【考察】世界大恐慌の全容と令和大恐慌が起こる未来について
こんにちは!
今回は「世界恐慌」についての考察していきます。
(主に2つの動画の書き起こしになります。動画URLは最下部に貼り付けています。)
以下、本文になります。
・世界恐慌の概略
1929年、長く続いたアメリカの反映が突然終わりを告げました。
引き金になったのは、史上最悪の株価大暴落です。
「あまりのショックに現実を受け入れることが出来ず、皆ただ茫然としたのです。」当時人々は、莫大な借金をしてまで株の売買を行っていました。「株価が急落し、多くの人が無一文で放り出されました。痛ましいことでした。」
その後、銀行の破綻が相次ぎ、何百万人が全財産を失いました。
・地獄は突然に
ニューヨーク株式市場で前触れもなく株価が急落しました。5年間連続右肩上がりだった株価の下落に投資家たちは呆然としました。僅か1時間のうちに250万株が売られ、下落のスパイラルは翌日も続きました。
カレン・ブル―メンソール(「10月の6日間」著者)「10月24日の朝、取引所の人たちは「何か」が変わってしまったことを感じました。突然株の買い手がいなくなったのです。売り注文ばかりで買い注文は途絶えてしまいました。2ドル4ドル10ドルと株価が下がり始め、ぞっとする事態でした。」
スティーブ・フレーザー(「ウォール街 ある文化史」著者)「株価の暴落を知った人たちは、恐怖にかられました。約1万人が取引所の前に詰めかけました。ブロードウェイからイーストリバーまでが群衆に埋め尽くされたのです。」
集まった人たちは本当の深刻さを理解していませんでした。その後、わずか5日間のうちにアメリカの繁栄が根底から覆さろうとは誰も予測していなかったのです。
・暴落前の状況
株価が大暴落した原因を知るには、その10年前まで遡らなければなりません。アメリカが自信を強め、好景気が永遠に続くと思われていた時代です。
1920年代、街には送電線が張り巡らされ人々の生活は様変わりしました。新しいテクノロジーが登場しました。飛行機・ラジオ、ぜいたく品だった家電製品が生活の必需品になりました。人々はこぞって大量生産される新車を買い、自動車産業が活気づきました。限りなき繁栄の時代が幕を開けたのです。
スティーブ・フレーザー「消費者文化が花開き、大量消費の時代が到来しました。高額な商品の販売にあたっては、分割払いや信用販売、つまり「クレジット」が導入されました。」
これも1920年代の発明の1つと言えます。「今買って後で支払う」という考えが当たり前なことになりました。
スティーブ・フレーザー「消費主義の高まりとともに刹那的な考えが社会に広まりました。「今が楽しければそれでいい。先のことは気にするな。いまこの瞬間を生きようじゃないか。」」
ロン・チャーナウ(金融史専門家)「新しいイデオロギーが生まれたのです。豊かになることは、全てのアメリカ人が生まれながらに持つ権利だったのです。」
信用販売が普及し収入が増えるにつれ、アメリカ人は資産の運用に目をつけました。第一次世界大戦の戦費を賄うため、アメリカ政府は「リバティボンド」という国債を発行しました。
国債は国の資金源となり、購入者は金利を得ることが出来ます。チャーリー・チャップリンやダグラス・フェアバンクスのようなスターが宣伝し、購入を呼びかけました。
リチャード・シラ(ニューヨーク大学 教授)「リバティボンドがきっかけで投資をはじめた人が大勢いました。6か月ごとに金利が入ってくるのも初めての光景でした。自分の国債にいくら価格が付いたかは、新聞で毎日確認出来ました。リバティボンドが投資を身近にし、投資とは無縁だった人たちが気軽に債券や証券を買うようになったのです。チャールズ・ミッチェルは大戦中、リバティボンドの人気の高さに注目しました。投資の習慣が根付いた今、社債や株式をPRし、これらが立派な投資の対象だと説明すれば、確実に売れると考えたのです。」
