9/100 真空
文字書きさんに100のお題 036:きょうだい
真空1
底知れぬ深い沼のイメージ。
脳裏にうかんだ映像を、紀田明拓は頭をふって打ち消した。
ふたつ上の兄の恵(めぐむ)のすがたを視線で追ってみる。澄みきった双眸の背の高い少年で、明拓が八歳のときに発狂した母親とよく似ている。
母親の三津子は売れない女優だった。整った顔立ちだったが線が細く、華やかなタイプではなかった。恵も品のいい顔立ちをしていたが、集団に溶け込んでしまうような地味な存在だった。
恵は制服のネクタイをわずらわしそうに締めて、朝食の席についた。二週間後に控えた模試の勉強をしていると義母にはいっておきながら、夜半まで起きて絵を描いている。高三になってから本格的に美術の勉強をはじめても美術大学の試験には間に合わないという。恵のしていることが勉強からの体のいい逃避のようにも見えてくる。
兄は子供のころから要領がよく、面倒なことからはすいと身体をそらして逃げてしまうようなところがあった。優等生だった恵の要領のよさは明拓の鼻についた。母親が記憶喪失におちいったときも、病状が安定していた喪失時はずいぶん母に甘えておきながら、記憶が戻って母親が躁鬱をくりかえしていたころは、恵は頑として母に会おうとはしなくなった。その変わり身の早さに、母が恋しいのだと同情していた義母の香津子や義父の博生は戸惑い、恵を遠ざけるようになった。
明拓は向かいで眠そうな顔でコーヒーを飲んでいる兄を一瞥した。恵は明拓の視線には気づいていない。
恵の身体から通奏低音のようなノイズを感じる。
微弱な反応。おそろしく深い真空。真空に底などあるはずがないのだが、明拓はその思念に触れるとどこかわずらわしく、落ち着かなげな感覚を覚える。恵がなにを考えているのか、明拓は知るよしもなかったが、兄弟というだけで常に一緒にいなければならないこの兄を、明拓はできることならその暗い真空の底へ葬り去ってしまいたかった。
面の皮一枚で人間はかるく騙される。惰性でのばした肩までの茶髪をかきあげて、明拓は端正な顔に嘲るような色を浮かべた。
明拓は脚本家であった父親の俊浩に似ていた。酷薄にも見える涼しげな目をして、いつも世界のすべてが取るに足らないものであるような不遜な表情を浮かべている。
誘蛾灯の蛾の一匹を自分の部屋に連れ込みながら、明拓は二段ベッドの下の段で猫のように尻を突き出して伸びをする里奈を見ていた。
「みんな紀田のことは遊びにしとけって言うんだけど」
里奈が布団にもぐりこみ、歯にしみるような高い笑い声をあげる。
「イメージで決めつけているのよね」
口を動かすのも億劫だった。あたりは暗くなりはじめ、灰色の空気が部屋に沈んでいた。粘液の匂いのするけだるい空気が、部屋の底に淀んでいる。
物音がした。明拓は顔をあげてドアを見た。この時間に帰ってくるのは恵しかいない。
「やばい。靴置きっぱなし」
里奈が長い髪をふりみだしながら布団にもぐりこんだ。
「何とかする」
言いながら緩慢な動作でTシャツを着る。
ドアがひらいた。
「明拓?」
照明のスイッチが入る。恵は部屋の真中に脱ぎちらかされた制服をけげんそうに眺めていた。
「お前女装癖なかったよね」
「俺がスカートはいたらスーパーモデルだな」
「どこの世界にそんなごつい女がいるんだよ」
うんざりした口調でつぶやいて、恵は自分の机に鞄をおくと、部屋から出ていこうとした。
「今日はお母さんが早く帰ってくるって留守電入ってた」
思いついたようにいって、部屋を出ていく。里奈が布団から顔を出すと、
「今のだれ? 弟?」
「兄貴」
へえ、と里奈が目をまるくする。
「全然似てない」
「お前見てたのかよ」
「でもやっぱカッコイイ。違うタイプで」
里奈は手際よく下着をつけながら屈託のない声で笑った。
恵が明拓を眺めたときに感じた、微量の軽蔑の念が部屋にのこっている。
