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知床・熊・鮭 2023
秋田でイベントがある日、ホテルでいつもより早く目が醒め、何となくテレビのスイッチを入れた。知床の映像が流れていた。秋に産卵のため上ってくる鮭を熊が冬に備えて捕獲し食料としている映像である。その映像を見ながら、残酷なという日頃の感じはなく、ふと「輪廻」という言葉に近い感覚を感じた。
悠久の時間のなかで「喰う、喰われる」そのことは「現在」という時間の中では「喰う、喰われる」という意味にはなるが、いつかは逆転し、また逆転し、というような際限ないくり返しの時間の情景である。
熊は鮭であり、鮭は熊であるという「入れ替わった」姿とでもいうような、そんな不思議な感覚である。
もしかしたら人間の「性愛」の行為に近いものでもあるかもしれない。
宇宙の中で「一瞬」の「合体となった幻想」を、知床の熊と鮭の映像を見ながら、後から思いかえすとそんなことを感じていたようだ。
ある小冊子に寄稿したものである。面白いのは、その時には特段に意図もなく書き残していたのだが、後年ふとした瞬間、急にその書き残した文章が意味をもちはじめ、納得している自分がいる、そんな経験がしばしばある。「知床・熊・鮭 2023」はその時のものである。
青森へのいざない 三浦雅士
狩猟採集文化というのは、どうしても生と死の一体性を主題にせざるをえません。人間が生きていくためには動物を殺さないといけない。生は同時に死であり、死は同時に生であるということを、日々深いレベルで痛感せざるをえなかったということです。これは新石器初期の文化の特徴ですが、日本列島の東北には、これが洗練されたかたちで発達をとげ、いまに至るまで生き残っています。
たとえば東北の盆踊りを見ていると、どこの盆踊りよりも異様な感じがします。それは仏教に取り込まれる以前の原型をとどめているからで、古くは、あの世から死者がやってきて、生きている人といっしょになって踊る祭りでした。
音楽や科学とシンクロする国家 縄文聖地巡礼 中沢新一
国家が発生する前と後をつなぐ蝶番があって、おそらく吉本隆明さんが言うところの「対幻想」とも関係するんですが、それはセックスだと思うな。・・・仮面の発生や音楽の発生と同時に、男女の性的な結合という幻想形態があって、王権が発生するポジションにひじょうに近いのがセックスなんですよね。天皇制の根源には、性の問題、対幻想があるというのは明らかです。
もともとセックスと食べる行為の関係はすごく深い。
ケガレというイメージはない。むしろ、いとおしいものの命をいただく、つまり同化するという気持につながる。
愛情の対象を引き裂いてひとつになるという、ここがまたセックスと深い関係が。
縄文人にとって動物は敵でもあったけど、同時に自分たちの兄弟でもあった。近代人がなぜ人肉を食べることを恐怖するかというと、その感覚がなくなったからですね。
昔の人が、敵を食べるのは、実存として見ているから。
考える身体 三浦雅士
儀式とはつねに性にかかわること、いや、儀式の根源とはじつは性のいとなみにほかならないことが明らかにされていたのだ。・
ダンサーはまず男か女であり、人間であり、生命であるといったふうだ。極論すれば、性別さえはっきりしていればいいといったふうである。しかも、最後にはそれさえも無化してしまう混沌が現出してしまう。
性のさなかにあっては、人はたんなる男であり女であるにすぎない、というように。だが、ペジャールが提起しているのは、性の問題である以上に根源的な身体の問題であるように思える。人は、身体のあるレベルにおいて匿名性のなかに消え、またあるレベルにおいて固有性として立ち現れる。
動的平衡 福岡伸一
「動的平衡」の観点から生命を見ると、生命の見方というのはだいぶ違って見えます。つまり、生命を精密機械だと見ていたんですけれども、動的平衡で見ると、絶えずさまざまなものを環境からもらいつつ、絶えずさまざまなものを環境に返しているわけです。人間以外の生物は、一切ゴミを出さないんです。排せつ物も自分の体も、卵とか蛹(さなぎ)とか巣であっても、必ず他の生物に手渡せる形で排出・排せつ、あるいは手渡しているわけです。つまり常にパスを受けつつパスを返している。絶えず動的な平衡を受け取って、渡すということをしているわけなんです。この受け取って渡すということは、常に「他者の存在を考える」ということですね。「他者のために生きる」ということにもなります。
つまり、植物は非常に利他的にふるまってくれているわけです。これが地球を支えているわけで、他の動物生物も食う・食われるというような関係にあっても、自分の生命の一部もしくは全部を、誰かに手渡しつつ全体としてバランスが取れている動的平衡状態にあるわけです。つまり動的平衡というのは「生物が利他的である」ということも教えてくれているというふうに私は思っています。