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文字書きさんに100のお題 096:溺れる魚

眠る魚

 1

 三都子(みつこ)は床に放っておいた自分の赤ん坊を足蹴にするような人だった。憎くてそうするわけではない。ただ単なる過失。赤ん坊がベッドに眠っていないことを覚えていなかっただけのこと。
 三都子が精神病院に入った時、僕は小学校の5年生だった。醒めた目をした白けた子供だった。三都子は桃のような頬と柔らかな高い声を持つ少女のような人だった。他人から見れば、何の病気で三都子が精神病院に入院しているのか、とても不思議に感じただろう。
 僕は三都子の病室へ行くのが好きだった。三都子は、面会にやってくる僕を咎めるように見て、それから、晴れ晴れとした笑みで迎えてくれる。
「ちゃんとお母さんのところへ行かなきゃだめよ」
 本来僕が会うべき人の名前を挙げて、三都子は微笑う。
「あとで行くよ」
「いつもそう云ってばっかり」
 ベッドの脇の椅子に座った。三都子と話せば、いくらでも話を引き出すことが出来た。羽を開いたことの無い孔雀の話。嫌われ者のA君にクラス全員が給食の納豆を押しつけたこと、先生の指輪がなくなって大騒ぎになった話。
 三都子はいつも真剣に話に乗ってくれた。僕と一緒になって怒ったり、笑ったりしてくれた。看護婦や他の患者にも同じ態度を取っている人だった。ある一人だけを除いては。
 その一人とは、主治医の時国先生のことだった。時国先生は六十歳くらいの背の高い人で、くたびれた犬のような、だらりと頬の垂れた顔をしていた。
 時国先生に対する時だけ、三都子は全く違う表情を見せた。ヒステリックに怯えたり、キイキイ叫んだり、まるで普通の精神病患者のようだった。
 僕が一人で病院の古びた廊下にある休憩所に座っていると、時国先生が僕の隣に並んで自動販売機の牛乳を奢ってくれることがあった。
 先生は忙しそうに立ち回っていた。深刻な悩みを一日に何十個も抱える時国先生は、魚でもさばくように軽々と患者を診察していたのだろうか。そして、三都子が狂っていった人生のシナリオを、疲れた表情の裏で描いていたのだろうか。

