昭和のおもひで
故ドナルド・キーンに捧げる(ごめんなさい)
食べることが好きで、料理が好きで料理を食べている人が出てくる本をたくさん持っていた。
レシピ本が好きなわけではない。
食関連のテレビ番組も好きで時々みる。
大食いや無理食いは好きではない。
NHKの『サラメシ』を時々みる。
ちょっと前の『サラメシ』に日本に帰化した故ドナルド・キーンが登場していた。
すごいアメリカ人だなぁ、と思いながら三島由紀夫について書いている本を読んだことがある。
大学時代、練馬の陽当たりの良い四畳半の部屋で万年床に寝転び読んでいた。
気になるアメリカ人だった。
社会人になり、三十代の私はドナルド・キーンと出会った事がある。
その時はゼネコンの駆け出し営業マン、大阪支店で誰も近づきたがらない鬼のような部長の下で営業の勉強をしていた。
というより、言われた事だけをやっていた。(それ以外は出来なかった、やれば非常に機嫌が悪くなった。)
何校かの学校法人との付き合いがあった。
その中で北摂の女子大の資料館を建設した事がある。
たくさんの歴史資料や文学資料を持つ理事長の念願の資料館だった。
平山郁夫に大きな壁画を描かせた。
その時は会社の持つ体育館を壁画制作のため使ってもらった、とにかくたくさんのお金と、たくさんの知識人との付き合いのある理事長だった。
そしてある時、ドナルド・キーンを呼び講演をしたのである。
私はその時も手伝いをさせられていた。
とにかくゼネコンの営業マンはなんでもやらねばならない。
目の前に見るキーンさんは可愛らしいおじいさんだった。
私はキーンさんの目の前に座りその講演を聞く栄誉を与えられた。
しかし、しかしである。その日は付き合いで朝まで飲んでいた。その前の日は鬼部長の指示で朝まで自宅で資料を作っていた。
極度の睡眠不足だったのである。
何の講演だったか覚えていない。
一時間は耐えた。しかし、残りの一時間は私は目を開けたまま気を失っていた。
たぶんキーンさんにはわかっていただろう。
そしてたぶんキーンさんの目の前で居眠りをしたのは私ぐらいのものであろう。
東日本大震災の後、多くの在日外国人は日本から離れた。
そんな中、キーンさんは帰化した。
日本人以上に日本を愛した人であった。
キーンさんが好きだったイタリアンレストランが出ていた。
そこのニョッキが大好物だったそうである。これもまた可愛らしい、他のことをしながら横目で番組をみながら三十年以上も前のことが鮮明に思い出せた。
今となったら笑いながら話せる懐かしい出来事であるが、ニセ文学青年の当時の私にはあまりのショックでその晩もまた眠れなかったのである。
懐かしい昭和が終わりかけている頃の思い出である。