ミッチェルは商売に長けた野心家でした。一般の人々が、政府の資金調達の為の国債を買うのなら、民間企業の資金調達の為の「株式」も買うはずだ。その売買を仲介することで、自分たちは利益を得られると考えたのです。
ロン・チャーナウ「株を買うことなど考えた事も無かった人たちが、徐々に投資を始めました。株はリスクが高すぎて一般向けではないというのが当時に認識でした。しかし、1920年代、株式投資は安全で立派な行為だとすら考えられるようになったのです。」
チャールズ・ミッチェルのアイデアは当たりました。
彼は全米各地に株の取引を仲介する会社を設立します。元手はあってもノウハウのない人々の投資を後押ししたのです。
スティーブ・フレーザー「プロだけでなく、誰も彼もが株に夢中になりました。大変な人数が投機熱に浮かれたのです。ニューヨークのみならず小さな町も含めアメリカ中の人たちが株式市場の虜になりました。」
それを可能にしたのが、「ティッカー」と呼ばれる市況速報器です。ウォール街での最新の相場を数分後には全米各地でプリントアウト出来ました。
スティーブ・フレーザー「ティッカーはあらゆるところにありました。ナイトクラブ・鉄道の駅・美容院、旅客船の船内。株式市場は1920年代のアメリカの文化に浸透していました。」
「食べ、眠り、夢を見て株の話をする。金を稼ぐには株しかない。刺激的だ。3500ドルの元手で、1万7000ドル儲けた。悪くない。」(投資家アーサー・インマンの日記)
映画会社や航空会社、自動車メーカーの株などを中心に無謀な投機が行われていました。
カレン・ブル―メンソール「特に人気があったのは、電気機器メーカー「RCA」の株でした。車にラジオをつけるという発想で時代の最先端を行っていた企業です。」
リチャード・シラ「人々は製品と株を結び付けて考えるようになりました。お気に入りの商品を作っている会社の株主に自分もなれることに気づいたのです。」
1920年代半ばには、株に投資するアメリカ人は、およそ300万人に膨れ上がっていました。一攫千金の話も出て、株価が上がり続けるのが当然のように思われていました。
雑誌・新聞・ラジオ、あらゆるメディアが株式市場の動向に注目していました。チャーリーチャップリンやグルーチョマルクスのようなスターたちがどんな株を買っているのかも話題になりました。
喜劇俳優、グルーチョ・マルクスは貯金を全て株に回しました。儲けで気をよくした彼は、兄弟にも投資を勧めています。
「まさに濡れ手で粟だ。RCAが今朝から7ポイント上げて、7000ドル儲かった。」
スターが投資家になる一方、投資家たちもスター扱いされるようになりました。創造力と企業家精神に溢れ、アメリカに富をもたらす人物としてです。のちの大統領、ジョン・F・ケネディの父、ジョセフ・ケネディも金融界のスターの1人でした。
スティーブ・フレーザー「ジョセフ・ケネディのように、庶民出身の男がたちまち金持ちになるのを見て、みなますます株に夢中になりました。自分もいつかあんな風になれるかもしれないと希望を抱いたのです。」
株を買えば、誰でも簡単に株を稼げるという考えが広まりました。ウォール街で靴磨きをしていたパッド・ボローニャも成功物語を夢見ていました。
ウィリアム・ボローニャ(パッド・ボローニャの息子)「当時のニューヨークで、株式市場は絶大な力を持っていました。父は17、18歳の頃、ウォール街で靴磨きをしていました。ジョセフ・ケネディやチャールズ・ミッチェルのような大物たちの靴を毎日磨いていたんです。父は彼らと話すうちに、「連邦準備制度」など、靴磨きに縁のなさそうな知識を身に付けていきました。朝から晩まで、ウォール街のトップたちと話をして吸収したのです。そして、自分も株をはじめました。」
アービング・カーン(元メッセンジャーボーイ)「私は1928年にウォール街で働き始めました。みんなが大金を稼いでる場所に興味があったからです。まず取引所の立会所でメッセンジャーボーイとして働きました。2週間もすると、人間の欲深さを実感しました。」