――インポのくせに。
恵が母親の三津子にしか興奮しない性癖の持ち主であることを明拓は知っていた。
「送るか?」
里奈は髪をブラシで整えながら、
「いい。いっしょにいるとこバレるとまずいから」
そう言って明拓にとびつくと軽いキスをした。
玄関先まで里奈を送っていくと、台所から夕食の匂いがすることに気づいた。
台所をのぞく。恵が手馴れたしぐさで豚の細切れ肉をフライパンで炒めている。
「さっきのは嘘かよ」
「やっぱり帰れないって」
見え透いた嘘をつく。明拓はダイニングの椅子にすわると、
「女抱けないからって人の邪魔すんな」
恵はあらい動作できざんだキャベツをフライパンに入れた。ジャッと派手な音がして、油が周囲にはねる。
「痛っ」
油で火傷をしたのか、恵が菜箸をもった手を苛立たしげにふる。
「人のベッドに女の匂いをつけるな」
不機嫌そうに言って恵はフライパンの中身をかきまぜた。
「窓開けとけよ。匂いがこもるの嫌なんだ」
「二段ベッドの上でするわけにはいかねえだろ?」
明拓は冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出した。ペットボトルに口をつけてウーロン茶を飲む。
「コップにあけろ」
「誰も飲まねえだろ」
「俺が嫌なんだよ」
フライパンの中身をかきまぜながら恵が悪態をつく。ふだんは我関せずという涼しげな顔がこざかしいが、怒ったときだけはひどく子供っぽく見える。
「とにかく俺のベッドを使うのはやめろ」
「女嫌いだから?」
「知らない女の匂いなんて気持ち悪いだけなんだよ」
苛ついた動作で恵は調味料をとりだした。大雑把に瓶をふって味をつけたあとで、恵は火にかけてあった片手鍋に味噌を溶きいれた。
「味噌汁に卵」
じろりと明拓をにらみつけて、恵は冷蔵庫から卵をとりだす。
ふだんは義母の香津子がどんなに遅くなっても夕食をつくる。会社を抜けられなくなると義母はかならず家に電話を入れた。義父の博生はたいてい十二時まで帰ってこない。
兄弟はふたりともひととおりの家事がこなせるので、香津子がいなくても困ることはなかったが、香津子は夕食をつくることを大切にしていた。完璧主義者の意地と、ふたりが子供時代に両親に放っておかれたことを知っている不憫さと。明拓はもともと家族の団欒に興味をもつタイプではないが、香津子がそんな形で自分たちを気にかけてくれることがありがたかった。恵はそれすらも疎ましいようだったが。
ふたりでテーブルにむかいあって夕食をはじめた。豚肉とキャベツの炒め物を口にすると、オイスターソースの香りが口内にひろがった。子供のころは意地を張って恵の料理を食べなかったことを思い出す。
恵から微弱なノイズが伝わってくる。深い水の色を思わせる、憂鬱な波動。
「その顔やめろ。飯がまずくなる」
明拓がいうと、恵は、虚を衝かれたように目をみひらいて箸を止めた。
「見なきゃいいじゃないか」
「目の前から失せろ」
恵は食べかけの夕食を流しの三角コーナーに叩きこむと、荒い足取りで二階へのぼっていった。
ドアを叩きつける音がした。台所に時計の針の音だけが白々しくひびく。
この、明拓の神経を苛立たせる恵の思念さえなければ、恵を無視することができるのに。恵が考えている内容が言語化するわけではなく、漠然とした予感のようなものだったが、それが恵の感情であることに気づいたのは二日前のことだった。
恵が紺のダッフルコートを着込んで、家を出ていく。
今のような直感がなくても、明拓にとって恵の存在はわずらわしいものだった。
恵のことをずっと見ていた。鼻持ちならない子供だったころから、感情を漂白してしまったようないまの兄のすがたを。殺してやりたいと思っていたころから、自分の思いが掴めなくなってしまったいままで、ずっと。
恵は精神病をわずらった母の三津子をずっと慕っていた。
