2024 ホタル Melancholy Mellow
スピッツの楽曲にSSを書く 5 ホタル
Melancholy Mellow
左羽さんは美しい人だった。男性からも女性からも思いを寄せられ、幾人もの恋人がいたらしい。
便利屋見習いの僕は左羽さんの話し相手をするために、左羽さんの会社を訪れる。グラフィックデザイナーの左羽さんの会社は白木でできたアトリエのような建物で、オープンスペースの左羽さんの仕事机の横には、銀色の鳥が羽ばたくモビールが吊されていた。
鳥の残像を目で追う。風のような名前の佐羽さんにふさわしい空間だった。窓の外には歓楽街のネオンサインと喧騒が広がっているというのに、左羽さんの部屋にはいつもしんとした砂丘のような心地よさがあった。
――女の身体には抱かれた男の数だけ蛇がいるという話があってね。
さらさらと佐羽さんの声が部屋に響く。空気を撫でるようなゆるやかな声だ。
――だから女は男を増やさないよう気をつけなさいという話なんだけど、それは蛇の多さの話なのかな。
左羽さんはアーモンドのカーブを描く目に陰を落とした。
――一匹のアナコンダと百匹の子蛇では、どちらが危ないのかな?
左羽さんは僕の答えを必要とはしていない。三十歳と二十歳。左羽さんは僕を「王様の耳はロバの耳」の穴のように扱う。
――光は交われば交わるほど澄んでいくのに、色は混ぜれば混ぜるほど汚れていく。そういうものなのかな。
――そうなんですか?
左羽さんはMacintoshのモニターに画像を表示させて、僕にそれを指差した。光の三原色と色の三原色の対比の図だった。中心に行けば黒くなる色の三原色は馴染み深い図だが、光の三原色は混ぜるとまったく別の色に変わる意外性があった。
左羽さんの鬱屈は、混ぜると汚れていく宿命に抗いたい意志の表れなのだろうか。左羽さんの光を透かす瞳には、淵に吸い込まれそうな深みがある。左羽さんはいつも繊細な造りの顔にあわい憂鬱をたたえていた。
そして、それが真空のように人の視線を誘うことに気づいていなかった。
左羽さんは僕を誘って海へ行くことがあった。
左羽さんにとって、海はいつも恋が終わる場所だった。ひとつの恋を終わらせるとき、左羽さんは海へ行く。そして幾人もの恋人の記憶を波に沈めて、左羽さんは別の恋に向かう。
――アニメ好きの人たちが作品の舞台になった場所へ行くのを、聖地巡礼って言うね。
左羽さんはベージュのカシミアのマフラーを海風になびかせて、首をすくめた。やわらかい羽のように、佐羽さんの栗色の髪が頬を滑ってなびく。
――私の場合は、殺人現場巡礼だね。
耳元で風が鳴る。左羽さんはここで誰を殺したのだろう。ロバの耳の穴に徹する。左羽さんによけいなことは聞かない。以前馬鹿なことを聞いて後悔したからだ。
左羽さんにはさまざまな噂があった。ぼくの雇い主である親戚から聞いた、あまりよくない噂だった。
芸能人と関係があった、十代のころに雑誌の読者モデルをしていた。
この建物と仕事の出所も、彼女の実力には見合わないものだ、ということ。
――左羽さんって、偉い人の愛人とかできそう。
以前僕が冗談で洩らしたひとことに、左羽さんは唇にきれいな弧を描いて笑った。
――辛くなってやめたの。
茶色の髪が、モビールを揺らす風にさらさらと流れた。
――あの人にとって、自分はファニチャーになってしまったから。
左羽さんはときどき難しい言葉を使う。勉強が苦手な僕には、その意味がわからなかった。
自分の冗談が左羽さんの嫌な過去を引き出してしまった。やってしまった。気まずい思いでいた。
家に帰って、スマートフォンでそれらしい言葉を探した。
furniture:家具。
左羽さんの真意はわからない。ただ、僕がまだ過ごしていない十年のあいだに、左羽さんは捨てなければならないものをたくさん抱えているのだろう。
潮風に腕を組んで立つ左羽さんの後ろ姿を思い出す。
僕はそのための穴になろう。左羽さんのことばを拾って、ただ無に帰すだけの穴に。
ある日の夕方、左羽さんに呼ばれた。左羽さんは休憩中だったのかひとりでエスプレッソを飲んでいて、僕の姿を見ると十センチくらいの大きさのジュエリーケースを僕に差し出した。
――これ、あげる。
女物の宝石のネックレスだった。銀色のチェーン、緑色の大きな石の周囲をダイヤモンドの砂粒のような石が光線を形作っている。
石の周囲にも蔓のようにダイヤモンドを埋めたチェーンが絡んでいて、細工の繊細さと左羽さんのぞんざいな口調のギャップに僕は息を呑んだ。
――冗談でしょ?
――模造品なの。そんなに高価なものじゃないから。
佐羽さんの顔には灰色の翳りがあった。エスプレッソの苦みでさらに顔をしかめる。
――本物じゃないから嫌なの?