「恵(めぐむ)君、なぜ君は私のところへ来るのかな?」
 悪戯っぽく僕の名前を呼んだ三都子は、頬にえくぼを浮かべてそう訊いた。
「言わない」
「どうして?」
「云ったら三都子さん、ここに来ちゃ駄目って云うよ」
「どうして」
 三都子はベッドの両端に渡された卓に頬杖をついて、僕を濡れた目で覗きこんだ後、
「嫌な子ね」
とからかうように云った。
「なんで?」
「云わない」
 揚げ足を取られた僕は、結構情けない顔をしていたらしい。三都子は卓から読みかけの本を滑り落とすと、高い声で笑った。
「子供のくせに生意気ってことよ」
「だから、なんで」
「云えないことは無理にでも訊きたくなるじゃない」
 僕の頭に三都子の手が落ちてきて、髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。髪を乱す手が暖かくてドキドキする。
「誤魔化さないで、ちゃんと答えて」
「だって、俺」
 口を歪めていた僕を、三都子は面白そうに眺めていた。すこし残酷で、嬉しそうな含み笑い。とても子持ちとは思えない、甲高い声だった。
「三都子さんのことが好きなんだ」
「ありがとう。ちょっとませた答えだったわね」
「ほんとだよ」
 かわされた僕は、ムキになって三都子のベッドへ身を乗り出してしまう。
「私おばさんだもの、全然釣り合わないよ。背だって」
「すぐに追いつくよ。それに、三都子さんはおばさんじゃないもの」
「あなたから見れば、似たようなものだわ」
「それにおばさんだって、三都子さんは三都子さんだもの」
「しわくちゃのおばあちゃんになっても?」
「好きだよ」
 駄目だ、と僕は目を閉じた。三津子はこの言葉が聞きたかったのだ。三津子は坂道を転がり落ちるような笑い声をあげて卓にうつぶせになった。
「ありがとう」
 三都子は小さな子供に話しかけるような口調で云った。
 僕の背後でドアが開く音がした。
 明拓は、鋭く見開いた目に激しい怒りをたぎらせて僕を睨みつけていた。この二歳年下の弟は、白けた僕とは対照的に激しい気性の子供だった。いつも乱暴で、すべてのことに怒っていた。白々と見返す僕を睨んで、明拓は廊下へ義母を呼びにいく。
 義母の香津子が脅えた表情で病室に入ってきた。
「恵ちゃん、邪魔になるでしょう?」
 香津子はうわべだけ丁寧に三都子へ挨拶をした。三都子は人好きのする笑みを浮かべて香津子と明拓にお辞儀をした。明拓が三都子を無視して部屋を出ていこうとする。明拓の肩を押さえると、香津子は僕も一緒に出ていくようにと云った。
 ドアを閉めるついでに振り返ると、三都子は僕に手を振ってくれた。
 僕は二人から離れて歩きながら病院を出ていった。病院を出て最初の交差点で、香津子が僕に訊いた。
「ここまでバスで来たの?」
 香津子の隣で明拓が突き刺すような目で僕を見ている。
「歩いて」
 香津子は驚いたように目をしばたたかせた。僕と明拓の養父母である紀田の家から病院まで歩いてくると、片道で一時間半かかる。
「お母さんに会いたいのは判るけど、明ちゃんも我慢しているんだから、恵ちゃんもそうしてちょうだい。毎日歩いてくるには危ないでしょう?」
 その言葉を聞いて、僕の腹は煮えくりかえった。明拓が義母にチクったのだ。母親でもない人間にゴマをすりやがって、と僕は心の中で毒づいた。
 香津子だって、自分の姉が精神病院に入院していると近所の人間に知られたくないだけだ。僕らを引き取った時も、三都子のことを僕らに口止めさせた。そんな屈辱を受けながらも、明拓は平気で香津子に懐いていた。三都子にはいつも我儘を云って困らせていた癖に、裏切り者、と僕は明拓を睨み返した。
 幾度も心の中で殺したいと思っていた父と同じくらい、僕は明拓を憎んでいた。三都子を追い詰め、狂わせた張本人の一人だ。
 父は脚本家として全く売れなくなってから、貯金を食いつめて女と逃げてしまった。三都子が狂って離婚した時も、子供の親権を放棄した親だった。明拓はいつも三都子に反抗してばかりで、母が働きに出た時から始めた家事にも全く手を出そうとしなかった。僕が何度明拓に洗濯物やフライパンを押しつけて無理やり仕事させたことだろう。
 小学校5年だった僕の世界は、すべてが歪んで傾いていた。家族のことをすべて忘れた三都子と二人で暮らせたらどんなに良かっただろう。世間から見れば三都子は狂っているのだが、僕にとってそれはむしろ喜びだった。すべての苦しみから解放されて、三都子は昔の綺麗で優しい母親だった本性を取り戻したのだ。そんな母と僕が普通に暮らすことが出来たなら僕はどんなことでもしたのに、僕は僕の無力さが悔しかった。

 2

 僕が好きだと云ってからも、三都子の態度は変わらなかった。行けば笑顔で迎えてくれたし、行かなければ寂しそうな顔をしてくれた。
 三都子は僕のことを気に入っていた。そうでなければ、三都子は時国先生も知らないことを僕に話してくれるわけがないだろう。
 三都子はよく蝶の夢を見ると僕に云った。
 蝶の夢の話はいくつかある。
 蝶は崩れるのだと三都子は云った。本来は木や人や鳥の形をしているものが、崩れると蝶になってばらばらに散ってしまう。形の中には、木が木であるように恒常的に保たれる求心力のようなものがあって、それがなくなるとに形は自分を保つことが出来なくなってしまうのだという。蝶は、その求心力が弱まるのを形の内部に忍び込んでじっと待っている。求心力が弱まり蝶の力がそれを凌駕した瞬間に、形は引き裂かれて蝶は自らを解放する。蝶は死に神のようだと三都子に云ったら、その通りだと三都子は頷いた。
 死に神から連想される夢。蝶は死者の魂であり、人が死ぬと魂は一匹の蝶になって世界をかけめぐるのだという。やがて世界は蝶でいっぱいになって、蝶が大気にぎっしりと詰まるようになったら、それが世界の終わりなのだと三都子は云う。
 蝶の形をした盗聴器を開発したスパイが、ひそかに三都子の周りにモンシロチョウを送りこんでくる。三都子はその蝶が盗聴器であることを知っていて、自分を殺す隙を窺っているのだという。三都子は捕虫網でモンシロチョウを捕まえ、ひとつずつ丁寧に親指ですりつぶす。そうしなければ堅い盗聴器は潰れないのだ。そんな三都子をみて看護婦たちは残酷なことをすると三都子をたしなめるが、どうして蝶が盗聴器であることが判らないのかと三都子は僕に訴える。
 三都子が病院で眠っていると、三都子の許へ数知れない青い蝶が近寄ってくる。青紫色に黒の縁取りがある蝶なのだそうだ。青紫色の蝶は三都子を花だと勘違いしていて、三都子の肌に管を突き刺して三都子の体液を吸うのだという。蝶がいくら訪れても三都子の身体がひからびることは無いが、痛みもなく自分の身体に差しいれられる管を、三都子はベッドに縛りつけられたように横たわりながら見ていなければならないのだという。
 僕は、今までずっと感じてきた疑いをようやく心の表面に張りつけた。
 三都子の養分を吸って育った僕と弟――僕たちは三都子にとって、三都子の生命を削る存在だった。ただそれだけだったのだ。