父が家を出奔して母が働き出したときも、恵は率先して三津子の手伝いをしていた。成績もよく、一年に一度はかならず学級委員に選出されていた。明拓は常に恵とくらべられて嫌な思いをしてきた。
母が発狂してからは、明拓のほうが優等生になり、恵はふつうのおとなしい生徒に変わってしまった。
三津子と恵は互いの分身のようだった。恵は母の思いどおりに動く人形だった。思いどおりに動かない明拓には、ふたりそろってきつい言葉を浴びせかけた。
明拓が小学校の低学年だった当時、三津子は夫が愛人のもとへはしったことでノイローゼにかかっていた。明拓が幼稚園に入った当初は、母の美貌がひそかに自慢だったが、小学校へあがるころには、母の顔には疲れからくる皺が浮かんでいた。
恵は成長するとますます完璧な人間になっていくようだった。三津子によく似た清廉な風貌と、何ごとにも長じた神童のような面をもっていた。小さい頃から身体が弱かったせいか、恵はひとりで遊ぶのが好きな子供だった。まわりの子供たちも、恵には別格の人間であるように接していた。
明拓は子供のころから三津子と恵に反抗していた。よく家を飛び出して夜中に公園や友人の家に遊びにいった。三津子は最初はそれをひどく叱りつけていたが、働きに出るとなにも言わなくなっていった。かわりに恵のほうが明拓をうるさく叱るようになった。 恵と明拓はよく喧嘩をした。それは明拓が小学校に入ってから――母親がパートで働きに出たころからはじまり、だれも止める人間がいないせいでエスカレートしていった。幼稚園のころは父の俊浩がアルコール中毒になって子供に暴力をふるうので、父から逃げることで必死だった。そのころの恵は明拓をかばってよく背中や胸に紫色のあざをつくっていた。酔っていてもどこかで狡猾な部分がのこっている父は、目立つ場所にはあざをつけなかった。
明拓は家事をおしつける恵を嫌いながらもどこかで気にしていた。恵がいちばん明拓を思っていることがわかっていたからだ。
恵は明拓に家事を教えたが、明拓は恵の邪魔ばかりしていた。それを恵が怒鳴りつけるので、兄弟の仲は険悪だった。
恵が明拓に目玉焼きの焼き方を教えていたときのことだ。恵は身長が足りない明拓を台の上に立たせて、熱したフライパンをもちながら明拓に説明した。
「フライパンはコンロであたためて、表面を覆うくらいの油をいれる」
ほんの数ヶ月前までは、恵も包丁を握ったことがなかった。だれにも教えてもらえなかった恵の料理は悲惨で、明拓はさんざん文句を言ってきた。恵の言うことに従うのは不本意だったが、ここで無様な失敗をするのも嫌だった。
恵は小皿に卵をひとつ割ると、フライパンに静かに流しこんだ。
「油がはねるから、静かにやるんだぞ」
恵はコップに少量の水を入れると、フライパンのなかに入れた。ジュッと水が蒸発して、派手な湯気がたつ。フライパンに鍋の蓋をかぶせると、明拓に卵を蒸し焼きにするのだと説明する。
「卵の黄身に火を通したいときは蒸し焼きにして、どろっとしているほうがいいときはふつうに焼く。明拓は黄身に火がとおってないの嫌いだろ?」
不機嫌そうに明拓がうなずく。
しばらくしてから蓋を取ると、水が蒸発したフライパンのなかで、黄身に白く膜がかかった目玉焼きが焼けていた。茶色のレースのようになったふちをフライ返しでめくると、恵は明拓に目玉焼きを皿に盛りつけさせた。
きれいに皿へ盛りつけた明拓に、うまいじゃん、と恵は感心する。
「よく崩れないな」
「兄ちゃんはよく崩すよね」
「うるさいな」
ぱつの悪そうな顔で恵がコンロの火を止める。
恵には、仲のよくない弟であってもいいところはきちんと認める素直さがあった。あれだけ喧嘩しても恵を憎みきれなかった理由がそこにある。当時の恵には卑しいところがなかった。言うことはきつかったが、恵の行動は筋が通ったものだった。
