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文字書きさんに100のお題 066:666
タイラント
『お前は俺を裏切っている。お前が裏切っていなくても、俺がそう思ったのだから同じだ。なぜ俺にそう思われるようなことをしたのだ。お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い』
ぼくが彼を裏切ったことはない。が、そのような流言が彼のもとに届き、その日からぼくは地獄のような日々を過ごすことになった。
カフカの小説の主人公になったような気分だった。一日が永遠のように長く、夜になるとようやく今日が終わったことに安堵する。が、また彼から殴打され、ひきずりまわされ、殺されつづける日が来るのだ。ぼくは彼に捕えられている。彼から逃れるすべは死だけだ。
いつか死のほうが楽だと感じる日が来るだろうか。
ぼくはやがて、彼の目に自分がうつっていないことに気づいた。彼に見えているのは自分だけで、ぼくは彼の背景の木、あるいは、彼が飼っている猫のような存在にすぎない、と。
彼にとって、ぼくがほんとうに裏切ったかどうかはどうでもいいことなのだ。彼を不安にさせたことがぼくの罪で、ぼくはそれを全身全霊をもって償わなければならない。
彼は自分に対する疑念をおおいかくすために、ぼくが彼を裏切ることを必要としている。ぼくに裏切ってほしいのだ。
どうして彼はそこまで自分に自信がないのだろうか。周囲の人から特別扱いされ、賞賛されつづけないと、彼はとたんに不機嫌になる。彼の弁舌に対抗する人間は生意気。彼の言うことをきかない人間は愚鈍。彼の思想を認めない人間は馬鹿。彼の世界ではそうなる。人の悪口を百回言っても飽き足らず、しかし悪口を言った本人を前にするとなにも言えなくなる。そんな小心なところがある。
ぼくを思う存分たたきのめすと、彼は酒を飲んだように快活になる。ぼくが彼のまえでうちひしがれ、口も利けないようなさまになるのが、彼はたのしくてならないらしい。
ぼくは頭を垂れて考える。こうやって、弱い者は強い者に幾度となく殺されてきた。ぼくの足元には、幾千もの殺された遺体が積み重なっている、ぼくだけではない、と。
彼に蹂躙されているあいだ、弱い者のことを考えよう。虐待されてぼくによりそう彼の猫、ぼくが食べてきた魚、ぼくが足元で踏んでいるアリのことを。ぼくも彼と同じように弱い者を殺してきた、だからぼくが彼に叩かれるのはしかたないことだ、と、何度も子守り歌のように考えよう。考えることは自由だ。ぼくの思考を殺すものは誰もいない。
彼はあらゆるところに糸を張り巡らせてぼくを見張っている。ぼくが彼の悪口を言っていると思い込んで、彼は夜も眠らず、家の外を見張りつづけている。
ぼくは見張られているという恐怖に怯え、外も歩けない状態になった。そのぼくをさらに打ちのめすように彼は言う。お前は自分で自分を悪くしているのだ、自分を悪くしている原因を考えろ、と。
ぼくは夜も眠れず、息をするのも苦しくなり、病院へ通うことになった。医師はぼくに思いすごしだといい、鎮静剤をくれた。
ぼくを苦しめる者がいるということが、ぼくの妄想だと彼は言う。俺がお前を苦しめるわけがないだろう。お前は病気ではない。お前が俺を裏切っているから、お前はそんなに苦しんでいるのだろう。早く吐いて楽になれ。彼は言う。
それこそが彼の望みだと、ぼくは知っている。ぼくに嘘をつかせ、ぼくの尊厳を完全に失わせることが。彼が正しく、ぼくは間違っている。そして彼がいなければ、ぼくは駄目になるとぼくに悟らせることこそが、彼の望みなのだ。
ぼくは自分がおかしくなっていると思っているが、ほんとうにおかしいのは彼のほうではないだろうか。ぼくは医師にそう聞いた。医師はこともなげに言った。
『彼は存在していません。あなたのつくりあげた妄想ですよ』
First Edition 2006.3.11
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