人々は株の相場が上がることを信じ、借りた資金で株を買いました。「信用取引」と呼ばれる方法を使ったのです。投資する側は、代金の一部を支払い、残りは仲介業者が用立てます。今買って後で支払う風潮が株式市場にも広がりました。
スティーブ・フレーザー「信用取引は借金と同じです。1920年代後半、購入される株の代金の9割を借金が占めていました。」
カレン・ブル―メンソール「限度額が決まっていなかったので、皆莫大なお金を借り入れました。25ドルで100ドルの株をでき、残りの75ドルは銀行や証券会社が融資したんです。当時の上げ相場では、25ドルで買った株が200ドル、300ドルの価値を持つ可能性がありました。その額は莫大で、1920年代後半では融資される額の40%近くが株の購入に充てられていたのです。」
借りた金が大量に株式市場に流入し、株価はさらに上がり続けました。1928年の1年間で株価は50%近く上昇し、この高騰がさらに株で一儲けしようという人々を惹きつけました。靴磨きの少年、パッド・ボローニャもその一人でした。
「父が株に使ったのは現金で6000ドルくらいだったそうです。でも信用取引では、証拠金として1割払うだけで良かったので、6000ドルの元手があれば6万ドル相当の株を買うことが出来ます。」
ウォール街は新たな顧客を探しました。そして、これまで金融業界が無視してきた人々の資金に目を付けます。
「1920年代まで株に投資する女性はほとんどいませんでした。理由の1つは偏見です。女性は株を売買する時に必要な冷静な判断力に欠けるとされていたのです。しかし、株式市場の大衆化が進むにつれて女性の数が急増しました。」
「1920年代のアメリカの女性は、社会進出を果たしました。自立し貯金を管理し、大学に進出する女性も急増しました。自分のためのお金を作る手段として株への関心も高まっていきました。」
好調な経済に後押しされ、共和党は1921年から政権を維持し続けました。1923年カルビン・クーリッジが大統領に就任。自身も投資家であるクーリッジは加熱するウォール街の投機を静観するだけでした。
クーリッジは1920年代の向こう見ずな自由放任主義を象徴するような人物です。彼は、「アメリカの本分は、ビジネスだ。」と豪語しました。
リチャード・ドラ(ニューヨーク大学 教授)「繁栄の時代でした。企業のウォール街も潤っていました。政治家たちは経済が好評ならば市場に任せて邪魔をしないのが政府の役目だと考えたのでしょう。」
クーリッジ政権下、ウォール街は力を増していきます。銀行家や資本家のエリート集団が政府と密接なつながりを持つようになったのです。彼らは、財力と人脈で政府の金融政策に絶大な影響を及ぼしました。ウォール街での並み居る金融業界の中でも特に有力だったのが、証券取引所の正面に構えるJPモルガン銀行です。
経営のトップ、トーマス・ラモントの権力は絶大で、その影響力はニューヨークに留まりませんでした。JPモルガンの経営陣は、歴代大統領とも定期的に会合を持つようになります。
エドワード・ラモント(トーマス・ラモントの孫)「祖父は実に忙しい人で、世間一般のおじいさんとは違っていました。孫を野球観戦や釣りに連れて行くような時間がなかったのです。祖父のライフスタイルはとても優雅なものでした。レナードという全長22mのヨットを持っていて、会社へ行くにもそれを使っていました。郊外の自宅からハドソン川を下り、ウォール街に向かったのです。」
ラモントは、市場取引での逸脱行為が起らないように指導を行っていました。また一方で、政治家との緊密な関係を築き、ウォール街への政府の干渉を最小限に抑えました。
ロン・チャーナウ「1920年代の株式市場は公正でも民主的でもなく、投機のプロに不正に操作された巨大なカジノのようなものでした。」