 母の態度がおかしくなりはじめたのは、父が家に帰らなくなって二カ月ほど過ぎた時のことだった。
 母と結婚した当時、父は気鋭の脚本家として名前が大きく取り上げられるようになっていた。
 父は三都子が所属していた小劇団に脚本を書いて三都子に話題を集めようとした。が、三都子はその話を受けずに劇団をやめて父のところへ押しかけた。父が二十五、母が二十三の時の話である。
 それから二人は籍を入れ、父が二十六の時に僕が誕生する。僕が生まれ、明拓が二年後に生まれるまでが、父の脚本家としての絶頂期だった。
 父の脚本家としての人生は尻すぼみになっていった。父がヒットメーカーとして祭り上げられたのは、若い人間を狙いにしたドラマが流行していたせいだった。父は等身大の人々を主人公にして、実生活をうまくはぎあわせてドラマに仕立てていた。が、脚本家としての下積み期間がまったく無かった父は、人との触れ合いや人生の機微などを織り込んだドラマを書くことが出来ず、じきに視聴者に飽きられてしまった。
 父はそれ以後さまざまなドラマに手をつけようとした。が、我の強い監督やスタッフとの折り合いがつけられず、父は脚本を書くことを放棄してしまった。書くはずだった脚本をすっぽかし、プロデューサーが家に怒鳴り込んできたことも何度もあった。
 やがて脚本の仕事が来なくなり、父は二十代の時にたくわえた貯金を食いつめていくようになった。僕が小学校へ通い出した頃の話である。
 父は昼間はパチンコに通い、夜は公開されるあてのないドラマのシナリオを書いていた。三都子は最初のうちは遊び歩いている父を見守っていたが、家計が苦しくなるにつれて父に転職を薦めるようになっていた。
 父が脚本家という職業にしがみついていたのは、おそらく若くして成功したプライドからであっただろう。そのプライドが父を蝕み、若い女(スナックのママだったという)に奔らせた。
 僕が小学三年になってすぐに、三都子はパートへ出て働きだした。母は毎日十四時間以上のスケジュールをこなしていたが、その給料は父を含めて四人をやしなうには足りなかった。やがて母は半年ほどで身体を壊してしまった。病名は胃潰瘍というありふれたものだったが、それは母が突然記憶を失うまで彼女を苦しめていた。
 僕は三都子が胃を壊して以来、彼女に変わって家事を引き受けるようになっていた。小三の冬ごろであった。僕のつくる料理はひどい出来で、スーパーの惣菜のほうがまだマシだという明拓の言葉を無視して僕は料理を作り続けた。 三都子は最初のうちは僕がすべての家事を受け持つことに遠慮していたが、やがてそんなことを考える余裕もなくなってきたのか、僕にも明拓にも関心を持たなくなっていった。その頃から三都子は無感動な人間になってきていた。何を聞いても少しつまらなそうに傾けた首のくびれに手を当てていた三都子の顔を思いだす。
 明拓はその時は小一か小二で、塾も無いくせに毎日夜中に帰ってくるような子供だった。母がいない時には(バイトで夜のシフトに入るようになっていたので、大抵母はいなかった)僕と明拓は喧嘩ばかりしていた。その時の僕は、明拓は父の悪いところを集めた人間だと思っていた。
 僕が小学校二年のころ、明拓が一晩失踪するという事件があった。明拓はその時は幼稚園の年長組で、喧嘩の強いやっかいなガキ大将だった。
 幼稚園から帰ってきた明拓は、園服から普段着に着替えて外へ遊びにいこうとしていた。それを家でシナリオを書いていた父が呼び止めた。父は明拓がいつも服を脱ぎ散らかしておくことを叱りつけた。
 明拓はひらきなおってこう云った。
「なんでお父さんが家にいるんだよ、みんなお父さんは家にいないのに。だからそんなことに怒るんだ」
 父は激怒した。明拓を抱えて家の外に放り出そうとしたのだ。明拓は柱につかまって嫌がった。泣きわめく明拓をむりやり柱から引き剥がすと、父は明拓を乱暴に外へ追い出してドアに鍵をかけた。
 明拓はドアのまえで叫ぶようにして泣いていたが、やがて静かになったと思うと、明拓の姿は家の前から消え失せていた。
 夕方になっても明拓は家に帰ってこなかった。三都子と僕は心配になって明拓を捜しにいった。僕らが思いつくかぎりの範囲を捜し回っても、明拓は姿を見せなかった。父が警察に通報し、僕と母は警察に行く父を見送ると遅い夕飯をとった。
 母は憔悴しきった面持ちでご飯を口に運んでいた。普段は嫌いな弟でも、もし人攫いに連れ去られたらと思うと怖くて仕方なかった。
 子供部屋に一人でいると、部屋の静寂が迫ってくる。一体何をやってるんだ、と僕は明拓のベッドに毒づいた。
 明拓は小学校のとなりの公園で発見された。一晩中公衆便所の個室に立てこもっていたのである。明拓は怒られたり、無事であることを喜ばれたりして両親にもみくちゃにされていたが、僕はこの時はじめて明拓に薄気味悪さを感じていた。
 三都子は考えなかったのだろうか、幼稚園の年長組の子供が一晩を薄暗い公衆便所のなかで過ごす意志の異常さを。たとえ聞きわけの無い、意地っぱりな子供であっても、明拓には真夜中の誰が来るかも判らない公衆便所に一人でうずくまっていられるだけの切迫した理由があったはずである。明拓は口を引き結んだままひとことも弁解しようとしなかったが、僕はこの時に初めて明拓に対する嫌悪感を覚えたような気がする。

