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文字書きさんに100のお題 028:菜の花

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 豊(ゆたか)は恋人の静(しずか)とともに菜の花畑の迷路を訪れた。
 春先、休耕田を菜の花の迷路に仕立てた農園には、家族連れの観光客が数人いた。小さな子供たちにとっては先が見えない迷路である。豊は自分の太股で揺れている黄色い花々に、警戒するような目を向けた。
「子供のころはがガチの迷路だったのに、変わるんだな」
「だから実際に来ればいいって言っただろう?」
 静が豊の肩を叩いて迷路の内側へ入っていく。
 幼稚園の遠足で、豊はこの農園を訪れた。自分の目を覆う明るい黄色の迷路で母親とはぐれて、豊は泣き出してしまった。それ以来、菜の花を見ると黄色い壁を思い出す。その記憶が半ばトラウマになっていた豊へ、静は海辺へドライブに行くついでに迷路に行こうと切り出した。
 ――苦手な記憶は上書きするんだよ。
 今は迷路の道が行き止まりでも、先を見渡せば進路が見える。豊は、後ろをついてくる静を従えて、迷路の出口まで早足で歩いていった。
「意外と簡単に抜けちゃうもんだな」
 迷路の出口で、豊は菜の花畑を振り返った。子供のころは広大に見えていた迷路が、今はすこし物足りない。
「もう一回迷路に入ってもいいな」
「トラウマは克服した?」
「おかげさまで」
 静は豊の隣に立ってにこやかに春の風に吹かれている。
「ついでに俺の家に行こうか」
 豊は静と同じ病院の同じ病室に入院していた。豊は面会に来ていた静の母親に会っていたが、静の母親はふたりが付き合っていることを知らない。
「友達としてなら、行くよ」
「恋人として紹介するんだよ」
 静の微笑みに、豊は身体を硬直させた。息子にいきなり男の恋人を連れて来られたら、両親はパニックになるのではないだろうか。
「もう母親に豊のことは言ってあるんだ。病院の戦友で恋人だって」
「お母さんは何て言ってた?」
「きちんと話をしたいから連れて来なさいって」
 背中に鳥肌が立つ。嫌われてはいけない人に嫌われるのは怖い。今日の静は、自分にどれだけ怖い思いをさせるのだろう。
 豊は菜の花の迷路を見下ろした。自分の目を潰してしまうような、鮮やかな菜の花の黄色。
「実際に会ってみれば、大したことないんだよ。今まで豊にとって菜の花は、心のなかの怪物だっただろう? それが今は自分の腰よりも低い、単なる花だ。僕のお母さんも同じだよ。会ってしまえば、心のなかの怪物じゃなくなる」
 静が豊の肩に手を置いた。
「豊の心の怪物を育てているのは、豊だよ」
「……でも、本当に怪物だったらどうしよう」
「豊は強くていい奴だ。家のお母さんもわかってくれる」
 静の優しい笑顔にしばらく見とれ、自分の顔の火照りを冷ますために空を見上げた。空は高く澄み、太陽が絹雲を従えて輝いている。
「……もし、お母さんが俺のことを許してくれなかったら?」
「それでも僕は豊から離れないから」
 静は穏やかに笑いながら静の肩を叩いた。怖くないと言えば嘘になる。が、今後のためにも、静の母親とは会っておいたほうがいいのだろう。
「わかった。いっしょに行く」
 豊がうなずくと、静の笑みが深くなる。
 心のなかの黄色い壁を乗り越えるために、豊は腕を開いて大きな深呼吸をした。

First Edition 2021.4.5

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