小口の投資家たちは勝ち目のないギャンブルに全財産をつぎ込んでいたようなものでした。ジョセフ・ケネディのような投資家たちは、純粋に株で利益を上げたわけではなく、知識のない投資家を利用して莫大な富を得たのです。
やり手の投資家たちが手を組んで、株価を操作しました。特定の株をさりげなく、しかし大量に買い占めるのです。取引を活発化させ、株価を吊り上げておいて、一気に売りぬいたのです。一般の投資家は損をし、彼らは大きな利益を得るというやり口です。当時はウォール街の大手の投資銀行の中にすら、こうした株価操作に手を染めていたところがあったのです。
1929年3月、共和党のハーバード・フーバーが大統領に就任。その演説は国民に希望を与えました。「我々は、世界史上最高の快適さと安全を手に入れたのだ。」
しかし、フーバーの自信は揺らいでいました。
フーバーは、経済全般について疑問を感じていたものの、政治的な決断を下すほどの確信が持てませんでした。そのため、大統領に就任しても市場の過熱ぶりを抑える措置は、一切取ろうとしませんでした。連邦準備制度理事会や財務省に信用取引の規制を促すこともなかったのです。フーバーは、個人的には市場の状態を懸念していたものの、前任のクーリッジ大統領と同様に、規制に乗り出す気はありませんでした。
市場の過熱ぶりを心配したのは、フーバーだけではありません。大統領の就任演説から数日後、著名な銀行家ポール・ウォーバーグが、特権階級と決別し警告を発しました。「規制なき投機がこれ以上蔓延するのを許せば、やがて市場は破綻する。それは必ず全米規模の恐慌につながるだろう。」
キャサリン・ウェーバー(ポール・ウォーバーグの曽孫)「私の曽祖父は、実際に「恐慌」という言葉を使って、金融破綻を警告したのです。しかし反論にかき消されてしまいました。「うまくいっているのに水を差すな」ということでしょうけど。」
ウォーバーグの警告に耳を貸す者はいませんでした。1929年5月から9月までにニューヨーク証券取引所には新たに60社1億株が上場され、バブルが過熱しました。
カレン・ブル―メンソール「「これまでとは違う。」「金融の世界は変わった。」それがバブルの時の決まり文句です。俳優のグルーチョ・マルクスが「なぜ株価が上がり続けるのか?」と聞くと、ブローカーは「いいですか。経済もグローバル化の時代なんです。」と答えたそうです。これは80年前の話ですが最近も聞いたようなセリフですよね。」
一方、市場の過熱ぶりを危惧したプロの投資家たちは、夏の間に撤退していました。
ウィリアム・ボローニャ「ジョセフ・ケネディは思ったそうです。靴磨きの少年が自分なりに株式市場に精通している状況なら、手を引いた方が賢明だろう」と。」
・予兆、そして惨劇へ
9月、市場は乱高下を繰り返します。フーバー大統領は、密かに不安を募らせていました。フーバーはウォール街の友人たちに相談しました。「これは懸念すべき事態だろうか。」と。そして、JPモルガン銀行のトーマス・ラモントから答えを得ました。
エドワード・ラモント「祖父はこう返信しました。「市場は自らを修正しますけど、政府が市場に介入する必要はありません。」と。」
ラモントは、「心配いらない。」と言ってフーバーを安心させました。その手紙は「未来は明るい。」という1文で締めくくられていました。
その5日後、株価が急落しました。
1929年10月23日水曜日の夕方、原因不明のまま株価が急落。何の前触れもなく自動車株が大幅に下げ、取引終了の1時間前に数百万ドルの売りが殺到しました。その翌日、1929年の悪夢が始まります。
「1929年10月24日、世界恐慌のきっかけになった株価の大暴落が起きました。暗黒の木曜日です。あまりのショックに現実を受け入れることが出来ず、皆ただ茫然としたのです。パニックが起こりました。株価がどんどん下がり続けました。情報を求め、群衆が証券取引所の前に詰めかけました。