――遺品なの。
左羽さんはさらに身体を丸めてエスプレッソのカップを両手で抱え込んでいる。
――手放したいけど、自分では捨てられないの。
佐羽さんは椅子の上に三角座りをして、身体を腕で抱えてユラユラと揺れていた。
左羽さんが揺れるごとに、左羽さんの心が身体の内側に引きこもっていくようだった。
――捨てるか、質屋に行ってくれる? 少しはお金になると思うから、それはあなたが取っておいて。
うつむいた左羽さんの栗色の髪が小刻みに揺れている。泣いているのだろうか。僕は左羽さんに手を延ばしかけて、宙を掴んだ。
これ以上話しかけられる雰囲気ではなかった。
ぼくはジュエリーケースを手に取ると、左羽さんの会社を後にした。
左羽さんの小さな背中が、僕よりもはるか年下の少女のように感じられた。
僕はネックレスを駅前の質屋に持っていった。決心するまで三日間かかった。
あまりにも高価なものならば、ネックレスは質に入れずに左羽さんへ返そう。そう決めていた。
質屋の店員は四十代後半の女性だった。すこし厳しそうな顔立ちで、金縁の眼鏡をかけている。
――鑑定書は?
――ありません。模造品だと言われました。
女性はルーペで宝石を検めたあと、不審げに首を傾げて僕を斜めに見上げた。
――これは模造品ではないですね。
――本物ですか?
――人工の宝石です。おそらくはイコツの。
――イコツ?
女性はカウンターの奥からタブレットを持ってくると、インターネットで検索した画面を僕に指し示した。
遺骨ダイヤモンド。
――個人の遺骨から作った合成のダイヤモンドです。石の裏側にイニシャルが入っていますね。
女性はルーペで緑の石の裏側に彫られた小さなアルファベッドの文字を僕に見せた。
masami。女性の名前だろうか。
人間の骨から作ったとは思えない、すこし飴色がかった緑の宝石を見つめる。
宝石は幾重にもカットされていて、棘のような光を放っている。
左羽さんはこのことを知っているのだろうか。とても質に入れるような品物ではないと、僕は思った。
――僕は、人に頼まれてここに来たんです。でも、もう一度その人に聞いてみます。
女性は眼鏡ごしに僕を一瞥すると、そのほうがいいと思います、と深くうなずいた。
その日の午後、左羽さんに連絡をして、左羽さんの会社を訪れた。
銀色の鳥のモビールが、空調のかすかな風に揺れている。左羽さんの顔はいつもより白く、僕は、左羽さんの頬が蝋のようだと思った。
――ネックレス、質屋の人に遺骨で作った宝石だって聞きました。
左羽さんのアーモンド型の目が、ゆっくりと細められる。驚きの表情ではない。左羽さんは最初から、その正体を知っていたのだ。
――ダイヤの裏に、女の人の名前が入っていました。知り合いですか?
――親友なの。同い年の。
左羽さんの憂鬱が深い額の皺に畳まれている。
――親友が宝石になって、帰ってきた。
テーブルの上に置かれた左羽さんの白い拳。表情の抜け落ちた顔。僕はただ、吐き出せない巨大な何かを抱えた左羽さんの隣に立って、左羽さんの悲しみを右肩で受け止めている。
「王様の耳はロバの耳」の穴。穴はただ、左羽さんの言葉を吸い込んで、真空の底に返すだけだ。
――海に行きましょう。
――夜になるよ。
――ネックレス、今日じゅうに捨てに行きましよう。
ゆるやかにモビールがふるえる。佐羽さんのきゃしゃな肩がビクリと跳ねる。
僕は左羽さんの心細そうな顔を見下ろして拳を握った。
左羽さんの肩甲骨の羽に、舞い上がるための風を入れなければならない。
左羽さんの車で、海岸へ向かった。夕闇から夜に向かう、透明な青の空気が、砂浜の上にグラデーションを描いている。
浮世絵の空の色だと、僕は左羽さんの背後を歩きながら思う。
――ありがとう。
ジュエリーケースを手にした左羽さんが、波打ち際で僕にお礼を言った。
――私だけでは、ここまで来ることができなかった。
規則正しい波の音が、僕の肩の骨に響いてくる。泣きそうな顔で笑う左羽さんに、僕はただ、うなずく。
左羽さんはジュエリーケースからペンダントを取り出すと、大きく振りかぶって波の向こうへペンダントを投げた。
灰色の飛沫をあげて、ペンダントが濃い色の海へ落ちる。
左羽さんは栗色の髪をなびかせて、遠い目で水平線を見つめていた。
――『赤い靴を履いてた女の子』の靴は、何でできていたか知ってる?
童謡の冒頭を、佐羽さんはさらさらとした声で歌った。
――女の子はまた、赤い靴になって戻ってくるの。
左羽さんの言葉の意味が、僕にはわからなかった。ただ、左羽さんがその言葉を必死で吐き出していることだけは、左羽さんから伝わってくる空気で感じられた。
左羽さんはどれだけの思いをその小さな身体に呑み込んで生きてきたのだろう。
三原色の円を指し示す左羽さんの指先を思い出す。
左羽さんを家具のように扱う恋人、若くして宝石になってしまった左羽さんの親友。
幾人もの恋人の記憶もすべて海の底に沈めて、光のように透明に澄んでいってほしい。
――これで、ここは左羽さんの聖地になりましたね。
僕の言葉に、左羽さんはあどけない瞳で僕の顔を見上げた。
――聖地巡礼、何度でもいっしょに来ますよ。
左羽さんが目をみはって口を引き結んだ。いつものきれいな弧ではない、壊れそうな笑みを浮かべる。
左羽さんの瞳に涙が光の膜を張った。表面張力で丸く盛り上がるガラス玉から、ゆっくりと雫が落ちる。
――うん。
佐羽さんは大きく頷くと、顔をくしゃくしゃに歪めて泣き出した。涙で頬にまとわりつく髪を何度も指で払いながら、丸めた肩をふるわせる。
僕は左羽さんの背中に手の平を置いて、左羽さんの振動を感じながら空の端にかかる満月を見上げた。