母親が精神病院に入院したことを契機に恵は変わってしまった。無気力になり、成績が落ちた。部屋にいてもTVを眺めてぼんやりとしているか寝ているかどちらかで、恵は伯母でのちに兄弟をひきとった香津子によく叱られていた。
ますます母に似てくる自分の相貌を、恵はどんな目で眺めていたのか。自分のすがたに劣情を催しているのかと明拓は苦い顔で考えたことがある。
自分の気のせいだと思った。
明拓が恵の背後を通ったとき、微妙な動揺が伝わってきた。
恵は自分の机にむかって勉強をしていた。明拓はベッドに向かおうと恵のうしろを通っただけだが、恵はそれをひどく恐れているようだった。このざわついた不快な感情はなんだろうと明拓は二段ベッドのはしごを上りながら考えた。
このときだけではない。TVをみているときも、夕食の食卓についているときも、恵のそばを通るだけで恵の感情を読み取ってしまうのだ。明拓はそれが自分の妄想だと思っていた。兄のことを気にしすぎているだけだと。
明拓はなるべく恵を避けることにした。が、その感情の動きが、明拓を見えない網のように縛りつける。恵のことを気にしていないつもりでも、その波動は伝わってくる。強制的に相手の心を覗き見させられているようで、明拓はひどく不快な気分になった。
明拓はなるべく恵と顔を合わせないようにした。渋谷や友人の家に入り浸って、恵が眠ったころに家に帰る日が数日つづいた。
その日も豊田駅に着いたころには、夜の十二時を回っていた。
北口を出ると、明拓は家に帰るサラリーマンとともに静かな住宅街を歩きはじめた。
十一月の夜の空気はつめたく、街灯の光も寒々しく感じられた。明拓は子供のころからよく夜の町を歩いていた。家の窓にうごく人影や夕食のにおい、家族の団欒からきりはなされてどこまでも歩いていく。街路樹の闇色の葉を光がふかい緑色に染めている。光を帯びたカーテンやネオンは、昼間の白々しい色ではなく、闇にふちどられて鮮やかな色彩を帯びていた。
三津子と恵は、子供のころの明拓が家出しているあいだどこにいたのかを知ることはなかった。幼馴染みの家に世話になっていたことは知っていたが、明拓の秘密の場所は最後まで知られることはなかった。
秘密の場所は、当時の家の物置だった。外に設置された物置に毛布とビニールシートと虫よけを持ち込むと、懐中電灯を灯して漫画を読んだり眠ったりした。父親の罵声や恵との喧嘩を忘れて、閉じこもる空間があることが明拓にとって唯一の救いだった。その当時の習慣が抜けずにいまも紀田の家を抜け出して夜に徘徊することがある。
物置ですごしているあいだに培われたかたく凍りついた芯は、自分のなかで失われることはないだろうと明拓は思っていた。他人といても心底楽しめない自分がいる。心のなかに感情の麻痺した部分があって、それはひたすら何者からも離れることを望んでいる。友人から、家族から、あるいは恋人から。
家にたどりつくと、明拓は合鍵を回して家に入った。紀田家の消灯時間は十二時なので、家のなかはすでに真っ暗になっていた。明拓は慣れたしぐさで廊下を忍びあるき、暗闇のなかで階段をのぼっていった。
二階の子供部屋にはいると、やはり真っ暗になっていた。受験生のくせに悠長なやつだと思いながら明拓は部屋のドアをしずかに閉めた。
着替えを終えると、明拓は二段ベッドのはしごを上っていった。シャワーを浴びるのは明日にしようと考える。
ふと思い立って明拓ははしごを下りた。下のベッドでは恵が片手で布団をおさえるような格好で眠っている。静かな寝息をたてている恵を、明拓は暗闇のなかで見ていた。
恵の顔は見えなかったが、今日はうなされていないようだった。恵はよくうなされて、突然狂ったような勢いではね起きることがあった。悪い夢でも見ていたのかと聞くと、恵はいつも夢など覚えていないと明拓に言った。夢を見たことがないのだそうだ。