3

 三都子は一見狂っているようには思えないということは前に書いた。実際、三都子が入院することになった直接の理由は心臓発作であったし、最初の入院先は外科だった。しかし、三都子の心臓には異常が見つけられず、家庭の事情を考慮した外科の医者が三都子を精神科へ回したのだ。
 病院へ入院した時、三都子は自分の夫と二人の子供の記憶をすべて失っていた。自分の父母や兄弟のことは克明に思いだせるのに、三都子は独身時代に戻ってしまったような言動を繰り返した。
 三都子につきそうために病院へやってきた父は、三都子の母親に拒まれて三都子に会うことが出来なかった。何度か父は病院に足を運んが、主治医と祖母が反対したために、三都子に一度も会うことが出来なかった。
 父は以前とはまったく違っていた。自分で働こうとせず、黄色く澱んだ目をして、垢の匂いを貧相な服に染みつけていた。
 父は三都子のアパートにも近寄ろうとはしなかった。三都子が父を家から閉めだしたのだということを僕は中学に入ってから知った。
 パートタイマーの給料で子供二人を育てた母の苦労は、父にはわからないだろう。三日続けてご飯とふりかけだけの食事だったこと、米がなく、スーパーの余り物の総菜をもらって食いつないでいたこともあった。母方の親戚には助けてもらっていたらしいが、父の――清宮の実家からは何の援助も無かった。清宮では、三都子を父の才能を潰した女だと思っていたようだった。
 ある時、三都子がスーパーのバイトへ出たまま時間になっても帰らないことがあった。心配になった僕がスーパーに電話を入れたが、電話はつながらなかった。僕は明拓に家を頼んで(力で言うことを聞かせて)スーパーまで三都子を探しにいった。冷たさが体に染み込んでいくような冬の夜だった。
 照明の消えたスーパーの駐車場で母の自転車を探した。自転車は無かった。従業員の詰め所になっている別棟にも人の気配は無かった。僕は急に心細くなった。どこかへ買い物に寄っているだけかもしれないと思って僕は家へ引き返した。
 家に帰ると、明拓が今にも癇癪を起こしそうな顔で僕を迎えた。三都子から電話があって、三都子は今、友達の家にいるという。用事があって今日は帰れないから、戸締まりをして寝なさいということだった。
 母の最初の家出だった。