人々は沈痛な面持ちで取引所を見つめていました。全財産を失ったのですから。
騎馬警官が400人も出動しました。フランス革命のバスティーユ襲撃のように群衆が証券取引所の前になだれ込むのではないかと恐れたのです。
あたりにはさざめきの様な奇妙な音が聞こえていたようです。集まった人たちが口々に不安を言い合う音が重なって、1つのうねりの様に聞こえたのだと思います。「こんなことはありえない」という反応がほとんどでした。
その日、居合わせたのがイギリスのウィンストン・チャーチルです。株に多額の資金を投じていた彼は、証券取引所を訪問するところでした。
「ウォール街に着いた頃、パニックは頂点に達していた。見知らぬ人が私の姿を認め、証券取引所の中に招き入れてくれた。地獄さながらの大混乱を予想していたが、皆驚くほど冷静だった。1200人がフロアを行きかう様は、巣をつつかれたアリの大軍をスローモーションで見ているようだった。彼らは有価証券の束を元の3分の1の値でやり取りしていた。(10月24日、チャーチルの手記から)
この日、チャーチル自身も大きな損失を被りました。
金融破綻を回避するため、銀行家たちは対応を迫られました。タイムズ紙の記者がその様子を記録しています。
「人だかりが増え、騒々しさを増した。背広を脱いだYシャツ姿の男が人込みをかき分けながら、JPモルガン銀行に向かうのが見えた。(10月24日、コックバーン記者の回顧録から)
ナショナルシティバンク会長、チャールズ・ミッチェルだ。その少し後、彼が何のためにJPモルガン銀行へ向かったのかが明らかになった。
チャールズ・ミッチェルはJPモルガンとの会合に呼ばれていました。
ニューヨーク証券取引所の副会長、リチャード・ホイットニーなど、金融界の大物4人の会合です。いずれも資産60億ドルを超える、全米屈指の富豪たちでした。会議の議長を務めたのは、トーマス・ラモットです。
トーマス・ラモント「祖父は大変なショックを受けたでしょう。あんな事態は全く予測していなかったはずです。祖父はウォール街のオフィスにニューヨークを代表する銀行家を集めて、会議を開きました。向かいの取引所で起きている株の暴落を食い止めるために対策を話し合ったのです。その結果、資金を出し合って、2億5000万ドルを用意し、主要な銘柄を買い支えることにしました。
昼休み、リチャード・ホイットニーは、証券取引所の立会所に戻りました。巨額の資金を注入することで、市場が再び機能することを期待したのです。
ホイットニーは、USスチールの株が売られているデスクへつかつかと歩いていき、2万5000株を買いました。その時の相場よりもずっと高い値段でです。他のデスクにも歩いていき、同じように株を買いました。市場への投資家の信頼を取り戻そうとしたのです。彼の他にもジョン・ロックフェラーをはじめ、金融界の大物が株を大量に購入しました。市場の流れを変えようとしたのです。
効き目はありました。ホイットニーやモルガンの名前が持つ魔力おかげでした。株価は一転して上がり始めたのです。
当時のテクノロジーは原始的でした。24日にあまりにも多くの取引が行われたので、ティッカーが全てのデータを打ち出すまでに取引終了から4時間もかかったのです。
ティッカーの打ち出す情報は、実際の取引から数時間も遅れ、全く無意味になってしまった。高層ビルのオフィスの窓には一晩中明かりがともり、事務員や帳簿係が奮闘していた。翌日の取引が始まる前に、その日の分を処理しなければならないからだ。彼らは疲れ果ててデスクに突っ伏したり、大理石に床に倒れ込んで眠った。(ニューヨークタイムズ紙、エリオット・ベルの記事から)
10月28日月曜日、ティッカーから最新の株価が得られず、パニックに陥った国中の投資家たちが一斉にニューヨークに電話をかけ、回線はパンク状態になりました。多くの投資家は、この時初めて安易な信用取引の落とし穴に気が付きました。