明拓は手を伸ばして、指で恵の手をかるく叩いた。反応はない。恵の指のあいだに人差し指の先を入れても、恵は身じろぎもしなかった。
頭にそっと手を這わせた。さらりとした髪をすくように撫でる。指を下におろすと、あたたかい耳にふれた。さらに下へたどっていくと、骨ばった顎にたどりつく。ごく短い髭が指を刺した。嫌悪を感じて、指をひっこめる。
女だったらよかったのだ、とひっこめた指を手のひらに押しつけながら思う。女だったら自分の感情に整理をつけることができた。あるいは、考える間もなく自分に隷属させていたか。明拓はもういちど恵の頬にふれた。ゆるやかなラインをたどって唇のやわらかなふくらみに指を押しあてる。
男の唇だからといって、女のそれと違うわけでもないのだ、と明拓は指で唇をなぞりながら考えた。
指を離す。
唇の感触が指にのこる。
二段ベッドのはしごをあがって眠りについた。
恵のことを好きだとは思えなかった。恵を手に入れたとしても、それで自分も恵もどうなるものでもないだろう。自分が空しくなるだけだ。明拓は布団をひきあげて目を閉じた。
恵をみているとむしょうに腹が立ってくる。抱きしめたその手で首を絞めたくなる。殺したいという思いのうらに、あの女の顔がある。
石を溶かし、水を砕く夢を見た。
真空2
明拓がそのノートを見つけたのは偶然だった。
その日は日曜日で、恵は家にいなかった。恵の机から明拓は古語辞典をひきだした。そのときに、ふいに明拓の脳裏に暗い水底のイメージが湧きあがった。
明拓は顔をあげてあたりの気配をさぐった。一階からはだれも上がってこない。明拓がもう一度机の棚を見ると、例の波動が明拓の全身にひびいてきた。吐き気がして口元をおさえる。
こんなにも強く恵の思念を感じたことはなかった。明拓は棚にならんでいる参考書や問題集の棚から一冊のノートを抜き出した。ポピュラーな、そっけない青のノートだった。嫌悪感に背中を圧迫されながらノートをひらいた。
眠る魚
恵の神経質な字で書かれている。怪訝そうに眉をひそめて、明拓は次のページをめくった。
ノートは細いシャープペンシルの几帳面な字で埋まっていた。ぱらぱらとページをめくると、ぎっしりと文字が詰まっている。
三都子は床に放っておいた自分の赤ん坊を足蹴にするような人だった。憎くてそうするわけではない。ただ単なる過失。赤ん坊がベッドに眠っていないことを覚えていなかっただけのこと。
視界にフラッシュを浴びせられたような光がひろがり、明拓は床に座りこんだ。
これは自分だ。明拓は突き上げてくる吐き気を喉で押し殺しながらつぶやいていた。足蹴にされた赤ん坊。家族の全員から暴力を受け、蔑まれた自分のこと。
明拓は二段ベッドの上段に這い上がると、布団のうえに座りながらノートを読み始めた。ノートに書かれていたのは、病院へ入院し、記憶をうしなっていたころの三津子と恵のやりとり、家の事情などの手記だった。しかし、母の三津子が劇団にいたころの芸名の草薙三都子になっていたり、あからさまに嘘とわかるような記述もあったりと不審な点も多かった。
文面には父と自分への呪詛がこめられていた。明拓は腹腔が冷え冷えとした怒りに満たされていくのを感じていた。
恵はこれほどまでに母親を愛していたのか。自分たちをおいて記憶喪失になった母親に。子供にやつあたりや嫌味を言って職場や父親へのうさを晴らしていた母親に。
明拓は当時の三津子の主治医であった時国医師のことを思い出していた。時国医師とのカウンセリングで、明拓は主に母親との生活のことを聞かれたが、明拓は三津子のことをなにも知らなかった。自分のことで手一杯で、母親の気持ちにまで意識が回らなかったのだ。
それにひきかえ、恵の手記のなかには、明拓が知らない母親の面影が色濃くのこっていた。どこまでが本当なのかはわからないが、恵の意識のなかでは三津子の存在は母というよりも恋人であるようだった。それでは、なぜ恵は三津子の記憶が戻ってからは一度もカウンセリングにも面会にも行こうとしなかったのか。明拓はこめかみが熱くなるような憤りを感じていた。
