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文字書きさんに100のお題 012:ガードレール
世界の終わりの八月
台風十九号が去った日、皐月(さつき)と霜月(しもつき)は六碧湖のほとりへ散歩に行った。療養所から六碧湖へ降りていく遊歩道には赤いコーンが建てられ、立ち入り禁止の札が立てられていた。
台風一過の空は濃く澄んで、アブラゼミの鳴き声が林から降るように聞こえた。皐月と霜月は療養所で借りた麦わら帽子を被り、額から吹き出る汗をハンカチで拭っていた。
「道路が冠水してるね」
皐月が高く澄んだ声で言って湖面を指さした。アスファルトの道路の一部が水に浸かって、ガードレールが湖面から生えていた。
「世界の終わりの風景みたいだな」
霜月は変声期の途中のようなしわがれた声で言った。霜月は十八歳で、皐月よりも二歳年上だった。
「ここに来る前はほんとうに世界が終わったと思ってたのに、世界ってなかなか終わらないんだな」
霜月は宇宙人が地球を支配する幻覚に苦しめられて療養所へ来たのだった。
「地震が来たときも世界が終わったと思ったのに、局地的にしか被害はないんだな。地震が来なかったところは何事もなく生活していて、地球は終わりそうでいてなかなかしぶといよな」
「でも恐竜が絶滅したときはやばかったらしいよ」
「今だって蛇やトカゲは生きてるんだから、絶滅したとは言えないだろう」
「いきなり宇宙人が来て人類を滅ぼすかもしれない」
「来ねえよ。俺の病気じゃないんだから」
霜月と皐月は遊歩道の木陰を歩きながら、湖に並んで浮かぶカラフルなスワンボートを眺めた。
皐月がふつうに話をするのは霜月だけだ。皐月は母親に捨てられた子供で、祖父のもとに置き去りにされた小学校六年生の夏、苛めが原因で不登校になった。
家に引きこもるようになってから霜月と同じように幻覚と幻聴が起こり、見かねた祖父が療養所へ連れてきたのだった。
会った瞬間から、皐月は霜月に心を開いていた。皐月には、霜月が唯一開いている扉のように見えたらしい。
――みんなドアを開いているようでいて、閉じているんだよ。ほんとうに開いているのは霜月ひとりだけだ。開きすぎて変なものが迷い込むほどに。
霜月には皐月が絶対に守るべきものとして映っていた。自分が手を離したら宇宙人の側へ落ちてしまう、ひよわで頼りない魂に見えた。
だから霜月は療養所を出たら皐月といっしょに暮らそうと思っている。
「俺が病気だってわかったとき、これで人生が終わったと思ったけど、病気だけじゃ人生は終わらないんだな」
人間失格になっても人生は続くんだよな、と読書家の霜月は首を傾げた。
「でも明日世界が終わってくれないかと思うことはあるよ」
皐月は唇に伝ってきた汗を舐め取ると、苦い、と呟いた。
皐月が言葉を続ける。
「ひとりだったころは、いつ明日が来なくなってもいいと思ってた」
「今は?」
「俺がいなくなったら霜月が困るから生きてる」
「皐月がいなくなっても俺は困らないよ」
「でた、ツンデレ」
「そういうことにしといてやる」
霜月は汗の滲む皐月の手を握った。皐月が顔を赤く染めて霜月の手を握り返す。
「霜月と会ったとき、俺はホモだったんだって初めて知った」
「ホモって蔑称だから、ゲイって言えよ」
「霜月と会ったとき、俺はゲイだって初めて知った。一日で百八十度人生が変わる日ってあるんだな」
「それも世界の終わりなんだろうな。今までの世界が終わって、新しい世界が始まる」
「霜月はどうだった?」
「こいつ俺を見ていきなり泣き出しやがったと焦ったよ」
霜月はこっそりと嘘をついた。皐月を初めて見たとき、魂が高く鳴り出すような気がした。きゃしゃなひな鳥のような皐月に、こいつは自分が守るべき存在だと思った。
だから療養所で会った瞬間からふたりはずっといっしょに過ごしている。
「自分が死ぬのは満月の桜の下だけど、世界が終わるのはこんな日なのかもな」
霜月は眩しげに雲ひとつない青空を見上げた。
「じゃ、世界が終わる日に霜月といっしょにいるのは俺だな」
「そのときはケーキを腹一杯食おう」
「何で?」
「次の日世界が終われば太らずに済む」
皐月は眉間に皺を寄せて、馬鹿じゃねえの、と霜月を見上げた。そして満面の笑顔で、
「霜月の好きなものリストがひとつ増えた!」
と叫ぶと繋いだ手をぐるぐる振り回した。
First Edition 2021.3.30