ガメラ復活記念!ガメラの強みを考える
9月7日よりNetflixにて新作アニメ『GAMERA -Rebirth-』が全世界配信されたのを(勝手に)記念して、ガメラという怪獣についてのあれこれを綴ってみようかと思います。
自由な怪獣ガメラ
ここ日本で、いや世界で一番知名度のある怪獣というと怪獣王ゴジラである、ということに異論はないと思う。
特に東宝とレジェンダリー、日米で交互に新作が発表されている今日では、その地位がさらに揺ぎ無いものなった印象さえある。
一方のガメラはというと、昭和に8作品制作され一時代を築き、平成の世に劇的な復活を遂げたその存在は、ゴジラと双璧をなす存在といっても過言ではないだろう。
・・・が、これはあくまで特撮ファンダムでの認識であることは肝に銘じておかなければならない。
ゴジラの浸透度というのはもはや国民的といってもよく「作品を見たことはなくても名前は知っている」という域にまで達している。
しかしガメラは後発の存在ということもあってか、人気絶頂の昭和期からして知名度・興行収入ともゴジラに一歩も二歩も及ばないという現実がある。
メディアでの露出も含め、世間的な知名度はゴジラとは比較にならないと言わざるを得ない。
稀にゴジラと混同されているような扱いすら見かける有様である。
まあ、まったく興味がない層から見れば、形態が全然違う恐竜型のゴジラと亀怪獣のガメラも単なる黒い塊としか認識しないのであろう。
なんだか、お前はガメラをどう思ってるんだと石が飛んできそうで怖い流れだが、逆にそんなメジャーマイナーな立ち位置こそがガメラの強みではないかと思うのだ。
原水爆を誕生の背景に持つゴジラは、劇中の設定以上に、そもそもの初代ゴジラ(1954)が反核、反戦の思いから成立した映画であるという歴史的価値も相まって、スター怪獣でありながらどこかおいそれとは扱えない重鎮という存在でもある。
なまじ映画としての初代ゴジラが興行、評価ともに偉大であったために、その後のシリーズでゴジラがやや柔和なキャラクターになるのを良しとしないファンも多く、彼らが是とする核の申し子・戦争のメタファーといった影の側面と、敵怪獣と戦うヒーローゴジラという陽性の側面は、昭和、平成、令和から今にも続くゴジラを取り巻く論争のひとつでもある。
しかし、ガメラにはそのようなしがらみがないのである。
これもまた語弊のある言い方になるが、ゴジラほど初代ガメラ=大怪獣ガメラ(1965)が作品として神格化されていないのが大きいのだろう。
たしかに、一作目はその後のシリーズよりもややガメラの性格が異なり、能動的に都市を破壊するなどゴジラ的な要素も多分にあった。
だが、同時に崩れる灯台(自分で壊したのだが)から子供を救う場面も存在し、既にそこに子供の味方、ぼくらのガメラ的な萌芽は見て取れるのだ。
二作目大怪獣決闘ガメラ対バルゴン(1966)こそやや異色だが、その後の6作品は必ず物語の中心には子供が据えられ、彼らの応援を受け敵怪獣と戦う正義のヒーローガメラ像が完全に確立されているのである。
この明確さ、シンプルさこそがガメラであり、見出しに冠したガメラの自由さにもつながっているように思える。
一作目が過剰に重視されないということは、所謂ガメラのオリジン(誕生秘話)にも手を加えられるということだ。
一応、昭和のガメラは古代アトランティス大陸に生息していた大亀の生き残りという設定で、1995年からの平成三部作※1にもその設定は一部引き継がれてはいるのだが、平成版では野生の動物的なニュアンスを廃し、最初からあの形で作り出された生物兵器という設定がなされた。
これは、1980年代のリアルロボットアニメブーム以降の、エンタメと言えども最低限の理屈が必要な時代になったがゆえの変更であろう。
