件の加熱報道に感じた不快さは、このような男性の感情のいやらしさによるものです。
A'の仕事しかできなかった女性に、Aの仕事をする可能性を与える。それが男女雇用機会均等法の目的であったはずです。
が、その結果、Aから脱落する男性が出現する可能性は考慮されていなかったのではないでしょうか。
女性にA、A'、Bの可能性があるならば、男性にもA、A'、Bの可能性を与える。
男性も女性と同じ可能性を選べるようにする。そのような意識・制度の改革がなければ、男女雇用機会均等法は片手落ちになってしまうのではないでしょうか。
□「AはA'であるが、A'はAではない」2
「AはA'であるが、A'はAではない」
ある雑誌の追悼記事で、このように評された画家がいました。
サルバドール・ダリ。スペインのシュルレアリスムの天才画家です。
『記憶の固執』の溶けた時計が一番有名でしょうか。映画『アンダルシアの犬』を制作したり、写真のモデルになって猫と飛び跳ねたりしています。
もうひとりの画家。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。
後期印象派のもっとも有名な画家です。日本の浮世絵に影響された平面的な画風に、粗い、うねるような筆致。有名な作品は『ひまわり』の連作や麦畑、自画像など。
ゴッホとダリの共通点。
精神に異常があったこと。生まれてすぐに死んだ兄がいたこと。
そして死んだ兄の名前を自分が受け継いだことです。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホには同名の兄がいました。死産で生まれた子供です。
その日のちょうど一年後に生まれたのが、弟のヴィンセントでした。
サルバドール・ダリにも早死にした兄がいました。
兄の名前はそのまま弟につけられました。
両親にとって、かれらは死んだ兄の生まれ変わりであり、同時に兄の身代わりでもあったのです。
両親にとって死んだ子供は理想の子供です。
死んだ兄と同名の弟。かれらは理想の子供である兄と常に比較されて育ったのです。
ダリは死んだ兄にコンプレックスを持っていたといいます。ゴッホは自分の名前が刻まれた墓標の前を通って教会へ行っていたそうです。自分の名前が刻まれた墓を見ることで存在を脅かされていたのでしょう。
かれらに背負わされたのは、「自分がありのままの自分であってはならない」という宿命です。
自分が決して敵わない兄の身代わりである、ということ。
それは僕は僕なのだという事実が両親に認められないということです。
AはA'であるが、A'はAではない。
A'は自分が自分であるために、異常なほど自己言及を繰り返します。
未生怨という仏教用語があります。
小此木啓吾氏によると、未生怨とは自分の意識以前の世界のなかで、自分がどんないきさつで生まれたかについての怨みという意味を持つ言葉です。
そして、ゴッホやダリの生い立ちも未生怨のひとつで、彼らには自分が生まれる前に親が与えたある種のイメージや役割・名前に対する怨みが存在するのだといいます。
ゴッホやダリは自分が自分であるために延々と自己言及を続けなければならなかった。このような天才は意外と多いらしく、彼らのほかにはシェイクスピアも同じ運命を持っていたということです。
大いなる欠落が大いなる才能を生む。その才能は、赤い靴を履かされた人間の宿命であるようにも思えます。自分が自分であることを認めるために、真空を延々と埋め続ける。その行為は自分の存在の絶望的な否定に根差している。
それは才能なのか、精神の奇形なのか。それとも精神の奇形こそが才能なのか――
□私を認めて
ふたたび東電OLの話に戻ります。
社内でエイリアン扱いされながら順調に昇進を重ね、経済論文でエコノミストの登竜門とされる「高橋亀吉記念賞」を受賞した有能なOL。
そして売春のなかでもっとも格が低く危険な「直引き」、街で直接客を掴まえる売春をしていた女性。
私には彼女の行動が未生怨を持つ天才の行動と似ているように見えました。
自分の能力が会社に認められているという思いがあれば、彼女はことさらに自分の知識をひけらかすようなことはしなかったはずです。
そして自分の女性性を認められているという思いがあれば、彼女は街で「直引き」をして毎晩客を取ることもなかったはずです。
存在を認められないという思いからくる過剰な自己主張。
欠落は優れた能力を生む原動力になるかもしれません。が、それには「永遠に満たされない」ことが条件として付いてきます。
プラスを積み上げるか、マイナスを埋めるか。
私には、彼女が行っているのは「真空を埋める」行為であるように思えます。
それを感じてようやく、私は彼女の痛みをすこしわかったような気になったのです。
□やおいに走る下地
私が個人サイトの掲示板を持っていたころ、掲示板で「やおいに走る下地に母親と父親との確執がある」という話が出たことがありました。
そのときに、参加者の方が、
(女性)性の否定
と書かれたことが私は気になっていました。
自分が女性であることの否定。性の否定。
私はその根底に、社会のなかで生まれつき女が否定されていることがあるように思えました。
男性優位社会では、女は女に生まれたというだけで自分の存在が否定されている。
本来は、男に生まれようと女に生まれようと人間には平等に価値がないはずで、価値を積み上げていくのは自分自身であるはずです。
が、現在、女であるということは、自分の価値観が定まる前に自分の評価が下されてしまうことです。
Aにダッシュがつけられてしまう。
自分が生まれる以前に親や社会から与えられた傷を埋める方法が、虚構のなかでダッシュを取ること、やおいなのでしょうか。
しかしAである男性も、Aのなかでランク付けをされる存在、A'予備軍です。
人間がランク付けされ、一定のランク以下の人間にはダッシュをつける社会への否定。
これを突き詰めると家父長制・資本主義社会への否定になるということは、中島梓氏の評論や小泉蜜さんのサイト『蜜の厨房』(2021年現在は閉鎖中)で詳細に述べられています。
人間の価値を学力や仕事の能力だけで測らないこと。価値観や生き方の多様化が求められているのではないかと思います。
存在が否定されているがゆえの過剰な肯定。
私はいつまでそれを必要とするのだろう、と思いました。