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日本への恋愛文化、近代家族の輸入と現在

 コミュニケーション論の課題で日本における恋愛文化と近代家族の輸入と現在についてリサーチしていて、とても興味深かったので煩雑ではありますがまとめたものをシェアします。興味がある方は下記の文献リストから読んでみてください。


日本への恋愛文化、近代家族の輸入と現在


 日本は根強い婚姻の文化から滅私奉公で家庭を築く傾向にある。西欧でいう「愛」とは見返りを求めない「無償の愛」が基本だが、日本の「愛」は「贈与・互酬の関係」があるために、どこか見返りを求める「愛」となる。つまり他者への期待値が大きいのである。「○○してあげたのに○○してくれない」という言葉をよく聞くのはそういうことである。これはメールの返信などでも同じことで、「お返し」をしないと薄情者だと罵られる。それが日本においてのクリーシェ的で規範的な恋愛の考え方である。そういったことから、日本には西欧のような「贈与・互酬」を考えない「無償の愛」から成立する恋愛関係や家族愛などが存在し辛い。
 結婚後は夫側の感覚としては恋愛状態が終わる。妻への恋愛感情が薄れるのは動物の本能的なことである。交際や結婚をするために相手へあらゆる態度、言動を頑張っていたが、徐々に安心や倦怠などで薄れ、本来の姿に戻る。そして生活の利便性が重視された関係として接するようになる。これは母子関係のようなものであり、夫にとって生活の世話を焼いてもらい、甘えられる場所として家庭が存在する。そのため、夫婦関係が個人と個人の関係だと思いにくい原因となる。
 一方妻側は夫婦関係が男女関係にならないことに不安を募らせている。戦前まで頃の女性の立場としては家族のあり方を「夫や子供を憩わせる場所」として考えていたが、戦前から比較し女性の社会進出や男尊女卑が少しずつ緩和されてきた結果、女性は家族ために生涯を捧げるという考え方から、自分自身の幸せのことも考えるようになったのである。また、女性は動物の本能的に愛着が長続きする生物である。従来の嫁ぎ文化の中では恋愛結婚ではなく、生活を共にし、子を育てるパートナーとしての結婚だったため、このような男女間の愛着の噛み合わなさは発生しにくかった。しかし恋愛結婚に移行し、女性に強い恋愛感情が芽生えている状態からの結婚となったが故に噛み合わなさが強く生じてしまったのである。そのことから妻が結婚後にも夫に強い愛情を求めると破城しがちなる。そこにも熟年離婚などが増える原因があると考えられている。
 まとめると、日本ではアガペー的「無償の愛」が受け入れられなかったため、西欧から輸入された恋愛文化はギブアンドテイクでしか成り立ち辛く、女性の社会進出が進むにつれて女性は男性の本能的振る舞い(性交を重ねる度に愛情が薄れていき、他の異性に目移りをしてしまうなど)に耐え難くなる。男性は女性の西野カナ的振る舞い(男性の本能とは逆で、性交を重ねるたびに愛着が強くなり、自分だけを見てほしいという気持ちが強まる)に耐えられなくなる(戦前の亭主関白時代は、女性が男性にそういったアピールをすることは難しかった)。そのことから男女が夫婦として成り立つのが以前より難しくなっているということだ。戦前頃の亭主関白で成り立っていた夫婦は、男性の浮気・不倫には寛容であった(寛容であらざるを得なかった)。
 恋愛結婚がほとんどなく、政略結婚やお見合いが多かった時代は、結婚が恋愛と別のものであった。そのため恋愛を家庭の中に持ち込まず、共同に生活する者として性や生活を行なっていたからうまくいっていたのかもしれない。


 続いて近代家族の輸入、形成ついて見ていく。現代、我々は家族とはこうあらなければならないという規範に多く苦しめられている。例えば、親から結婚は30歳までにし、子供を産むことを促される。そしてその規範を自らまとい、その規範を周りにも押し付けてしまう。家庭科の教科書などでも円満な家庭を築くためのマニュアルが提示されている。
 元来、伝統的な社会では子供は小さな大人とみなされていた。そのため、子供は早い時期より両親から引き離され、徒弟関係の中で大人達(親方など)と一緒に仕事や遊びを覚えていった。これに対して現代社会は子供は大人と異質な存在とみなされていった。幼年時代は他者依存的で傷つきやすく、そのため公共領域での生活にも耐えられないと考えられていた。こうして子供達は愛情を注ぎ守り育てられる存在、将来の公的生活に備え道徳教育を受けるべき存在となっていった。子供のイメージが変化する中、この時から母親が愛情を持って自分の子供を慈しみ育てる存在として位置づけられた。母性本能、母性愛という言葉も近代における変化の中で作られてきたものである(母性愛とは子供のセクシュアリティが逸脱することがないように生み出された言葉である)。
 大正期以降、次第に子供を「パーフェクト・チャイルド」として育てることが理想視されていた。パーフェクト・チャイルドとは、子供らしさを持ちながら、人格と生活規範を身につけ、高度的な教育と学歴を手にする子供のことである。問題なのはパーフェクト・チャイルドを育てるために「完璧な母親=パーフェクトマザー」が求められてきたということである。家庭が地域の共同体から孤立していく中で、母親が子供の教育の責任全てを負う事になったのである。
 家族はわかりあえて当然のような刷り込みから、夫や子供の知らなかった世界を見たときに妻が不安になる。どうしたら分かり合えるのかと思いを巡らせてしまう。「愛情を持って接しよう」とか「もっと家族のコミュニケーションを」などというメッセージに乗せられてしまう。しかし、接触する機会や話し合う機会を増やしても完全に理解することは難しい。また、そのような家庭が築けないのは努力が足りないなどの思考になり、自分を追い詰めることになってしまう。
 血の繋がった親子ならば最後には必ず分かり合えるはずだとか、長年連れ添った夫婦ならば最後には必ず分かり合えるはずだとよく言われるが、これは同質性(ホモ・ソーシャル)に根ざした見方が反映されているのではないか。元々夫婦は他人であったわけで、同質性に根ざしていない。異質な他者であるということを認識することが大切であり、そこから家族関係を見直すことが最も大切である。家族だから「こう」が当然、という考えではなく、それぞれが心地よく、それぞれに適した関係性を考えることが必要である。自分と異なったものを相手に認めることが、それぞれの地平を広げて行くことに繋がるのである。

参考文献
『現代コミュニケーション学』 池田理知子 有斐閣コンパクト
『暴走する「世間」』 佐藤直樹 バジリコ株式会社
『幻想する家族』 桜井陽子 桜井厚 
『近代家族とジェンダー』 井上俊 世界思想社

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