#キンキーブーツ ~誰が見ても幸せになれる!最高のエンターテイメント~
2019年に三浦春馬さんと小池徹平さんのキンキーブーツを鑑賞する機会に恵まれた際の観劇記録。あの感動を忘れないように書き残しておきたい。
はじめに
キンキーブーツ。
思わず一緒に踊りだしたくなってしまった舞台も、観終わったあとの感想が「最高!」しか浮かばなかった舞台も、ポジティブで前向きな気持ちで胸がいっぱいになってしまった舞台も、これが初めてである。
観終わったあと、「誰が見ても幸せになれる舞台だ!!」と強く思った。
なるべく多くの人に観て欲しいと思ったし、とにかくたくさんの人におすすめしたいとすら感じた。
正直、ここまで素直に絶賛しかなかった、しかも、自分ひとりにしまっておけず、これはとんでもなく面白い! と思った舞台(それも、ミュージカル)は初めてである。
脚本、演出、音楽、歌、踊りが良いことは大前提であるとしても――ここまで徹底したエンターテイメントが日本でも作れるのか! というのが最大の衝撃だったと思う。
それを支えているのは、言うまでもない、小池徹平と三浦春馬である。
このブログでは、2回の観劇を通して感じた熱を、主に二人の俳優に焦点を当てながら、忘れないように残しておきたい。
ブロードウェイミュージカル『キンキーブーツ』2019年再演版日本人キャスト公演の公式サイト
三浦春馬の底力~歌と踊りの高いエンターテイメント性と芝居の奥深さ~
初めてこの舞台を観終わり、興奮冷めやらぬうちに家路につく頃、私はようやく思い出した。
このミュージカルは、小池徹平と三浦春馬という、脂の乗ってきた実力派俳優たちのコンビ舞台なのだということを。
ところがどうだ。物語が進んでいく間に、私はそこにふたりの姿を一切見出さなかった。
男二人の友情物語? そんな簡単な、物分かりの良い言葉で表せるようなものは、どこにもなかった。
二人はどこまでも、チャーリーとローラで、そこにあったのは性別なんて関係ない、性別を超えた、一人と一人の人間ドラマではなかったか。
ローラ演じる三浦春馬の素晴らしさは、きっと様々なところで初演時から言及されているだろうから、今更改めて文章化するのは恥ずかしい。でも、感じたままに書かせて欲しい。
ここ数年、ご縁があり、色々な舞台を観に行かせていただいた。
ストリートプレイ、ミュージカル、宝塚、四季、新感線等々……でも、こんなに陽のオーラをまとって、ステージに出てきただけで空気を一変させる、きらきらと輝いていて、「何かが起きる!」とわくわくさせられる俳優さんに、どれだけ出会えただろうか。
三浦春馬という名前はもちろん知っていたけれど、こんなにエンターテイナーだったとは。正直知らなかった(ごめんなさい。)。
それはもちろん、ローラという魅力的な役柄の力もあると思う。強く美しく格好良く、それでいて華麗でクレバーなローラという存在。
でもそれ以上に、ローラを魅力的にしているのは、彼/彼女を演じる三浦春馬の、その圧倒的な華とオーラだ。
歌い踊りながらあれだけの芝居をすることがどんなに難しいことか。美しいハスキーを響かせ、踊りのキレの良さは天下一品。観ているだけで私たち観客まで、その世界に巻き込まれてしまう。
ローラの初登場シーンのナンバー、「LAND OF LOLA~ローラの世界~」は特に圧巻である。
ダンスと歌はもちろんのこと、このナンバーでは身体の使い方と、特に目線の送り方が特筆すべき点だ。
腰の動かし方ひとつ、瞳の動かし方ひとつとっても、「ローラ」のキャラクターを一瞬にして強力に作り上げる。なによりも、客席への視線の流し方が素晴らしい。力強く、それでいてセクシー。ローラのスター性が良く出ていると思う。
きっとあの舞台を観た人は、みんなそうだと思うけれど、私は一瞬でローラが大好きになった。