手記を読み終えるころには、夕刻の残照が床に落ちていた。窓の縁の影がながく床に曳かれている。明拓は深い溜息をついてベッドに沈みこんだ。全力疾走したあとのように、身体が重くつかれていた。
いったいなんのために恵はこんなものを書いたのか。明拓はこのノートを時国医師のところへ送りつけたい衝動にかられた。
明拓は子供のころに時国医師に言われたことを思い出していた。
斑のういた老けた顔の医師の顔に、炯々とした目だけが目立っている。
「お母さんは夜中に遊びにいくような友人がいたのかい?」
母のことを話していたときのことだ。明拓は診察室の椅子にすわって窓のそとを眺めていた。
「名前は知らないけど、いたと思います」
「恵君は知っているのかね」
「さあ……知らないと思うけど」
窓のそとには柳の並木があった。垂れ下がる枝を風に揺らしている。明拓にとって、陰鬱な柳の木がこの病院の印象だった。
「失礼なことを言うが」
言い置いて時国医師は言葉をのみこんだ。沈黙が明拓を焦らしはじめたころを見計らって、話をきりだす。
「お母さんの実家にこの話をしたら、お母さんはこの時期一度も実家へは帰っていなかったというんだ。ということは、お母さんは君たちにうそをついていたことになる」
時国医師はト書きでも読み上げるように滔々と明拓へ告げた。明拓が目をわずかに鋭くする。
「お母さんには男の友人がいたのではないのかね?」
「愛人っていうことですか」
眉間の皺を深くする明拓に、時国医師は直接的に言うとそうなる、と答えた。
「そんなこと知らない」
「恵君はどうかね」
時国医師は無表情で組んだ足を指で叩いていた。
「さあ。でもあいつはマザコンだから、お母さんもバラさないと思う」
母親に愛人がいることを知ったら一番動揺するのは恵だろう。おそらくは、父親以上に。
時国医師はその後、明拓に数回三津子の愛人の話をもちだしたが、明拓にはまったく思い当たるふしはなかった。自分が聞くと母親への悪意がこめられていると誤解されそうで、明拓は恵に一度もその話を切り出したことはなかった。
ノートの内容は事実であるようだった。あるいは、小説のように脚色されたものだった。明拓はこんな文章を書いておきながら、実際の母親には目をそむけつづける恵の歪みに怒りをおぼえていた。重要な箇所からは目をそむけて、自分で楽なところばかり取っているように見えるのだ。
このノートを恵の本棚にしまっておくべきか迷った。二段ベッドから降りて恵の机のうえにノートを置く。しばらくノートを見下ろして、それを自分の机に移した。恵はすぐにノートがなくなったことに気づくだろう。明拓は自分のノートのなかからまったく同じものを机のひきだしから取り出した。それを恵の本棚に放り込むと、恵のノートには古典の宿題の回答を無造作に書いて自分の机のうえに広げておいた。
夕食の呼び声がかかるまで明拓は眠っていた。ノートに触発されたのか、幼いころの夢を見ていた。
自分が小学校二年生くらいのときのことだった。明拓が遊びにいこうとすると、母親に呼び止められた。三津子のわきには仏頂面の恵が立っていて、いっしょに公園で遊んでちょうだい、と母親はいった。
「いいよ」
きつい口調で恵は言って、母を見上げた。三津子は玄関の外へふたりを追い立て、兄弟を家から追い出してしまった。
「悪いことでもしたの?」
「お前じゃあるまいし」
悪口の応酬をしながら兄弟は距離をとって歩きだす。
「公園に行くんだろ?」
公園とは反対の道路を曲がろうとする恵に、明拓は声をかけた。
「行っておいたことにしろよ」
「やだよ。バレたらしかられるの俺だもん」
「じゃ、行くだけ行ってやる」
公園まで恵は早足で歩いていった。明拓は小走りで恵のあとを追いかける。