 三都子は、自分が入院した先が精神科であることにまったく疑問を持っていなかった。自分が記憶を失っていることも、三都子は不安に思っていないようだった。唯一三都子が記憶喪失になって心配したことは、退院してから街で偶然友人に出会った時の反応だった。
「私は記憶をなくしてしまったので、あなたのことが思いだせません、ごめんなさいって素直に謝ればいいのかしら」
 三都子は傾げた首のくびれを手でさすりながら僕に問いかけた。僕は薄い緑色の天井を見上げて、
「嘘をつけばいいんじゃないの」
「どういうふうに?」
「適当に話を合わせるんだ」
 僕の答えが気に入らなかったようだ。三都子は思案顔で窓のほうへ目を向けた。完成したばかりの家が、青い瓦を光らせて建っている。
「それじゃ相手に失礼だわ」
「でも、記憶喪失のせいであなたのことを忘れました、といきなり云うのも変だよ」
「そうねえ……」
 眉をひそめると、三都子はいっそう幼い顔になった。すごく可愛い。顔が赤くなるのを感じて空を熱心に見上げた。瞳に滲みとおるような優しい色だった。
「忘れるっていうことは、悪いことかもしれないわね」
 本当に申し訳なさそうな声音を聞き取って、僕は三都子のほうへ視線を向けた。三都子の顔が陰っている。
「仕方ないよ」
 こう云うしか無かった。
「病気なんだもの」
「そうかなあ」
「そうだよ」
 僕はずっと三都子が記憶喪失でいてくれればいいと思っていた。時国先生は一時的なものだと云っていたが、僕は三都子にこのままでいてほしかった。病気になったほうが幸せな人間だっているはずだ。たとえば、世間に死んだほうが幸せな人間がいるように。

 僕の家事能力が母の家出に拍車をかけていたことは考えたくない事実だった。一日や二日くらい母が帰ってこなくても、僕たちは平気だった。僕が三都子のためにしっかりしなければ、と思ったことは、清宮の家から逃げ出す母の安心に繋がってしまっていた。母は子供に甘えていた。家という現実から逃げ出すことでようやく精神の均衡を保っていた。
 僕はやがて母の家出を何とも思わなくなってきていた。勤め先から電話が入って今日は家に帰らないと告げられると『気をつけてね』と云うくらい、僕は出来た子供を演じていたのだ。
 明拓は逆だった。母が帰ってこないと知ると床に散らばっているものを蹴飛ばしてまわったり、僕の一挙手一挙動に文句をつけたりした。明拓は怒るとヤマアラシのようになる。すべてのものが気に入らないという顔をして、毒を塗りたくった針で人を刺すのだ。僕は心の狭い弟だと思って、ことさらに明拓を無視してやった。自分と違って出来損ないだから仕方ないとは思っても、乾いた洗濯物に水を注いだり掃除機をかけている畳の上に消しゴムのカスをばらまいたりする明拓を見ていると、このまま明拓をゴミ袋に詰めてゴミの収集箱に放りこんでやりたいと思うことがあった。清掃局で発見された死体の話はニュースで流れたことが無いから、きっとうまくいくだろうと僕は思っていた。

 明拓の背中に四本のミミズ腫れを見つけたのもその頃のことだ。風呂から出てきた明拓が、バスタオルで体を覆って水滴を撒き散らしながら廊下へ出ていったので、僕はちゃんと体を拭け、と明拓を廊下の床に捻じ伏せた。
 その時に傷を見つけた。僕はぎょっとして明拓に聞いた。
「喧嘩したのか?」
 明拓は顔を床に伏せたまま答えなかった。その傷は点々とささくれだって、青あざになっていた。
「それとも、あいつにやられたのか?」
 僕は明拓に薬を塗ってやると云って明拓を助け起こした。僕を見上げた明拓の目のふちに、光がたまっている。
「自分の子供に……」
 怒りのせいで言葉にならなかった。二、三カ月ぶりに帰ってきた父が明拓を暴行したのだろう。居間のこたつに座らせてオロナインを背中に塗ってやると、明拓はこたつ布団に顔を押し付けて、低い唸り声をあげた。
 意地っ張りな明拓が泣き顔を見せるなんて、ほとんどないことだった。肩を震わせる明拓にどうしていいかわからなくなる。
「泣くなよ」
 僕は明拓のパジャマを肩にかけてやると、明拓のためにリンゴをむいてやった。
 明拓はしばらくその格好で泣いていたが、落ち着いた時にぽつりと云った。
「家を出たい」
「どこに行くんだよ」
「ここじゃなければどこでもいい」
 明拓がようやく顔を上げた時には、明拓の目に涙の名残はなかった。
 僕と明拓は無言で茶色に変色したリンゴを食べて、母の帰宅を待たずに眠りについた。その時の僕は明拓の意外な涙と父への怒りのせいで、自分が誤解をしていることにしばらくの間気づかなかった。