1920年代には、非常に多くの投資家が信用取引を利用していました。つまり「借金して株を買っていた」わけです。その場合、株価が上昇していれば元手よりはるかに大きな利益が入ってきます。しかし、株価が下落すれば、正反対の状況に陥ります。
損失が大幅に拡大するのです。信用取引を利用していた人たちは、担保を増やすように迫られました。上げ相場では経験しなかった事態です。25ドルの証拠金で100ドルの株を買った場合、残金は仲介業者が融資しています。株価の暴落を受けて証券会社は焦げ付きを恐れました。現金を上乗せしなければ株を売却すると通知したのです。
「火曜日午後1時までに600ドル振り込むように。入金が確認できない場合、あなたの有価証券は全て売却します。」(仲介業者からの電報)
お金のない人もいれば、工面するのに時間がかかった人もいたでしょうが仲介業者も待ったなしの状態でした。
1929年10月29日火曜日の朝、アメリカの産業界を代表し、経済成長の象徴でもあったUSスチール、RCA、ゼネラルモーターズの株価が急落しました。
売り注文の数があまりにも膨大だったため、JPモルガンでの会議は開かれませんでした。銀行家たちが食い止められるレベルをはるかに超えてしまっていました。
月曜朝から火曜日の夕方までのわずか36時間で全ての株が22%以上下落しました。
命を絶った人もいました。ウォール街で30~40年築いた富をたった数日で失ったからです。
株価暴落による銀行の倒産が相次ぎました。数百ドルから1000ドルほどのお金を銀行に預けていました。
当時は預金を保護する「連邦預金保険公社」も設立されておらず、金融を下支えする体制がありませんでした。銀行が経営難になると、預金が引き出せなくなってしまいます。近くの銀行が危ないという噂が出れば、皆が銀行に殺到して取り付け騒ぎになる悪循環になりました。2~3年で3000もの銀行が閉鎖されました。誰も銀行を信用せず、お金をマットレスの下に隠すようになりました。
銀行の経営難により、企業が融資を受けられなくなりました。健全な企業ですら、従業員に給料を払ったり、商品の仕入れに必要な短期の信用貸しを断られたのです。企業の倒産が相次ぎ、従業員は職を失いました。その結果、需要の減少を招きました。
・今後到来する悲劇
歴史に残る大暴落による不況から脱却方法として、フランクリン・ルーズベルトは、ニューディール政策を実行しました。
ニューディール政策(1933年~1939年)とは、米ルーズベルト大統領が世界恐慌克服のために実施した経済政策。連邦政府が強大な権力を持った政策の結果が出る前に第2次世界大戦に突入。景気は回復した。
この政策は、アメリカを社会主義に変容させるためでした。
アメリカの資本家でオクシデンタル石油の会長を長く務めたロシア系ユダヤ人のアーマンド・ハマーは、ソ連と米国間の貿易ビジネスで活躍し、ユダヤ人国際政商であるレーニンとも親交がありました。
ハマーはニューディール政策を支持しました。ルーズベルトはアメリカの富を世界のため(ウォール街の資本家の為)に使おうとしたということが理由です。
2020年に流行し始めた武漢肺炎によって、ロックダウン等の実施により経済活動が抑制されました。そして、ウクライナ騒動や物価高を経て2022年第2四半期のアメリカGDPは0.9%縮小し、2回連続で減少しました。
経済が抑制されると世界同時不況が発生します。世界同時不況は世界恐慌を伴います。それは自然発生的ではなく人為的です。
アメリカの富を世界に移転しようとする政策は、100年前はルーズベルトが行い、現在はWTO(自由貿易体制を推進する組織)が行おうとしています。
不況・恐慌を起こすことで倒産した企業が買い叩かれて支配を勧めていくことになります。
今回は以上になります。
最後までお読みいただきありがとうございました。
またよろしくお願いします。
■参考動画