もうひとつのワールド・ベースボール
若いアスリートは、競技大会への抱負を語るとき「楽しみたい」「楽しんできたい」といつごろからか、ものおじせず語るようになった。指導者も周囲の大人たちも同様な思いのようで、私たち世代から見れば潮目が変わったように感じられる。多分わたしたちの時代であれば、指導者や先輩から、それこそ理由もなく鉄拳を浴びていただろう。民主主義の教育を手さぐりに学んできた世代ではあるが、「体育会系」の風潮は依然として近年まで続いていた。いまはどのような状況にあるのか知る機会もないが、メディアなどで知る限りでは、最後のあがきか、時々、事件になって報道されている。
今回のワールド・ベースボールの帰国記者会見で岡本選手が「こんなに野球が楽しいとは思わなかった」と記者の質問に答えていた。
なぜか人間は、老若男女を問わず、スポーツに歓喜し廃れることがない。おそらく太古から人間は、終わることなく歓喜し乱舞してきたと思われる。グッツや鳴り物は、時代の変化はあるとしても、基本的には、立ち上がり、飛び跳ね、大声を出して乱舞する光景は変わっていない(たぶん)。宇宙船に乗って宇宙に旅立とうとする時代になっても、少しも変わらないのである。
舞踏の円環と山口薫「おぼろ月に輪舞する子供たち」
絶筆「おぼろ月に輪舞する子供たち」。
ここにはこの世とあの世のあわい、目にみえるものと見えないもののあわいの、時空を超えた不思議な情景が描かれている。
考える身体 三浦雅士
舞踊と円環の関係は古い。人は大昔から輪になって踊ってきた。舞踊とはむしろ人々が輪を作る手段だったといっていいほどだ。
子供は輪になって踊る。なぜか。それは自分が他人でもあることの直接的な表現だからである。
五味太郎
だが、小児の遊戯のなかにこそ、最大の精神の治療を見出すことができるのではないか、と、問い返すこともできる。まさにその、果てしない反復において。(中略)小児の反復は、そのほとんどが、胸を抉るほどに率直な喜びの表明ではないか、と。にもかかわらず、この悲しみは、なぜ、と。
「ああ気持ちいい!」という子どものころの原体験
内田
僕は、子供の原体験というのは絶対的快感だと思うんですよ。「ああ、気持ちいい!」っていう。僕らが子供の時代だと、夕焼けをぼおっと見てる時に、お豆腐屋さんのプーッていうラッパが聞こえて、薪の焼ける匂いがしたりしましたよね。そういう時に、「ああ、すごーく気持ちがいい」と思うってことあったでしょう。たぶんその時の身体ってすごくいい状態だったはずなんです。肩の力がスッと抜けて、体軸もまっすぐで、どこにも力みも詰まりもなくて。この時の「ああ、気持ちいい」っていうのが、その後生きて行く時、最終的に絶えず参照していく原点になると思うんですよ。
橋本
俺そのね、「ああ、気持ちがいい」を思い切り表現したことが一度だけあります。近所の子たちと知らない原っぱに遊びに行ったんですよ。そしたら地元の子らしい小さな子のグループがもう一つ来たんです。しばらく別々に遊んでる間に、どちらからともなしに「一緒に遊ばない?」ってなって、二十人ぐらいで遊んでね。知らない人とこんなに遊べるんだっていうことが、みんな子供心にもすごくエキサイティングだったんですよ。やがて林の影に日が落ちて暗くなったからもう帰ろうということで、「じゃあね、さよなら」って言って、林を抜けてフッと顔上げたら、真っ赤な夕焼けなんですよ。で、「ああ、きれい」って言うかわりに、みんなでいつの間にか「夕焼け小焼けで日が暮れて」って大声で歌いだしちゃったんですよ(笑)。
まるで子供が出てくる映画のワンシーンなんだけど、そんなの子供が見ててもわざとらしいと思ってたわけですよ(笑)。でもほんと自然に、みんなで歌いながらね、ズーッと歩いちゃったんですよ。さすがに俺も五年生か六年生だったから、何かとんでもないことやってるのかなって思ったんだけど(笑)。
内田
子供の時の感動って、疑いえない原体験じゃないですか。今のお話で言えば、見知らぬ者同士の間に、確かな連帯感というものがありうるっていうことを、知っている人間と知らない人間とでは、その後の生き方がもう決定的に違ってくると思うんですね。
橋本
ほんと違いますよね。教えてもわかんないもんね。
「橋本治と内田樹」より
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