4

 三都子の家出を黙認するようになってから、三都子はさらに僕たちに無関心になっていった。時には僕に当座の生活費を与えて一週間家に帰らないこともあった。母の家出から二カ月くらいたった頃には、明拓も反抗するのに疲れたのか何も云わなくなってきていた。
 明拓も僕も、だんだん無気力になっていった。学校へ行くのも家の仕事をするのも面倒で、水中で身体を動かしているようなだるさを毎日感じていた。家の中には洗濯物や黒いゴミ袋が散乱し、生ゴミのすえた匂いが満ちていたが、三都子は最初のうちだけ僕を叱りつけ、後はどうでもいいといわんばかりの態度でそれを放っておいた。明拓はあいかわらず帰りが遅かったし、僕もその頃には汚い部屋に帰るのが嫌でなるべく学校に居残るようにしていた。
 父はまったく家に来なかった。ヒモになった女が金回りのいい女で、金が無いことが判りきっている家に帰る必要が無いようだった。それは父にとっては幸運だったのだろう。母の怒りの矛先が直接及ぶことが無かったのだから。
 母が初めて僕に拳をふるったのは、小学四年の二学期のはじめの頃だった。
 殴られた理由は特に無かった。ただ外から帰ってきた時に、アスファルトの熱気が母の頭をおかしくしていただけで。僕は部屋の奥へじりじりと後退していった。もつれる足音に母の足音が重なる。僕はトイレの奥へ追い詰められていた。
 頭を庇っていたので母の顔は見えなかった。腕や背中へ容赦なく拳が降ってくる。便器の暗い穴が誘うように視界で揺れていた。拳だけではなく蹴られていたことに後で足の痣を見つけてから気づいた。
 明拓が甲高い悲鳴をあげて母の身体にしがみついた。母は僕から身を離し、兄弟が息を潜めて見守っている中でさっさと家を出ていった。しっかりした足取りだった。
「頭がヘンだよ、あいつ」
 母親が出ていってしばらく経ってから、明拓はいまいましそうに呟いた。
「それか、俺たちを殺す気だ」
「馬鹿な……」
 明拓の背中につけられた爪痕が誰のものであったか、僕はようやく気づいた。目の前に深い亀裂が突然開いたような気分になる。
「兄ちゃんがやられたのは初めてか?」
 居間に戻って傷に絆創膏をはりながら明拓が聞いた。僕が頷くと、
「兄ちゃんには遠慮してたんだな」
 刺のある言い方だった。
 三都子が明拓に暴力をふるったことは何度かあるという。二人ともそんな気配は見せていなかったので、僕は驚いたというよりは薄気味悪い気分になった。
「なんで云わなかったんだ」
「云っても信じないから」
 決めつけられて、僕はむっとした。が、明拓に助けてもらった恩があったので、僕は何も云わずに明拓の言葉を待っていた。
「ばあちゃんの家に行こうよ」
 明拓は真剣に訴えたが、僕の中では母の暴力と明拓の言葉がうまく結びつかなかった。母に殴られたことは何度かあったが、殴られたのは自分が悪いことをした時だけだった。今回も僕が知らない間に何か悪いことをしていたのかもしれない。
 僕はもう少し様子を見ようと云って明拓をなだめた。明拓も反対はしなかったが、気のすすまない顔をしていた。
 母はその日の夕方、何事も無かったような顔で家に帰ってきた。買い物袋から夕食の材料を取り出して、料理を作りだす。その日はまだスーパーのバイトがあるはずだが、途中で帰ってきたのか怖くて聞けなかった。
「手伝おうか?」
 声をかけたが、三都子は全然取り合わない。僕は殴られた理由を聞きたかったが、三都子は黙々と餃子を作っている。
 僕は不安な気持ちで台所を出ていった。居間でTVを観ていた明拓が台所を指差す。僕は首を左右にふった。明拓が台所を窺う。台所からは炒め物の音がする。
 母と三人で夕食を食べ始めた。母はTVに空虚な目を向けながら箸を動かしていた。重い沈黙が占める部屋に、TVの爆笑が白々しく響く。
 餃子を口に入れた時だった。餃子の皮を破ってから、さくりとした歯ごたえがあった。それは噛みきれずに口の中へざらっと広がった。味は無い。口元へ手をやると、唾液の痕を引いた黒い液が指の間を滑っていった。手に張り付いた長い髪の毛を見て、慌てて口の中のものを吐き出す。
 明拓が顔を強ばらせて僕を見つめている。
「なに、これ……」
 母はやはり興味なさそうに僕を振り返って、
「ああ」
 説明するのを忘れていた、とでも云いたげな顔をしていた。
「餃子の皮が一枚余っちゃったから」
 悪ふざけにしてはあまりにも淡白な口調だった。吐き気がする。僕は流しに走っていって、何度も口の中をゆすいだ。
 異様な感触がいまだに口の中に残っていた。僕は流しに置かれた包丁と、焦げが浮いているフライパンを眺め、それから自分の手に目を落とした。ぞっとした。
 今まで母が敵になることなど、考えたことも無かった。毎日当然のように出される食事の中へ毒が混入される可能性だってあるのだということを。母が掃除したベッドに、母がたたんでおいた体操服の袖にどんな悪意が隠されているか、僕は考えたこともなかった。母が赤ん坊だった明拓を蹴飛ばしてしまった時のことを思い出す。僕らはあまりにも無邪気に母を信じすぎていたのかもしれない。最近の母は義眼のような目をしている。母は本当におかしくなってしまったのかもしれない。
 僕は吐き気を押し殺しながら自分の部屋のベッドへ潜り込んだ。

