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78/100 Sink

https://note.com/mhlophe/n/n93aae26fbe97

文字書きさんに100のお題 072:喫水線

Sink

 眠るために必要なものを羅列する。錆色の猫、ロプノール湖に似た名前の睡眠薬、射精の後の気だるさ。
 身体から女の髪をほどいた後の眠気が理想だ。苔の香りのする、仄暗い闇の眠り。女が後戯のぬくもりを欲しがるが、僕の身体から女の体温が溶解して消えていく。ああまた踏み散らすために抱いてしまったと、意識が飛ぶ寸前のきざはしで気づく。
 デュワーズの琥珀色の液体に炭酸水を注ぐ。水面が水飴のようにひしゃげて、炭酸の泡がグラスの表面を覆う。琥珀色が溶けて、サワサワと空気のはじける音がたつ。
 薬の名前をいつまでも湖の名前と間違える。ロヒプノールのかわりにデュワーズで眠れたらと思うが、瓶を半分空けても眠気が訪れない。
 眠り方を忘れる前、クライアントの馬に金を突っ込みすぎて、カード残高がゼロになった。
 身を削る僕を尻目にクライアントは、僕が営業のころは会社にいくら使ってもいいクレジットカードがあってね、と昔話をしゃべる。
 ――僕が偉くなったら、絶対にこのカードで女を買おうと思っていたんだ。でも上司がカードを離さなくてね。だから僕は会社を辞めて弁護士になったんだ。
 バブルの時代を知るクライアントは、マッカランのグラスを傾けながら含み笑いを浮かべている。頬の脂肪の裏に欲が畳まれている。
 僕らは日本経済に絶頂期があったことを知らない。ただゆるく長い坂道を転がり落ちる人生だった。
 一人暮らしを始めたときに飼った錆猫と二匹、あのときと同じワンルームマンションに住んでいる。錆猫は年老いて毛皮がバサバサになり、日中は丸くなって動かない。僕が帰る夜半に寝床から起き出して、のそのそと僕に餌をねだる。僕を裏切らなかったのはこいつだけだったと、カリカリをかじる錆猫の丸い背中を見て考える。
 駅のポスターに意識を誘われる。そのつど違う駅のポスターは、僕を明るい海の波や、雨に濡れた森の香りのなかに置き去りにする。ぬるくべたついた海の波。小学生のころに岩から飛び込んだ。肌に刺さる光の感触を思い出す。
 間違ったルートを歩いていると思いながらここまで来てしまった。海の波が駅での無限ループの軌道を外そうとする。ぬるくべたついた感触を肌から引き剥がして、会社への人混みに紛れる。ああまた僕は間違っていると思いながら、人を食らうガラスの構造物に吸い込まれていく。
 夢のなかでもクライアントとグラスを傾けている。午後の光を溶かしたマッカランのぎらついた金色。光の残像が跳ねる。鱗のような光線が目の裏に貼りついて、眠れない夜に鈍い頭痛を引き起こす。
 生きるたびに、アスファルトに足を置くたびに、僕は間違っていく、と思う。
 碇が重すぎて動けない船のように、眠れない身体は熱を帯びてワンルームマンションにわだかまっていく。
 まだ生きられる。錆色の猫が動いているあいだは。猫に餌をあげるために、会社へ足を引きずっていく。
 それが女であった時期もあった。しかし女は僕にさっさと見切りをつけて、マッカランを飲む男のもとへ身体を投げ出す。
 ロプノール湖のことを考える。砂漠の強烈な風によってフラフラとあたりをさまよう湖だ。瓦礫と動物の骨以外に何もない、見渡すかぎり岩場の湖。枯れ川に吸い込まれて消えていることもある。
 ロヒプノールの強烈な眠りは、砂漠に吸い込まれて消える水のようにひそやかに訪れる。内側へ、身体の内側へ。
 デュワーズに眠気を誘われて、無意識の世界に沈む。まだやれる、眠りの果てに、今度こそ新しい恋人と世界をと念じながら、丸くなって眠る錆猫の頭にそっと手を載せた。

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