90年代は既に、手足を引っ込めて円盤のように飛ぶ亀怪獣で無邪気に喜べない時代になっていたのだ。
もちろん、ハードな世界観を志した当時のスタッフの意向も強いのも事実であろうが。
2006年に製作された映画小さき勇者たちーガメラーでは、このアトランティス云々の設定すら刷新され、子供が育てた亀がガメラになったというファンタジックな設定が採用される。
こうした、作品ごとにその外見だけでなく設定すら大きく変えることが出来るガメラは非常に自由度が高い怪獣だと思うのだが、どうだろうか。
乱暴な言い方をすれば、もはや亀モチーフの火を噴く怪獣はガメラである、という方程式さえ成り立ちそうな具合である。
新作GAMERA -Rebirth-でのガメラの諸設定については、今はまだ資料不足の為に置いておくとして、今後もガメラはゴジラほど肩肘張らずに作っていただきたいものだ。
空飛ぶ怪獣ガメラ
言わずもがなかもしれないが、ガメラは空を飛べる。
円盤のように飛ぶ亀(通称回転ジェット)、なんて設定を誰が考えたのかは諸説あるようだが、ビジュアルインパクトとそのセンスオブワンダー具合は世界の怪獣界(あるのか?)では群を抜いている。
この飛行能力こそ、ガメラもうひとつの強みだ。
飛行能力について話す前に、余談をひとつ。
主に着ぐるみを使った怪獣同士の対決シーンは、取っ組み合う怪獣の体積が増えるほど難しくなる傾向にある。
それもそのはず、時代劇用の甲冑より重い怪獣スーツを着て、しかも着膨れするウレタン製の肉や尻尾を身体に付け足せば、人間が持つ本来の運動能力や関節の可動域などは著しく制限されるからだ。
特に怪獣の顔は中のアクターの頭の上に、やや前面にせり出すように取り付けられていることが多い。
早い話が、格闘しようにもパンチを繰り出した腕より先にお互いの頭がゴッツンコしてしまうわけだ。
そこに動き辛さも加味されれば、なんだかよちよちとした押し相撲のような戦いになってしまう。
ウルトラマンの殺陣が成立しているのは、人型のウルトラマンが怪獣をうまくリードしているからである。
平成ガメラの特撮監督である樋口真嗣氏も「怪獣プロレスは一方が人型じゃないと様にならない」と仰っていた。
そういった問題を先達のスタッフたちは、ワイヤーでの操演による怪獣の動きの工夫や、光線などの飛び道具で戦わせて怪獣同士のプロレス自体を避けるといった方法で対処していた。
多くのゴジラ映画もそのあたりの苦労が見て取れるのだが、ゴジラと違い※2、ガメラは空を飛べる。この違いは大きい。
つまり、戦いの舞台に空が追加され、より三次元的な戦闘シーンが演出できるというわけだ。
大怪獣空中戦と題された1967年のガメラ対ギャオスでは、飛行できる怪獣同士の縦横無尽の戦いが見せ場であったし、敵怪獣に飛行能力がない場合でも、逆にガメラが空中から攻撃したり、飛行して距離をとったりという描き方ができる。
これによって、それまでの怪獣映画ではあまり見られなかった、カット数の多いスピード感のある戦いが創出されたことは、平成ガメラにおける飛行シーンのCG化等と合わせて、ガメラのエポックさのひとつではないだろうか。
もうひとつ、怪獣にとって飛行能力がプラスに働く一例を挙げたい。平成ガメラシリーズの金子修介監督は、後にゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃(2001)を監督し、ゴジラシリーズにも参加したのは有名である。同作の脚本も担当する氏は、執筆中にガメラの利点を発見したそうだ。
それは、
「ゴジラは一度上陸させると海へ引っ込ませるタイミングが難しいが、ガメラは飛んで帰らせることが出来るので、その間に人間ドラマを進行させられる分、ガメラの方が脚本作りが容易である」