 それから二週間の間、僕は母の影と戦い続けた。家中のすべての布団や座布団の中に埋められた針を探し、母が沸かしたお湯や母が買ってきた食べ物にはけっして手を出さなかった。毎日一日分の食事だけを買って明拓と二人で食べた。買い置きはしないことに決めた。
 僕は半分ノイローゼになっていた。箪笥の着替えの中には針、椅子には画鋲、歯磨きの中には木工ボンド、階段にはロウがすりこんであるはずだと思った。無邪気にコンセントにも触れない。漏電させている可能性があるからだ。
 学校へ行くと、すぐに家に帰りたくなった。風呂を空焚きしていないか、コンロの火を止めてきたか、いつ消防車のサイレンが鳴り出すかと思ってビクビクした。自分がやらなくても、おかしくなった三都子が何かするかもしれない。たとえば、使いかけのアイロンをそのままにして家を出ていってしまうとか。
 僕は家を守らなければならなかった。暴力団に売り飛ばされるとか、親戚中をたらい回しにされるとか、子供のくだらない、過度に深刻な妄想が僕を苦しめていた。

 それ以後、母は明拓や僕に何も暴力をふるわなくなった。が、生活費をなかなか渡してくれず、僕らは給食のほかはインスタントラーメンを食べて過ごした。
 あらゆる場所に母の怒りが充満していた。母の行動があまりにも突飛で掴みきれないために、相手に信じてもらえないのではないかと思って、僕は誰にも相談しなかった。僕らの身に危険が及ぶようであれば、兄弟で母の実家へ行こうと明拓と話し合った。
 母は、僕らを邪魔だと思っていたのではないだろうか。僕はそれが当然だと思っていた。どんなに働いても生活は楽にならず、父親も僕らへまったく関心を持たなかった。だから三都子もこの時期かなり追い詰められていたのではないだろうか。僕らにやつあたりしなければならないほどに。

 5

 三都子の欠点は、悪いことがあると他人のせいにすることだった。だが、アルコール中毒になった父に執拗に苛められたことを考えると、僕は三都子を責めることはできないと思う。特に三都子が記憶を失う寸前は被害妄想が激しかった。
 僕が流しに立って洗い物をしていた時のことだ。
 母の甲高い怒声が風呂場から飛んできた。下着が一枚も無いじゃないの。バスタオル一枚を巻いただけの母は、僕のところへやってくると頬を張った。熱のひかない頬に二発、三発と平手が飛ぶ。声も出ない僕に、母は十発以上両手を叩きつけてから、自分が殴られたようなそぶりで身体を震わせた。
「なんでそんな簡単なことも出来ないの」
 痛むのか、自分の右手を左手で包むように撫でながら、母は僕に怒鳴りつけた。
「私がちょっとでも掃除を忘れただけで文句を云う癖に」
 母の言葉は父や明拓に向けられていた。
「だってお前がちゃんとしないから!」
 母の背後で叫んだのは、眠っていたはずの明拓だった。
「家は他の家とは違うのよ。お母さんしか働けないから、お金だって大変なんだから」
「じゃあお父さんみたいに金取ってこいよっ、偉そうにするなら、お父さんみたいに働けよ」
 明拓の言葉に、母は明拓の後頭部を鈍い音をさせて殴りつけた。そうして急いで洋服に着替えると、母は家を飛び出していった。下着をどうしたのかは判らない。
 明拓は台所の敷居の上に座り込んで、頭を撫でながら呻き声を洩らしていた。心配して声をかけてみると、明拓はついと顔をそむけた。
 しばらく沈黙していた明拓を揺さぶる。
「母親じゃねえよ、あんなブス」
「お前が悪い」
 僕は三都子から聞いた話をしてやった。会社を辞めて結婚した女には、パートのような安い仕事しかないのだと。だからお母さんは大変なのだと云っても、明拓は顔をそらしたまま首を左右にふった。
「あいつ、父親と離婚すればいいんだ。そうすればお金が入るって」
「疲れてるだけだよ、お母さんは――休みも少ないし」
「疲れていれば子供に何をしてもいいのかよ」
 明拓が憎悪にぎらついた目を向ける。かすかに赤い目だった。
「お父さんと一緒だよ、あんな奴!」
「黙れ!」
 僕は瞬時に拳をふりあげた。殴りかかろうとした拳を、明拓の目が寸前で止める。
「ごめん」
 僕は手を引っ込めて謝った。明拓の目に、僕をひるませる何かがあった。怒りでも恐怖でもない、澄みきった空虚な目。
 瞬間、それは激しい痛みに襲われたように歪み、不穏な光で僕を睨みつけると、僕の目に不快感を残して消えていった。

