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切り絵 つづき
近くの書店に注文していた本を受け取りいったが、書棚に目をやったら別冊太陽「河合隼雄」があったので、つい購入してしまった。
家に帰りパラパラめくたら
河合隼雄 別冊太陽
この宇宙のなかに子どもたちがいる。
これは誰でも知っている。
しかし、ひとりひとりの子どものなかに
宇宙があることを、
誰もが知っているのだろうか。
それは無限の広がりと
深さをもって存在している。
「子どもの宇宙」
という文があり、いつものように触発されたのか、いろんなことがいったりきたりしだした。どうも先般の柴田あゆみさん「切り絵」にもつながりがありそうなので、「つづき」ということで追記することにしました。
最初に「つながり」について高橋源一郎さんと中沢新一さんによる「さわり」をお書きしておきます。
高橋源一郎さんの著書に「これは、アレだな」(毎日新聞出版)というのがある。
しかし、ほんとうに、この世界は、「これか、アレか」で分けられるものなのだろうか。「これ」と「アレ」の間には、無限のグラデーションがあるのではないか。最近、そんなことを考えるようになった。
みんなが「こんなこと初めてだよ!」とか「こんなの初めて見たよ!」というなら、あえて「いや、おなじことは、前にもあったんだよ」と呟いてみたくなったのである。つまり「これは、アレだな」と。
楽しいことや心はずませることがある。びっくりすることやワクワクすることがある。その逆に、ガッカリすることや悲しくなることや恐怖を感じることもある。だが、そんなとき、わたしは、いつも、こう思うようにしている。「こんなことって、前にもあったんじゃないか」って。
古代から来た未来人 折口信夫 中沢新一
別化性能と類化性能
折口信夫は人間の思考能力を、「別化性能」と「類化性能」のふたつに分けて考えている。ものごとの違いを見抜く能力が「別化性能」であり、一見するとまるで違っているように見えるもののあいだに類似性や共通性を発見するのが「類化性能」であり、折口自身は自分は「類化性能」がとても発達していると語った。
アナロジーは内からみる
類化性能というのは、アナロジー思考
それは別々のもの同士をつなぐことで、いままでにない新たな発想を生み出す思考方法
「類化性能」とは、いまの言い方をすれば「アナロジー」のことであり、詩のことばが活用する「比喩」の能力が、それにあたる。ひとつのものごとを別のものと重ね合わせることによって、意味を発生させるやりかたである。
バリ島の老人 世界街歩きBS
おそらくバリ人は、あの方の創造物だと確信しているんだよ。
私たち人間もね。
本当は私たちは何も持ってはいない。
バリのヒンドュー教徒にとって
すべての自然は神様のものであり
私たちは神の中にあって
神も私たちに中にあるんだよ。
考える身体 三浦雅士
舞踊と円環の関係は古い。人は大昔から輪になって踊ってきた。舞踊とはむしろ人々が輪を作る手段だったといっていいほどだ。
子供は輪になって踊る。なぜか。それは自分が他人でもあることの直接的な表現だからである。
だが、小児の遊戯のなかにこそ、最大の精神の治療を見出すことができるのではないか、と、問い返すこともできる。まさにその、果てしない反復において。・・・一小児の反復は、そのほとんどが、胸を抉るほどに率直な喜びの表明ではないか、と。にもかかわらず、この悲しみは、なぜ、と。
壷中
中国の故事に由来するこの言葉には、「小さな壷の中にある別天地」という意味があり、江戸時代には茶道における茶室がこの言葉でたとえられていた。
至宝を壁に囲まれた小さな茶室の中で、壮大な思想が生まれ、無限の宇宙を感じる。
生態学的建築をめざして 槫沼範久
―建築とギブソンの生態学(アフォーダンス)ー
こ れは新しい環境―自然環境とは区別される人工環境―ではなく、同じ古い環境が人間によって改変されたのである。まるで二つの環境があるかのように、自然環境と人工環境を分離するのは間違っている。人工物は自然の,物質から造られる必要がある。まるで物質的産物の、世界から区別された精神的産物の世界があるかのように、自然環境と文化環境を分離することも間違っている。いかに多様でも、ひとつの世界しか存在しない。(中略)環境はいわばワンルームなのだ。(中略)未来の生き物、未来の人びとが、 このワンルームにつぎつぎと入居してくるのだ。これは決して比愉ではない。