21/100 PICNIC
文字書きさんに100のお題 077:欠けた左手
PICNIC
「襟足は短く、前髪はそう、眉を隠すくらいで」
「カラーリングはどうなさいますか?」
「前よりはすこし明るくしようかな」
兄の修吾と美容師がひろい洗面所で慶の髪を切る相談をしていた。
病人も身奇麗にしておいたほうがいいという修吾の方針で、慶は一ヶ月に一度、自宅で髪を切ることになっていた。
無表情で車椅子にすわった慶の髪が木の葉のような音をたてて落ちる。
慶の背後で修吾が鏡ごしに慶をながめている。
「在宅介護をなさるのも大変でしょう」
私もときどき寝たきりの老人がいるお宅へ呼ばれますけどね、と美容師が軽快に鋏を動かす。
「なんとなく独特の匂いが家にこもるんですよね。老臭とでもいうのかな? 同じような匂いが」
この家にはそんな匂いはしませんね、と美容師が修吾に目をむけると、修吾は、私も鼻がいいので、と美容師に笑いかけた。奥深い目に柔和な皺が寄る。慶の眼球が修吾の動きを追う。
洗面所のひらいた窓から、風が流れてくる。
「この匂いは何でしょうね?」
「裏の木蓮ですよ」
修吾は胸ポケットから煙草を取り出した。
修吾の仕事が一段落した午後、修吾は慶を車椅子にのせてピクニックへ行こうといった。
「寒くもなく暑くもない、いい日和だろう」
ベッドから半身をおこした慶の背中に女物の深い赤紫のコートを通して、修吾は慶を車椅子に乗せた。
着物の上からまとう深いフードつきのコートは、この古い別荘にのこされた兄弟の祖母の遺品だった。慶はこのコートが嫌いだったが、袖を通さなくても着られるから楽だと修吾はいう。
修吾によってきれいに整えられた爪は、動いていたころの感触を忘れつつある。
自分ですることは何もない。空気の吸い方も忘れてしまいそうな日々だった。
まだ慶の肺は呼吸を繰り返している。
頭のうしろで虫が飛んでいる。
重機の営業で連泊をくりかえしていたころ、慶は偏頭痛のほかにひどい耳鳴りがすることに気づいた。
酒でも飲めば治るだろう、と医者へ行かなかったことがたたって、日曜日の朝にアパートの玄関で倒れこんでいるところを兄に発見された。
その日、兄とゴルフへ行く約束をしていなかったら、慶は生きてはいなかったに違いない。脳溢血で病院に運ばれ、ふたたび目を覚ましたときには、右半身と左足が麻痺していた。
三十二になっても結婚しておらず、つきあっていた女性と別れた直後だった慶は、実家の両親のもとへ引き取られることになった。
が、やはり三つ年上でいままで独身だった修吾が、両親も歳を取っていることだし、自分が在宅勤務になって慶を引き取ると言い出した。
それぞれ目黒と横浜に住んでいた兄弟は、ときどき休日に会っては食事をしたり、ゴルフに行ったりしていた。控えめな性格の兄と我の強い自分の気が合っていたのは、修吾のほうが自分に合わせていたからだということに、慶は修吾と暮らすようになってから気づいた。
両親は戦国原にある古い別荘を兄弟で使えばいいと修吾に言った。弟の介護費用として、両親は三十年つかっていなかった古い別荘を改装した。
別荘地にある古い家の周囲には誰も住んでいなかった。時々週末になると遠くに灯が見える程度だった。
白い壁紙が目に沁みる広い部屋からは、長いあいだ放っておかれた庭の楓の木が見える。
慶の寝室には修吾のPCとTVが置かれていて、修吾が仕事をしているあいだ、慶は音を消したTVを観ている。TVにはCSの洋画がいつも流れている。
流れの澱んだ白い部屋に、めまぐるしく切り取られた他人の人生が流れている。
三ヶ月前に、修吾は病院のリハビリを止めた。
慶がいくら頼んでも、修吾は家の外から慶を連れ出すことがなくなった。
麻痺していない左手はまだ文字を書くことができた。舌を動かせば、くぐもった言葉を発することができた。
修吾は左手に包帯を巻いて手の動きを封じた。そうして慶のすべての行為を修吾がかわりに行うようになった。
そんなことはするな、と拒絶する慶に、遠慮しなくていいと修吾は首を左右にふった。
一生兄が面倒を見てくれるわけではない、自分はリハビリに出たいのだといっても、修吾は慶の言うことを聞こうとしなかった。
一生俺が面倒を見るから。
見捨てられた犬のような目をしていた。
一階のベランダのスロープから、修吾は慶の車椅子をおして外へ出た。
三十年ほど放置されていた広い庭は、不恰好に枝を止められた楓の林が広がっていた。
あまり伸びすぎては手入れができないから、と、兄が業者に楓を切らせた。
枝を短くされた楓は、奇妙なオブジェのように春の陽光をあびて立っている。
兄が買ってくる洋服と、兄が観たい古い映画。兄の選ぶ強い酒だけが、慶の気休めになっている。
なんでこんなことをするんだ。
左手を包帯で封じられるまえの日、筆談で書いた不器用な問いに、兄はやるせなさそうな顔をした。
あんたは僕が嫌いだったのか。
嫌いではないけど、と修吾は慶に煙草をくわえさせた。
修吾が煙草に火をつける。慶は火のついた煙草を毛布のうえに吐き出した。修吾があわてて毛布に焦げをつくった煙草をとりあげる。
あんたがいなければ、俺は燃えて死んじまう。これ以上俺にみじめな思いをさせるな。
慶は視界をぼやけさせる涙を左手でぬぐった。不器用な子供のように慶は泣き出す。叫びたくても、思うように口が動かない。
俺を病院に行かせてくれよ。
戸惑いながらも、修吾が慶の言うとおりにすることはなかった。
飼い犬のような生活だった。修吾の望むとおりに餌を食べ、庭の空気を吸い、同じベッドで眠る。兄は同性愛者だと慶は知っていたが、自分をその対象にすることはなかった。修吾は自分が同性愛者であることを深く憎んでいた。自分の欲望を否定することだけが、兄にとっては重要だった。
「いい風だな」
ぽつりと背後で修吾がつぶやく。
誰の返事も期待してはいない。
胸がつまって苦しくなった。
兄はいつから、他人になにも期待せずに生きるようになってしまったのだろう――
うまく動かない瞼から涙がこぼれた。
唸り声をあげて泣く弟を、修吾は途方に暮れた面持ちで見ていた。
First Edition 2004.3.29