にんげんの慮り方。
この記事は60秒で読めます。ただ読まなくてもいいです。身になる内容はなんらありません。「音」として読んで頂ければ大変幸いです。
遠慮する。
とは、遠くを慮る。ということである。
例を言うと、目上の方の飲み会に「遠慮しておきます。」というのは相手の遠くを慮って言っている。ということ。
目先では無礼かもしれないが、ご時世柄、この飲み会で子沢山の上司がコロナに感染したらご家族に迷惑がかかるでしょ。と私は遠くを慮っている。ということだ。
私はこう見えてかなり慮ることが多い。
自らを「慮り屋さん」と呼んでいるぐらいだ。
ただ反対に近頃の若い子たちは、慮られ慣れしてる子が多い気がする。
慮られ過ぎて、慮ってくれているのか、慮ってくれてないのか判別がつかない子たちが後を立たない。
慮られたい、慮られたいと思い過ぎると、慮られなくなるんだよ。と、教えてあげたい。
これもひとつの慮りか。なんてね。
私たちも次世代の若者をむやみやたらに慮って甘やかしても、慮れ慣れした慮れペアレントを生むだけで、慮っても慮っても伝わらない時代なら、慮ることも遠慮しても良いのではないだろうか。
そんなことを特段、慮ることなく、感じた次第である。