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#水曜日が消えた ~「普通」「日常」「幸せ」を改めて感じる映画~

 水曜日が消えた、こんなにも余韻が消えない映画は久しぶりである。


 私はこの映画の世界観が好きだ。一見すると「中村倫也が一人七役を演じる」という設定に魅力を感じる本作であるが、実はこの映画の本質はそこではない。

 映画館の大きなスクリーンと音響からの情報を五感で捉え、中村倫也演じる「火曜日」の視点から映画の世界に共感し没入していくことで、言葉ではなく感覚で理解していく。この映画の面白さはそこだと思う。

 中村倫也の演じ分けが凄いという、表面的な部分で勝負している作品ではないのだということを、前情報なく観に行った私は映画館でまざまざと思い知り、そしてこの映画が大好きになった。

 今日までに2回観て感じたこの作品の魅力を言葉に残しておきたい。

 なお、本作の性質上、感想を書くにあたっては、どうしてもネタバレを回避できないので、そこはご了承いただきたい。

 未見の方は、ぜひ映画館で観て、中村倫也演じる「火曜日」の目を通して、水曜日が消えたの世界に没入して欲しい。そういう映画である。


ファンタジックでありながら共感できる世界観

 この映画は、まずなによりも、「一人の人間の中に、七人の人格が存在したら」という非常にファンタジックな設定であるにもかかわらず、主人公である彼にどこか共感できてしまう。その作りが非常に上手いと思う。

 特に私が好きなのは、「火曜日」は水曜日も生きられることになり、自分の時間が一日しかなかったそれまでには経験したことの無い体験をしていくシーンである。

 なんてことはない、些細な体験。夜中に友達とコンビニで買い物をし、カップラーメンを食べ、一緒に映画を見て夜更かしをする。そうした私たちにとっては疑うまでも無い当たり前の日常に、週に一日、火曜日しか存在しない彼は感動する。彼の目を通して、私たちは自分の生きる当たり前の日常が、実は幸せであることに気付かされるのである。

 一方で、徐々に消えていく他の曜日たちを、火曜日と月曜日の目を通して見つめることで、私たちは同時に「一人の人間の中に、七人の人格が存在する」という「非日常」にも共感を覚える。

 どんな人の中にも、「異なる人格」という極端なことは無いにせよ、様々な「私」という顔がある。真面目な私、時には悪ふざけをしたくなる私、スポーツが好きで社交的な私、自分の殻に閉じこもる私。

 物語の後半で、それぞれの曜日のことを大切に想う人がいるということを、私たちは火曜日と月曜日の目を通して知ることになる。

 前半では、水曜日をはじめ、他の曜日の人格たちが消えていくことで、自分の時間が増えていく火曜日を通して、毎日を当たり前に生きていけることの大切さに気付かされるのにもかかわらず、後半では同じ火曜日の目を通し、あるいは月曜日の見る世界から、自分の中の多様性、誰かが「私」を認めてくれることの幸せに気付かされる。火曜日の初恋相手が、時分ではなく水曜日に好意を抱いていることを知って。あるいは、火曜日のフリをした月曜日が、医師である安藤から「久しぶりだな」と、それでも気付かれる瞬間を見て。

 この、物語の設定上は一見すると相反する、「すべてが自分の時間である幸せ」と「他の曜日=人格=自分の中にある様々な自分を認められる幸せ」を、火曜日/月曜日という人格を通して伝える作りが、とにかく「上手い」の一言なのである。


「私」を赦し他人を許す優しさと愛情

 また、こうした日常の幸せに気付かせるというカタルシスの作り方も、思わず膝を打ちたくなるほどに上手いと思う。

 この映画の肝のひとつは、なぜ彼の中に七人の人格が生まれたのかという謎を解き明かしていく部分だと思っている。

 この映画は、言葉であまり説明しすぎないため、私の解釈であっているのかは分からないが――おそらく、同級生だった一ノ瀬が、引っ越していく彼にあげた子豚の防犯ブザーを、両親が運転する車の中で、彼が不意に鳴らしてしまったことが事故の原因なのであろう。

 そしておそらく、一ノ瀬もそのことを知っていて(どこかで気が付いていて)、それゆえに彼に対して罪悪感を持っており、事故のことを調べてもいたのだろう。だからこそ、七人格を持つ彼の中に元の彼を探したし、友達になりたい、七人の人格を生み出す原因となった自分が傍にいて、彼に寄り添いたいとも思ったに違いない。

 全てを思い出した月曜日は、そうした一ノ瀬の正体に気が付いている。なぜ彼女が近づいてきたのか分かっている。しかし、彼女の行動を咎めることはしない。むしろ、そうして生まれた自分たちが不幸ではないと、彼女の存在を赦し受け止めるのだ。

 一人になりたい、毎日を自分のものにしたいと月曜日は願い、最終的にはそれを勝ち取った。しかし、月曜日は一ノ瀬の存在を通して知るのである。自分以外の人格たちにも大切な人がおり、また愛され同じ「個」として認められていることを。そして、自分を大切にすることは、すなわち七人を大切にすることだと思い至るのである。また、それと同時に、自分たち七人の人格が生まれるきっかけとなった一ノ瀬のことも受け止めるのである。