公園につくと、恵は入口でくるりと向き直った。用は済んだとばかりに家に帰ろうとする。
「なんで兄ちゃんって外で遊ばないの?」
「俺の勝手だろ」
恵はもときた道を早足で戻っていく。明拓は兄の背中に走り寄ると、ジーンズの尻ポケットに入っている財布を抜き取った。ダッシュで公園に走っていく。
「返せよ! 泥棒!」
大声で笑う明拓に、恵は息をきらせて明拓のあとを追いかける。
「取れるものなら取ってみやがれ!」
明拓は公園の林に入ると、林をジグザグに走って森の反対側へ出た。ジャングルジムの下で、恵が森を出てくるのが見えた。機敏な動作でジャングルジムに登る。
「返せ、馬鹿!」
「もうお金ないよ」
ジャングルジムのてっぺんで、明拓は恵を見下ろして笑った。挑発に乗った恵が、ジャングルジムのパイプをつたって登りだす。
恵があるていど登ったところで、明拓はジムの滑り台で逃げようと思っていた。じりじりとタイミングをはかっていると、恵の怒号が明拓へ飛んできた。
「だからお前お母さんに嫌われるんだぞっ」
居丈高に決めつける口調に逆上する。
「そんなの関係ないじゃん。じゃあお前だって人の言うこと聞けよ」
「人のものを盗んでもいいのかよ」
「盗んでないよ、ほら」
明拓は恵に財布を放り投げた。財布は恵の胸にあたって、ジャングルジムの下へ落ちる。
「にぶいなあ」
明拓が滑り台へ移動しながら嘲笑した。恵は財布にかまわずに明拓のほうへ移動する。
「馬鹿野郎っ」
「やめろよ!」
滑り台の上り口で揉み合いになった。殴りかかる恵を避けて、明拓は恵の手首をつかんで身体から離そうとした。恵の身体がバランスを崩して倒れる。恵がジャングルジムから落ちていく。手にすさまじい衝撃がはしる。
「はなせ!」
恵が明拓に怒鳴った。恵の身体を支えきれなくなって、手からもぎ取られるように恵の手首が滑って落ちる。
丸くなった格好で右肩から地面に落ちた恵は、一回転して地面にぐったりと伸びた。
明拓があわてて滑り台をおりて恵のもとへ近づくと、恵が肩と太腿から血をながして倒れていた。
首が不自然な角度で折れ曲がり、不気味に沈黙していた。
恵を殺してしまった。
そう思ったところで目が醒めた。
夕食の食卓には、香津子と恵がすでについていた。その姿を眺めて、嫌な夢を見たと思った。実際には、恵は足や肩をすりむいただけだった。明拓はその後母親にひどく怒られたというのが事件の真相だった。
夕食を終えると、恵は早々に自分の部屋へひきあげていった。子供のころから恵はTVが好きではなかった。部屋でプラモデルをつくったり、絵を描いたり、ミステリーを読んだりするのが恵の趣味だった。
あのとき、恵は怒って明拓と二週間口を利かなかった。
それでも恵は、自分に手を離せといった。
恵はいつもそうだった。人が傷つくよりは、自分が傷ついたほうがいいと思う人間だった。
昔の兄は。
明拓が子供部屋に入ると、恵はベッドのライトをつけて本を読んでいた。
「恵」
恵は文庫本を置いてけげんそうに顔を上げた。恵はまだノートがなくなっていることに気づいていない。明拓は自分の机に広げたノートを閉じて恵に指し示した。恵の頬がすうっと紅潮する。
「『眠る魚』」
能面のような顔がひきつった。恵はベッドから下りて、明拓の手にあるノートをもぎ取ろうとする。明拓は恵の身体をかわしてノートを二段ベッドの上段に投げた。恵が梯子をのぼって上に上ろうとするのを、明拓はひきずりおろして恵の身体を床へ押し付ける。
「人のものを……」
語気がふるえている。明拓はあお向けにした恵の手を背中に捩じ伏せると、暴れる足を膝で押さえつけた。
「あれは何だ?」
「離せよ!」
「大声を出すな」
低い声で明拓が恫喝する。
「騒いだら、あのノートを親に見せるからな。時国にも渡す。マザコンのいいサンプルだ」
嘲笑に、恵は首をねじって鋭い目を明拓に浴びせた。明拓は泰然と恵の手首をつかんで締め上げる。恵が低い悲鳴をあげて足をばたつかせる。
