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観測員の手記

結局のところ、田舎の生活を維持するというのは国家としての贅沢だったということになる。「地方創生」が叫ばれた頃はまだ誰も人口減少というものを本気で捉えていなかった、とも言えるだろう。

僕が赴任したこの観測所が設立されたのは、ちょうどその「贅沢」が崩壊し始めた時期だった。国全体で予算が削られ、都市部にリソースを集中させる方針が強まる中、地方のインフラは次々に手放されていった。鉄道は廃線、バスも廃止、水道管の維持も困難になり、自家井戸や雨水タンクを利用する家が増えた。電力も不安定で、停電はそう珍しいことではなくなった。

地方創生の大きな意図であったはずの一極集中の緩和も、医療サービスの効率化という圧倒的な実利の前には簡単に道を譲った。一次産業、特に食料生産は国家安全保障にとって重要だという議論は、各地の小さな農家を活かす方向ではなく、大資本による大農場を支援する形で決着した。農業に携わる人間が減ることで農業の生産量が上がったというのは、ちょっと皮肉だ。

人口10万以下の都市が全て強制的に合併された後、しばらくすると人口はある程度集約化されていったが、結果として国内には広大な人口超低密度地域が発生した。僕がいる観測所は、そうした“空白地帯”に点々と設置されている施設のひとつだ。もとは町役場だったらしいが、今は僕のような観測員が5名滞在するのみだ。

防災や環境保全の観点から、定期的に各種センサーのチェックを行い、データを送信する。ドローンや自動化された観測装置もないわけではないが、それらを維持する手間を考えれば、まだ僕のような人間が常駐してこまめに面倒を見るほうが安上がりなのだそうだ。ここに来て14ヶ月目。この任期は2年だから、まだ先はある。

最寄りの地方都市までは四駆の自動車で1時間半ほどかかるが、途中の道は管理されておらず、倒木や土砂崩れは珍しくない。そうした障害物をどけたり、簡単な補修をしたりするのも基本的には僕の仕事だ。もちろん、大きな災害があれば一時的に専用のチームが派遣されることもある。とはいえ、そう頻繁に来られるわけではない。

僕ひとりでは何もできないと嘆くこともあるけれど、実際は身の回りのことからコツコツと手をつけていけば、案外なんとかなるものだ。それに、意外と不便でもない。オフグリッド技術の発展は数百世帯を賄うには至らなかったけれど、観測員程度が定期的な補給を受けながら暮らすには十分だ。衛星を通してネットも繋がるので、困ることはあまり多くない。

観測所の生活はシンプルだ。毎朝、通信回線がまだ安定しているうちに前日のデータをまとめて送る。消耗したセンサーや計測装置を取り替えたら、必要に応じてログブックに記録を残しておく。山を回ってセンサーや観測ドローンの着陸ポートを点検しつつ、途中で見つけた野草や山菜を夕食にすることもある。狩猟を嗜む観測員仲間もいるが、僕は弾薬や装備を管理するより、足元に生えている食べられるものを探すほうが性に合っている。

観測所には最低限の発電設備がある。ソーラーパネルと風力タービン、それに補助的なバッテリーでやりくりしながら暮らす。天気が悪い日が続くときは電力が不安定になるが、それでも電気が途切れても慌てることはない。冷蔵庫の電源は落ちないよう調整してはいるものの、冷凍食材もさほど多くはない。米や乾燥パスタ、缶詰が主体だが、ときどき採ってくる山菜を煮込んでみると、思いのほか食卓が豊かになる。

夜は静かだ。風の音だけがときどき窓を振動させる。灯りを落として外を見れば、家の周りに明かりはない。近くの道路は山の稜線に沿うように伸びているが、ここまで車が来ることはほとんどない。晴れた日には満天の星が広がり、見上げていると、自分がやっていることの意味なんてよくわからなくなる。しかし、そう考えても特に困るわけでもなく、いつの間にか思考は途切れて、いつも通りに眠りに落ちる。

以前、データを受け取る側の研究者がこの観測所を訪れたことがあった。引率の担当者が「こんなところまで来てくださって」と何度も恐縮していたが、その研究者は淡々と予定の調査を済ませ、翌日には都市部へ戻っていった。後日に送られてきたメールには、僕のメンテしたセンサーの管理状況を褒めるひとことが添えられていた。それを読んだとき、ちょっとした誇りを感じたのは否定できない。

こんなふうに、ここで暮らしながらデータを集めていると、不意に奇妙な充足感がわいてくることがある。僕が集めるデータにどれほどの意味があるのか。広範囲にわたる自然災害の早期発見になるのかもしれないし、大気や水質の調査の一助になるのかもしれない。実際のところ、それが本当にどれほどの意味を持っているのか、僕には分からない。分からないけれど、時間だけはゆっくりと流れている。

僕の任期はまだ残っている。データを送り、それからセンサーを点検し、山道の倒木を取り除いて、合間に山菜を摘む。それだけの日々だが、いまのところはそれを続けていくことに不満はない。春先には雪解け水が増えて、夏には高温と害虫が増える。季節に合わせて少しずつ仕事のやり方を変えるだけだ。今夜も、もう少しデータの整理をしたら、ランプを消して寝るつもりだ。

窓の外の暗闇が静かに広がっているのを感じながら、呼吸を整えてベッドに入ると、明日もまたいつも通りに太陽が昇ってくるのだと思う。僕はここで、その太陽を見上げる。たぶん、それで十分なのだろう。

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