だから、ローラが――そしてエンジェルスたちが――出てくるシーンは、とにかくわくわくしてしまう。これから何か始まるぞ、という高揚感。
もちろん、それは彼/彼女のキャラクターだけではない。見目の美しさ、肉体の美しさ。整った顔立ちはもちろんのこと、肩からふくらはぎまで、筋肉の付き方が美しく、どのシーンでもとんでもなく綺麗で、それがローラの存在の説得力につながっている。
ローラという存在の作りこみ方が凄まじさ。丁寧さ。三浦春馬、ここまで振り幅の広い俳優さんだったとは……という衝撃を受けた。
しかも、ドラァグクイーンとしての華やかな魅力を演じるだけでなく、そのうちにある、サイモンという青年としての弱さをしっかりと芝居で見せられるのが彼の底力だと思う。
劇中盤で、ローラは、父親に認められなかった過去をチャーリーに吐露する。ドレスを脱いだ青年の、父へのコンプレックスを歌い上げる「NOT MY FATHER’S SON~息子じゃないの~」の時の繊細さ。線の細さ。揺れる瞳。不安そうな表情。そこには、ローラのときの彼/彼女にあった強さは見当たらない。
また、プリンスアンドサンで働く彼/彼女の、男の格好でありながらも、明るい色のシャツに長いスカーフを巻き、少しだけお化粧をして、楽しそうにはしゃぎ、働く姿。
サイモンはきっと「彼女」になりたかったわけじゃない。
サイモンは、そんなありのままの彼/彼女でいたかっただけなのだ、とすとん、と心に落ちた。
もしかしたら、この劇中盤で描かれる、この男性でもあって、女性でもある、強くて美しい「ローラ」が一番好きかもしれない。
この「ローラ/サイモン」という人間性を、高いエンターテイメント性で魅力的に表現する一方で、説得力のある芝居で奥深さを見せる、三浦春馬の底力には驚かされるばかりである。とんでもない俳優だ。
小池徹平の安定感~ありのまま、そこにあること。世界の前提~
……と、ここまでひたすら三浦春馬について語ってきたけれど、実は私が観に行った最大の目的は、小池徹平だった。
学生の頃から彼の美しいお顔が好きで(笑)私は自分の「好き」を人に言うのがあまり得意ではないのだけど、昔から好きなことを表明している数少ない俳優なのであった(し、2回ともそのおかげで観に行くことができた。「好き」を表明するって大切なことですね。ありがたやありがたや。)。
閑話休題。
この舞台におけるチャーリー、そして小池徹平は、まさに「キンキーブーツという物語の根幹」である。
役としてはどうしてもローラが目立つけれど、この物語を支えているのは他でもないチャーリーだ。
物語の舞台である、プリンスアンドサンの一人息子。父から継いだ店と、小さい頃から一緒に暮らしてきた従業員たちを守るため、「女装した男性向けのブーツ」というニッチ産業を狙い、ミラノへの出展を目指す。
小池徹平の芝居と歌、踊りは、そつがない。おそらく、相当難しいであろう歌もダンスも難なくやってのける(ように見える)。そして、その「物語の根幹」をしっかりと固めて形作っている。逆に言うと、彼が崩れると世界がすべて崩れてしまう。一言で言うならば「安定感」「前提」とも言うべき存在だ。
2回目に一緒に観劇した友人(こちらも2回目の観劇だった)が、「チャーリーは途中、嫌なやつになるよね」と言っていたのが印象的だった。
確かに、ミラノに出展するという目的のあまり、ローラを傷つけ、それまで着いてきてくれた従業員たちにも無茶を言うのだから、「嫌なやつ」に見える。
私はそのとき、「でも小池徹平が演じているからそうは思わなかった」などと返したのだが(彼女は私が小池徹平の顔が好きだと知っているので、冗談めいたものだったが)、あながち、これは冗談でもなかったと思う。
確かに、どうしても視線も、感情移入もローラに行きがちのこの舞台では、チャーリーの方が(特に終盤のローラと立場が異なる場面では)、なんとなく「嫌なやつ」に見えなくもない。
