食べてみたい練り物と、
練り製品で思い出すもう一度食べてみたい味がある。
昭和40年代前半であろう。母の手に引かれ兄と私は近所に在った広い空き地に毎月一と五のつく午前中に立つ『市』に必ず行った。たくさんの屋台の並ぶ市は子どもの私にとって当時まだ行ったことのない遊園地の中を歩くような感覚だったと思う。その中に練り物屋があった。大きな鍋に黒くなった油が煮えたぎり、そこで魚のすり身を揚げていた。ここにあった餃子巻きが妙に美味かった。兄と私は二つずつ買ってもらいその日の昼メシのオカズになった。本物の餃子を今のように思う時に口に出来る時代じゃなかった。我が家ばかりではなく世の中全体が豊かではなかったと思う。
でも母は私たちにできる限りの事をしてくれた。
その一つがこの餃子巻き二つずつでもある。帰って食べるそれはまだ温かく、電子レンジなどまだ無かった当時、冷えたご飯と共に食べた味を忘れることが出来ないのである。
この忘れることの出来ない餃子巻きの他にもこの市では食べたくとも食べることのかなわなかった食べ物がある。
『市』、平成元年生まれの息子に話してもピンとは来ないと言う。まだスーパーマーケットなどは無かった。
母は食料品を中心に日用品を買い求めていたのだろうと思う。母が何を買っていたのか憶えていないが途中飽きて帰りたがる兄のために必ず団子を買ってくれた。団子屋の屋台は市の入り口にあった。当然最後にその団子屋の前を通る。
買い物の途中、「もうすぐお団子よ。」と母に言われて兄も我慢して歩いたのだ。団子屋にたどり着くと兄は『きな粉』、私はいつも『みたらし』だった。焦げのある香ばしい『みたらし団子』を一本だけ買ってもらって帰り道を歩きながら頬張ったのが懐かしい。障害を持つ兄は我がままであった。そしてその我がままはいつも通った。兄はいつも二本の団子を両手に持って帰った。
母は私にもう一本頼むように言ったがかたくなに拒否をした。母がどうして自分の分を買わないかを知っていたからだ。
そして甘い『きな粉団子』は女の食べ物だとうそぶいた。実は『きな粉団子』の横に並んでいた『わらび餅』がずっと食べてみたかったのに。でも、ゼロの一つ多い『わらび餅』のことを母に言えるよしも無かった。私の口に入ることの無い、憧れの『わらび餅』であった。
当時、市の立つ広場も行き帰る道路も未舗装であった。冬のある日、乾いた風が砂埃を舞い上げて兄の『きな粉団子』に新しいきな粉をなでつけた。
兄は泣き、私はいつまでもそれを黙って見ていた。
北風の吹き出すこんな季節に思い出す。
切ないが懐かしい思い出である。