 僕は記憶を無くした三都子に結婚の話を持ちかけたことがある。
 僕は、三都子に告白してからも三都子の態度が変わらなかったことに優越感を感じていた。今は子供の冗談だと思ったとしても、僕が成長したら無視できなくなるだろうと。無邪気で馬鹿馬鹿しい子供の妄想だった。
 学校の帰りに病院へ寄ると、三都子は文庫本を布団に開いた格好で眠っていた。外は暗くなりかけていた。黄色っぽい金色に染まったやわらかな光が、病室の中をおぼろげに照らしていた。
 三都子が目を覚ました。僕を見てはにかむように微笑む。満ち足りた人間が一日の終わりに浮かべる笑みのようで、それを見ていると僕は胸が苦しくなった。
 日常から切り離されて、三都子はようやく平穏な場所にいる。
「もう夕方なのね」
 窓を見上げて三都子は物思いにふける。
「学校もおわりね」
 あたりは静かで、世界の終わりのような感じがした。その空気を僕は壊したくなかった。
「恵くんは好きな人がいるの?」
 三都子は僕にそう訊いた。
「三都子さんしかいない」
「同い年の子のことよ」
「そんなのいない」
 三都子は照れたような苦笑を浮かべて僕の頭を撫でてくれた。
「こんな歳の離れたおばさんじゃ、ご両親も許してくれないわよ」
「結婚なんかしなくていいよ。いっしょにいてくれれば、それで」
「結婚なんていやだわ」
 すねるように三都子は顔をそらした。
「どうして?」
「だって私オーディションを受けたいんですもの。結婚したら女優の仕事なんてできないわ」
「僕はできると思うよ」
「それに、なんとかさんの奥さんや、なんとかさんのお母さんになるの、いやなの。誰かの付属品になるのはいや」
 三都子はおどけて云ったが、僕は三都子の言葉を笑い飛ばすことができなかった。母親をしていた三都子の心に、そんな願いが沈んでいたのではないかと思うと、僕はいたたまれなくなってしまった。
 それでは何故、三都子は仕事を捨てて父との結婚を選んだのだろう。今となっては訊くことも出来ない問いだった。
「どうしたの?」
 三都子は僕の顔を覗き込んで優しく訊いたが、僕は顔を上げることが出来なかった。無邪気な母の顔が、怒りに歪んだ母の顔よりも恐ろしく、また悲しく見えた。

 それから三日後に母の記憶は戻った。
 母が記憶を戻したのは、ふたたび心臓発作を起こして倒れた後のことだった。病院から叔母の香津子へ母の無事が伝えられた後に、三都子の回復のきざしが見えたとして、母の記憶が戻ったことを知らされた。
 いつ終わるかわからない予感に怯えながら、僕は三都子との優しい時間がいつまでも続くことを望んでいた。現実に戻ったとしても救いようのない母の心を過去の幻想が埋めてくれるならば、僕はそのままでよかったのだ。狂っていたほうが幸せなのに、母はどうして現実に戻ってきてしまったのだろう。昔の美貌の面影だけが残っている、カサカサの体に。繕いきれない傷を残した心の中に。
 僕はそれから一度も母に会っていない。歳相応に老け込んでしまったという叔母の話を聞くにつけ、自分の中の三都子を壊したくないという思いが強くなった。叔母は何度も僕に母と会うよう勧めたが、僕がそれに応じることはなかった。母も倒錯した思いを抱えている息子に会いたくはないだろう。
 僕は母と会うのが怖かった。母への思いは海よりも深いところに沈めておきたかった。母が年老いて若かったころの面影を完全になくすまで。彼女の桃のようにやわらかな肌が、枯葉のように朽ちていくまで。

First Edition 1995. 

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