でも、本当はそうだろうか。チャーリーはチャーリーで、自分の中の信念を見つけ、周りの声に流されることなく――当初の彼は、二コラに流されていたというのに――邁進している姿を描いてる。
確かに、ローラに対する心無い一言を吐いてしまったとはいえ、その人間臭さを含めて、それまでの彼になかった、彼が羨んでいた「やりたいこと」を見つけ、格好悪くても、泥臭くても、味方がいなかったとしても、必死に進んでいこうとする姿が劇後半なのだ。
小池徹平という俳優は、このチャーリーの人間臭く格好悪い――だからこそ、格好良い――部分を、まっすぐに、素直に、演じる。決して、ローラに対抗して殊更に強調するのでもなく、かといって変に卑下するのではなく、一人の男の心境の変化を、まっすぐに、ありのままに表現していく。
このニュートラルさ、大変なものを「ありのまま、そこにあるもの」にしてしまう器用さ、あるいは努力こそ、小池徹平の凄さだと思った。だからこそ、子どもの頃から何かと反発してきたドンこそが、そんなチャーリーを受け入れるのだ。
キンキーブーツの世界を支えているのは、間違いなく彼である。
以上が、キンキーブーツを2回見て感じた、主に二人の俳優を通して感じた感想である。
でもやはり、このミュージカルの凄さはこれだけではないと思うので、最後に雑駁になってしまうが、感じたことを書き残しておきたい。
大道具、小道具の細やかさ
これは地味ながら、かなりこだわりを感じてしまう。
子どもチャーリーから大人チャーリーへの華麗な入れ替わり、歌い踊りながらブーツが仕上がっていく過程(行程ごとに次々とブーツを取り換えていっている)、トレッドミルの使い方(工場のリアルさ。その一方でそれをダンスに活用することによるテンポの良さ)等々……とにかく大道具、小道具の作りが細かく丁寧で、それがあの世界を作るのに一役も二役も買っている。
地味ながら、クオリティの高さを節々から感じたし、それがキンキーブーツの枠を形作っていると思った。
音楽と踊りの力、ステージと客席の一体感
音楽と踊りの凄さは、一体感を作り上げる力だと思う。このミュージカルは特にそれが顕著で、あの最後に客席まで巻き込んで踊りだしてしまう一体感はとんでもない。
人は、少なくとも日本人は、実はああいうみんなで歌って踊るのが好きな人たちだと思う。
だけど、同時に、見ず知らずの他人とは、気恥ずかしさからか、なかなかそうやって自分を曝け出せない人たちだとも思うのだ。まさに「ありのまま」を出せないし、出すことに恥ずかしさを感じてしまう。
だからこそ、日本のミュージカルには、妙な「照れ」のようなものがあると、個人的には思っている。
突然、向こうから一方的に曝け出されてしまうような気恥ずかしさ。私たちは、自分を曝け出せないから、それを受け止めきれない。
だけど、このキンキーブーツに限って言えば、完全にエンターテイメントに吹っ切れていてそういう変な「照れ」「気恥ずかしさ」が一切ない。だからこそ、みんなで乗っかれる。
あれはやはり、自分の「ありのまま」を受け入れて、そしてみんなの「ありのまま」も受け止める、というミュージカルのテーマとカンパニーの在り方そのものがあってなのだろうか。
役者たちの織りなすハーモニー
ここには書ききれなかったけれど、とにかく役者さんが多く、それだけで華やかなのに、あの全員が全員しっかりとそれぞれのキャラクターを持っているところが素晴らしすぎる。それぞれが織りなすハーモニーが文字通り美しい。
歌も踊りも、主役二人はもちろん、全員の一体感があってこその感動だと思う。
以上、思いの丈を書き綴った。もっと書きたいことがたくさんあるが、2回の観劇で掴めたことはこの程度。もっと細かいところまで見たい。もっとキンキーブーツの世界を体験したい。
だから、とにかくまた絶対に再演してくれ~!