 自分では無い他人が愛されていることを知り、他人の存在を大事に思えること。

 さらに、罪悪感を持つその人に対し、完ぺきではない自分を含め、感謝ができること。

 私はここに大きな愛を感じる。そして、この描き方がとても優しくて、大好きなのである


言葉ではなく感覚的に理解していく面白さ

 さらに言えば、この一ノ瀬と月曜日/火曜日の関係性の描き方をはじめ、この映画をスクリーンで観ていて気持ちがいいのは、台詞で説明しすぎないところにある。

 例えば、火曜日/月曜日は徐々に一ノ瀬が元の自分とどのような関係であったのか、あるいは自分たちの出生に深く関与していることに気付いていく。しかし、この作品は、一ノ瀬と彼ら七人の関係性を一切言葉では種明かししない。

 車から放り出される彼と、防犯ブザーとサイレン音と、飛散するガラスのイメージ。そして、子豚をかたどった防犯ブザーを、引っ越していく彼に渡す幼いころの一ノ瀬のイメージをつなげることで、私たちに事件と一ノ瀬のかかわりを匂わせる。

 この言葉ではなく、映像として理解させようとする作り方が、映画という媒体と非常に相性が良いと思う。火曜日/月曜日への共感が深まるほどに、物語の確信を言葉ではなく、感覚的に理解していく。この没入感が大変心地よい作品になっていると思う。

 また、こうした台詞で説明しすぎない工夫が、映像の随所から見られるのもとても楽しい。

 例えば、彼の家じゅうに貼られた、それぞれの曜日たちが書いた付箋の数々。大きなスクリーンで観ていても、ピントがあっておらず、内容はほとんど読み取ることができない。それでも様々な色(それはすなわち各曜日を指す)の付箋を見て、私たちはそこに七人の彼を思い描き、どのようなコミュニケーションをしているのかと想像する。

 あるいは、幼少期の、かつての彼が引っ越しの日に持って帰った荷物たち。絵具セットにスケッチブック、リコーダー、テニスラケットに、植木鉢。私たちはその荷物から、七人が元の彼にあった要素が、それぞれ独立した人格として成長していったことを薄っすら感じ取る。

 一人の中に七人の人格というファンタジックな設定に、どこか共感してしまうのは、もしかしたら私も、幼き頃に持っていた様々な興味や好奇心を伸ばしていったその先には、「今の私」とは異なる「私」がいたのではないかという「if」をどこかで思わせるからである。

 また、火曜日は、念願の図書館で瑞野という女性と出会い、恋をする。しかし「好きだ」なんて野暮な台詞は一言も言わない。図書館帰りの浮かれた火曜日の姿と、「素敵です」と声をかけた「赤」と同じ花を両手に買って帰り、家に飾ってしまうその姿に、瑞野への恋心を見つけるのである。

 こうした説明しすぎない、想像を膨らませる映像上の工夫の数々が、この映画に余白を作り出し、不思議な余韻を生み出しているのだと思う。


「普通=幸せ」は自分が決めていく

 そして、このファンタジックな映画で何よりも共感するのは、何が幸せであるかは、他人ではなく自分が決めるという部分なのではないかと思う。また、そういう「一見すると普通ではない自分」を認めてくれる人がいると描く優しさではないかとも思う。

 一人の人間の中に七人の人格を持つ彼は、“常識的”に考えれば「治療すべき人」である。

 主治医の安藤に代わり新しくやってきた研修医の新木は、彼は一人の人間であり、彼をさも七人の人間として扱うことはおかしいと「普通」を提示する。「普通」に戻るために「適切な治療」をすべきだと、「彼一人分の署名」が必要となる同意書へのサインを求める。

 しかし、彼が選んだのは「七人の人格の同居」であった。

 彼にとっての「普通」は七人がいることで、他の人には認識することができない、証明することも困難な「七人の異なる自分」を認めてもらうこと。

 彼の主治医の安藤は、彼の中の七人をそれぞれ違う人間として認め、尊重しきた。同意書にも「七人それぞれの署名」を求めるように。

 それは新木からすれば「データの改ざん」であり、「嘘をついていた」、すなわち「誤り」だったのかもしれない。しかし、彼からすればそれこそが「普通」であり、彼にとっての「幸せ」なのだ。

 こうして彼の選んだ幸せのその先で、七人の彼らと、彼らの大切な人たちが楽しそうに暮らしているのを見て、私たちは温かい気持ちをもらうのである。

 決してそれは「普通」でもないし、「常識」から外れているのかもしれないが、そんなことは彼らの幸せには一切関係がない。彼らは彼らの幸せの形を選んだし、そういう普通とは違う幸せを認め、寄り添い大切にし、傍にいてくれる人だっている。

 それこそが何よりも幸せであることに、私たちは七人の彼らと、その七人をそれぞれ大切にする人たちを通じて、気付かされるのである。

 だからこそ、エンディングで、付箋を通して楽しそうにコミュニケーションを取り合う彼ら七人を見て、私たち観客はひどく幸せな気持ちになるのだと思う。

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