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2021/10 statement

 自分と他人との境界線、自分の内側と外側の世界の境界線を探している。
自分の肌から内側が自分ということでも、自分の肌から外側が自分の外側というわけではないはずだ。
それならば「自分」という形はどんなものなのだろうか。
「他人」の形は私の目に見えているものが本物であるとは言えない。

 私は私自身が女性であることに罪悪感を抱いていた時期がある。
それは私自身のジェンダーが女性ではないとか、女性に生まれたことを悔やんでいるとか、そういうことではなくて自分が女体を持つ人間だということに罪悪感を持っていた。
例えば私が他人のことを好きになる時、他人から好かれた時、それは私が女であるからなのか、厳密に言えば女体を持っているからなのかわからなくなってしまう。私が異性愛者であるかどうかは関係ないとしても女性として生きていて女体を持つ者として扱われることの多さには不快感を感じざるを得ない。私自身も男性を男性として見てしまうことにうんざりとしてしまう。
動物的な本能で男性が女性を、女性が男性の性を求めることは自然なことである。
しかし、私たちはホモ・サピエンスと呼ばれる形を保ちながら感情や思考を持ち知恵のある動物として生き続けて約20万年。もはやただの動物ではなく繁殖を目的として生きているわけでもない。
 私たちは性別や肌の色で分けられる前にただ個として存在する。多くの人が自分や他人との境界線を見失っている。人々は個でいることが不安で“同じ”になりたくて自分と他人の一線を越えようとしてしまう。得体の知れないものが恐ろしくて他人を一緒くたにしてしまう。そして他人を取り込もうとして拒否反応を起こす。

 幼い子どもたちは自他の境界線が曖昧である。男女という認識もほとんどない。そんな彼らの存在を羨ましく思ったこともあるが、彼らは知らないだけの愚かな存在でもある。大人はそれになることはできないし、もう許される時期にはいない。しかし現代の子どもたちは周りの大人たちによって早急に大人になることを求められている。子どもの時代に子どもでいることを本人たちの意思とは関係なく許されなくなっている。
器だけ成長した人間はまるで肌色の液体が入った袋である。かろうじて形を保っているが、一度その袋が破れてしまえば液体と化して形を見失ってしまう。

 自分の顔を直接見ることができないように、自分自身で自分の輪郭を認識することは難しい。自分の輪郭を認識するには、外側から見ることができる他人の存在が必要である。
自身の輪郭を成形するためには内側からの刺激だけではなく外側の刺激がなくてはならない。そこで一番初めの議題へと戻る。自分の内側と外側の境界線はどこだろうか。
 私は私として存在していたいし、私は私として誰かに認識されたい。そして私はその人をその人として扱いたいし、その人をその人として愛したいのである。

2021/10 加賀谷真秀

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