re:余映
雑記 投光
『まどろみと……』の一文が”幸せ”であるかのように言うも、その直後に“罰”としてそれを受容し続けようとしている。ただ、その後の文脈を見るに、罰の内容を自ら選択しているような表現をしていることから、この罰が“罰”ではなく“幸せ”であるとも読める。
『ここが海の底だったら……』でも、大いなる静寂の中で不動たることを幸福としている。これは先の一節と同じだろう。ただ、私は泳げないのなら、海でくらげは溶けないし、あぶくは跳ねないのではなかろうか。
『幸せが目の間にあると……』にて、幸せを自ら壊したい衝動を抑え込むような心情を述べている。つまり幸せを壊すことを理性では望んでいない。
幸せを罰と称することで、「幸せの甘受」を「償い」かのように誤魔化す。ただ、自らを狡い大人と称している以上、それは然るべき狡さなのだろう。
そして、このように評することは、きっとやさしくもないのだろう。現に私は身に力を込め硬くなって怒りを顕にしている。ただし、私は子供ではない。何故なら、いつだって泣くことができるのは瑞々しい子供らしさの象徴であり、大人はそれを咎められるからだ。
他人の苦しみを、あなたは理解することが出来ないという。然れど、誰もが「それを知っている」らしい。他人のそれを理解出来る人間は、きっと他人の苦しみも理解出来るのではなかろうか。
最後に冒頭へ戻る。『彼の愚かさは人よりも賢く、彼の弱さは人よりも強い。それを聞いて、全くその通りだと思い描く人がいるとき、その人のことを崇高なものだと過信している。』なるほど、鏡らしい。
~付記~
この記事は、ある記事に対する感想である。純粋な感想(コメント機能)やツイッターを利用して淡々と感想を書くことも考えたが、手の込んだ表現を用いるその記事の著者に敬意を払い、その著者の文体に倣った表現にて感想を述べることとした。
文献
家長むぎ. 雑記 余映 (https://note.com/mugi2434/n/n89caa07b45b4). (2022).