という点だったという。
ガメラはいきなり飛んで現れて、飛んで帰っても大丈夫というわけだ。
なんとも製作者目線のおもしろい裏話ではないだろうか。
ホスト怪獣ガメラ
なにやら怪しい字面だが、ここでいうホストは本来的な(接待側の主人)と理解していただきたい。
ウルトラシリーズのスタッフの名言として「ウルトラマンはホスト、怪獣はゲスト」というものがある。
つまり、ウルトラマンは地球防衛と同時に、相手役の怪獣をいかに引き立たせ、いかにおいしく見せるかという使命も背負っているわけだ。
果たしてその意図は成功し、今日のおもちゃ売り場での怪獣ソフビコーナーは、ほぼウルトラ怪獣で占められている。
つまり、ゲストを立たせるために、ホストは泥をかぶる覚悟が必要なのだ。
同時に、致命傷を負わないように受け身が上手でなくてはならない。
ガメラはそんな素養も持ち合わせている。彼はやられ役が出来るのである。
昭和に、言わばゴジラの二匹目のドジョウ的な意図のもと製作されたガメラシリーズは、だからこそゴジラとの明確な差別化が求められた。
それらの一部は前項に記したが、加えて言及せねばならないのは昭和のガメラは流血シーンが多いという点だ。
オリジネイターである円谷英二監督の意図もあって、ゴジラシリーズ含め東宝の怪獣たちは一時期まで流血がNGであった。
却ってそれが通常の生物を超えた怪獣らしさと捉える意見もあるが、ビジュアルイメージとして血というものが強いのもまた事実である。
ガメラは当初よりゴジラとの差別化の意図もあってか「怪獣を生き物として描く」という姿勢が貫かれ、傷を負って流血するシーンがかなり具体的に描かれている。
敵もまたいやらしく、超音波メスという切断特化の特技を持つギャオスや、刃物の怪獣化と言った方が適切な容姿のギロンなど、ガメラの皮膚を切り刻み、亀の命たる甲羅すら傷付ける強豪のオンパレードである。
そんな怪獣たちを相手に、傷付きながらも立ち向かうガメラの健気な姿は、私が年をとったせいだろうか、酒を飲みながらボーっと見ていると不意に涙してしまうほどの凄惨な戦いが多い。
こうしたガメラのやられっぷりは、自然と敵怪獣の強さ・憎々しさが際立つし、後半リベンジを果たす爽快なガメラの活躍もあって、なるほど非常に強固なストーリーラインであると感心してしまう。
ヒーロー的要素と観客の同情を引く要素を同時に持てたガメラは、その時点で成功が約束された怪獣だったのだ。
そんなガメラシリーズに影響されたかは不明だが、ガメラが休止期間に入った1970年代に製作されたゴジラ映画では、スタッフはついに流血NGの禁を破り、刃物や鋭利な武器を持つ凶悪怪獣を相手に、核の申し子的背景は一旦棚に置かれた正義のゴジラが、流血しながら地球のために戦う姿が描かれることになる。
歴史とは点でなく線で見なければならないという一例ではないだろうか。
大本である大映の倒産、徳間大映、角川大映と、製作会社の移り変わりは今回はあえて割愛したが、その度に復活を願う声が内外から上がるということは、やはりガメラもまた日本を代表する怪獣だということだろう。
令和に復活したガメラの灯を絶やさないように、及ばずながら私も応援し続けたいと思う。
注釈
※1
ガメラ大怪獣空中決戦(1995)、ガメラ2レギオン襲来(1996)、ガメラ3邪神覚醒(1999)
今風に言えば、昭和ガメラの設定を大幅に刷新したリブート作品。
超古代文明の遺産等々の設定は、後のウルトラマンティガ(1996)や仮面ライダークウガ(2000)に影響を与えた。
※2
厳密に言うとゴジラも飛べないわけではない。が、これもまた意見が分かれるところである。
詳細はゴジラ対ヘドラ(1971)をご覧になって判断してほしい。