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1999.08 『嫌な奴』に関するひとつの考察

■1999.08 『嫌な奴』に関するひとつの考察

 木原音瀬先生の小説『嫌な奴』に関する考察です。現在は講談社文庫に収録されていますが、この雑文ではビーボーイノベルズ版を参照しています。
 以下ネタバレがありますのでご注意ください。

□あらすじ

 主人公の子供時代から青年時代をめぐるクロニクル的なお話。
 杉本和也は子供のころに別れた友人、三浦恵一を見舞うためひさしぶりに故郷を訪れる。和也は三浦を毛嫌いしていたが、乱暴な三浦を恐れてずっと親友を演じ続けていた。
 退院した三浦は和也のアパートを訪れ、一時的に同居することになる。が、三浦は自分の慢性疾患を楯に、和也のもとへ居座ろうとする。
 和也は三浦を拒絶するが、三浦は和也のもとを離れようとしない。二人は互いを精神的に追い詰めていく。

□REVIEW

 和也の一人称で書かれたお話です。人物にモデルがあり、書いている場所も実在するそうで、文章では風景の描写の比重が高いです。
 どうしても好きになれないのに親友を演じてきた和也と、それを知りながら和也に執着する三浦の心の変化が見所です。生理的に受け付けないという心情から、惰性で身体を許すようになる和也の変化が見物ですが、ほとんど心情的には変わっていません。

 三浦は本質的にストレートな人間で、だから悪いことも平然と行う部分があります。和也は三浦の対極にある人間で、その性格が悪い方向に出れば偽善となります。和也こそが嫌な奴だという意見もありますが、三浦のように本質的にストレートな人間と付き合うには、和也の性格ではこうするしかなかったのではと同情したくなるような部分もあります。
 ふたりの関係はひたすらマイナスの方向へ転がり続け、三浦の強姦というかたちで関係が結実します。好き合ってのセックスという、BLのテンプレの真逆の方向へ行くお話です。強姦しても関係がほとんど変わらないところが新しいし、不毛すぎてほかに真似する人もいません。BLの極北のお話です。だから私はこの話が好きなのですが。

 三浦は共依存の人間だと思います。和也の内面をほんとうに好きなわけではなく、和也を優しくしてくれる対象として見ているのではないでしょうか。和也も三浦の共依存的なところに気づいていて、それが三浦を正当な友人として見られない原因のひとつになっています。

□和也の心境 アナフィラキシー

 和也は三浦を嫌いながらも最終的には三浦と離れようとしません。
 本当に嫌いな人間ならば、どんな手段を使ってもその人間から離れると思います。
 和也がこれだけ三浦を嫌うのは、他人にはない特別な理由があるということでしょう。それは何か。

 抗原抗体反応という言葉があります。一度ハチに刺された人間が、もう一度同じハチに刺されたらショック死した(アナフィラキシー)という現象がそうです。
 抗体とは人の身体が抗原の侵入に対抗して体内につくる物質のことで、抗原の毒素を中和したり、ときには過剰反応を起こしたりします。ハチに刺されて死んだ人は過剰反応を起こしたわけです。
 和也が起こしたのは精神的なアナフィラキシーではないでしょうか。

 和也は社会の規約のなかにいたい人間、三浦は人間の本質に忠実な人間です。だから三浦は残酷で容赦がないです。
 和也は自分のなかに三浦と同じ部分を持っていますが、それが社会的には悪であることもわかっています。だから三浦に過敏に反応して、嫌う。しかし、三浦を軽蔑しつつ、どこかで羨んでいるのかもしれません。
 和也が三浦を受け入れられないのは、心の深部に三浦と同じ残酷さがあり、自分でそれを否定したいからではないでしょうか。自分の一番嫌な部分を三浦に転移して嫌っている。
 そして和也は自分が身につけた社会性を自分が嫌っていることも知っています。
 社会性は人間が生きていくうえで必要な要素ですが、同時にひどく疎ましいものでもあります。それを持たずに生きている三浦のような人間は、和也にとってはひどく危険で、魅力的な人間でもあります。だから和也は三浦を否定する。あるいは三浦を否定することで、自分を肯定したいと願っているのではないでしょうか。

□三浦の心境 共依存

 三浦は最初に会ったとき優しくしてくれた和也になついて、和也を支配しようとします。
 三浦が最初に和也を苛めたのは、自分を肯定してほしかったからでしょう。幼い子供が母親を試すように。
 が、大人になった三浦は和也がずっと自分を嫌っていたことに気づき、それでも側にいるようになります。自分が近づけば近づくほど、和也は三浦を拒絶する。
 それがわかっていて和也のそばにいるのは、

 強烈なマイナスを上回るプラス(奇跡)を求めている。
 強烈な拒絶を求めている。

 のどちらかである。ここでは後者を説明します。
 その理由として、

 相手の憎悪によって相手を支配できるから。
 永遠に叶わない思いを求めているから。

 が挙げられます。ここでも後者を説明します。
 相手とひとつになりたい、というのは必ず叶わない願いです。ゆえに、叶わない願いを求めるのは単なるエゴにすぎません。人間はそれをセックスや空想やさまざまな快楽で擬似的に埋めています。
 しかし、たまに擬似的な快楽では納得しない人種も出てきます。三浦は本質的であるがゆえにそういう人種なのでしょう。
 しかし三浦は無意識では、和也とひとつになりたいという願いが叶わないことを知っています。
 絶対に叶わない願いごとをしている人間が、それでもその願いを望む場合、

 叶わない願いごとをしている自分が悪い、のではなく、
 叶う願いを相手が叶えてくれないのだ。

 という論理のすり替えを起こし、絶対に叶わない、という事実を無意識に抑圧します。
 三浦は無意識に自分の願いが叶わない状態を作り出し、「いつかそれが叶うかもしれない」という希望を持ち続けます。来るはずのないゴドーを待っている。
 三浦が和也を好きでいるためには、和也は三浦を拒絶しつづけなければならない。和也が三浦を拒絶するから、三浦は和也をずっと好きでいられるわけです。
 そして、三浦と和也が近づいても、三浦の願いが本当に叶うわけではなく、それは変質して何らかの『社会的』な様相を呈していきます。三浦はどこかで妥協して、和也の方向へ近づいていくのではないでしょうか。

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