「大人しくしろ!」
膝で恵の脚を押しつけた明拓が恵の耳元に囁いた。声を耳に注ぎこまれて、恵は苦悶の表情をさらに歪める。
「あれはお前の経験なのか?」
「お前には関係ない」
「関係ない、だと?」
明拓は恵の頬を殴った。恵の喉の奥で潰れたような悲鳴があがる。暴れる身体を自重でおさえつけると、明拓は酷薄に唇を歪めてみせた。
「答えなければ時国にバラす。お前が母親以外には興奮しないインポだって」
涙で光る恵の目がうつろに開かれた。激しくゆがんだ目が明拓を睨みつける。
「いい加減なことを言ってるんじゃねえよ」
「お前があいつ以外のだれを好きになったっていうんだ。病気だよ。ケダモノ」
明拓が片眉をあげて恵を見下ろした。
「動物と一緒にしたらシツレイだな。ケダモノ以下」
明拓の下で、恵の四肢が硬直して動かなくなった。高波のように放射されていた憎しみの波動が、ぶつりと途絶える。かわりに深い沼のようなどろりとした沈黙が、恵の瞳孔を混濁させる。
「ノートにあったことは全部本当なのか?」
明拓は横を向いていた恵の細い顎をつかんで上向かせたが、恵の瞳孔は開ききったまま、空虚に自分の顔を映している。
「お前はどうしてあいつに会いにいかないんだ? どうしてあいつもお前に会おうとしない?」
恵は反応しなかった。
「お前らのあいだで何があったんだ」
押さえつけていた恵の身体が、力を失う。軟体動物のように力の抜けた身体を明拓に凭れかけたまま、恵は死人のように沈黙していた。
無気力の壁に阻まれて、明拓は恵の顎をつかんだ指に力をこめた。
恵の頬に指の爪が食い込んで、頬が赤く染まった。恵は明拓の手に身体を任せたまま、うつろに天井を眺めている。
いつもそうだ。
深刻な話になると、恵はなんの反応も見せなくなってしまう。精神だけが身体から抜け出したようにうつろになって、だれの話も聞かず、なにも話さなくなってしまう。
そうやって、世界のすべてを拒絶してしまうのだ。
自分の存在さえも。
「言えないんだったら、言いたくなるようにしてやる」
暗い衝動に衝き動かされて、明拓は恵の綿シャツをジーンズからひきぬいた。恵の頭を無理やり上げさせて、シャツを脱がせる。恵は明拓のされるがままになっている。
なめらかな背中が覗いた。手首を恵の頭のうえで縛ると、明拓は自分の制服のベルトを振り上げた。
空気を裂くような音をたてて、ベルトが恵の背中へ走る。肉がはじける音。恵は背を反り返らせて口を大きく開いた。
悲鳴は出なかった。
熱く高ぶるような衝動に襲われて、連続してベルトを振り下ろした。そのたびにビクビクと背を反らせて顔を歪める恵は、虚空に目をみひらいたまま、痛みを感じない人形のように沈黙している。
打たれているうちに、恵が突然喉元で引き絞られるような悲鳴を発した。明拓の手が、恵の悲鳴を押し殺す。
恵の目元からボロボロと涙があふれた。
明拓に押さえられた口元に、引きつったような笑みが浮かぶ。
声にならない言葉を何度も発しようとして、恵は戸惑ったように明拓を見上げた。
口元を覆う明拓の手を両手で抑えて、明拓の手を顔に押さえつけて嗚咽を殺している。
「――何が言いたいんだ?」
恵は自分の目を明拓の手で覆って、何度も首を振った。
「いえよ」
なにか言おうとしている唇は、喉からつきあげてくる嗚咽に急かされて浅い呼吸をくりかえしている。
手首に残った浅黒い紫の指の痕を、恵は放心したように見下ろしていた。
睫に点々と涙の粒がのこっている。
明拓は恵の頬にのこった涙の痕を指でぬぐった。恵は、指が目元に近づいてもぼんやりとしている。
睫に指がふれても、恵は目を閉じようとはしなかった。
このまま恵の目をえぐり取ってしまいたいと思った。
何も見えない、何も見ようとしないこの目を。
First Edition 1995.12.9