そういえば引きこもりだった。
この記事はぼくが引きこもりニートから立ち直り、社会との接点を持ち、結婚して現在のまあまあ幸せな生活を送れるようになったきっかけというか、方法というか、ただの実体験をぐだぐだ書いたものです。思ったより長文になってしまいました。以前のぼくのように引きこもってモヤモヤしてるひと、そんなお子さんをお持ちのご両親なんかに読んでもらえたらいいかなと思います。
理学療法士なんてたいそう立派な肩書き付けて生きてると忘れてしまいそうになる。
そういえば、ぼくは引きこもりだった。
引きこもりというよりニートか。
ニートというよりただのプー太郎か。
外に出れないわけじゃなくって友だちと遊ぶときは外出したし、一晩中遊び歩いて帰るのは朝がただったりした。
引きこもってたわけじゃない。
仕事をしなければ生きていけない家庭だったし、働かなければいけないとわかっていた。というかちゃんと働きたいと思っていた。求職活動もしていた。
だからニートとも違う(たぶん)
ただ、仕事にありつけなかったし、何かやりたいことがあるかというと何もない。仕事に就いても長続きしない。自分が社会に貢献できるものなんて何もないと思い込んでいた。ヒガミとコンプレックスだけ一人前。
本当にただのプー太郎。
これは、いつ頃の記憶だろう。
現在から過去へ
現在の年齢は42歳。
結婚したのが31歳。その頃は化学系の調査会社で正社員として働いてた。その前は某大手自動車部品メーカーで派遣社員として働いていた。
その前は、派遣の仕事を転々として、iDC(インターネットデータセンター)のオペレーターとかやってた。
その前は・・・記憶にない。
派遣を転々としていたのはたぶん、24歳くらいか。それ以降は転職を繰り返しながらも隙間なく働き続けている。
それ以前の働いていた記憶がない。
過去から時間を進めてみる
どのくらい遡ればいいのか。
ぼくの心の根幹にあるドロドロした得体の知れないものを白日の元に晒すのならば、かなり幼い記憶まで引っ張り出す必要がある。
最低と最高
小学生の頃、ぼくはイジメにあっていた。家が貧乏だったからだろうか。いや、加害者からしたらそんなことはどうでもいいのだろう。ぼくの通っていた小学校は県営住宅団地の外れに建っていて、そこに通う児童は全員同じ団地に住んでいた。
家賃1万円のスラム街のような団地だ。
要するに、全員貧乏だ。
うちはその家賃すら払えないほどの貧しさだったから中でもトップクラスの貧乏だったとは思うけど、イジメの中心になってたヤツは母子家庭だったし、やっぱり貧乏だったと思う。
とにかく、原因はわからないがイジメにあっていた。女子からはバイ菌のように扱われ、隣の席の子はぼくと机が接触するのを嫌がって常に10センチの間隔を空けていた。その子が他の男子とモメると男子はその子の机を押してぼくの机とくっつけた。机をくっつけることが攻撃なのだ。嫌がらせとして成立するのだ。やられた方も「ちょっとやめてよ!」とか言いながら再び机を引き離してぼくの机と接触した部分を手で拭うような仕草をする。
ぼくはその光景を呆れた顔で眺めていた。
という記憶があるが、実際は悲壮な顔してうつむきながらこのくだらない茶番が早く終わるように祈るだけだったかもしれない。
男子のイジメは直接的でわかりやすく、しっかりとしたイジメだ。殴る、蹴る、踏みつける。ビンボーっ!と叫びながら背中に飛び蹴りをする。
これらのイジメには結構耐えられた。無表情で相手を見た後、何事もなかったようにその場を立ち去る。ぼくがクラスメイトからの暴力に耐えられたのは、ぼくが強かったからではない。家ではもっと辛い暴力を受けていたからだ。父親の木刀と比べたら小学生の拳や蹴りなどたいして怖くはなかった。痛いのは痛いけど。
高学年になるとぼくは登校拒否をするようになった。母にはイジメの事実を打ち明けて、父親には内緒で学校を休んでいた。
そんなある日、ぼくが学校を休んでいる間、事件は起こった。
ぼくの親友が、イジメの中心人物を殴ったという。そう、ぼくには親友がいた。ぼくがイジメにあっていても変わらず側にいてくれた。ぼくを遊びに誘ってくれた。ぼくといると親友も暴力を受けた。でも彼らはぼくとの付き合いを変えなかった。そんな親友が2人もいたのだ。
最低な生活だったけど、最高の親友がいた。
彼らがイジメの中心人物をぶん殴ったことで、ぼくへのイジメはピタリと止んだ。
心の傷
中学生になるとぼくは親友のひとりと決別した。ある日突然無視されるようになったのだ。後から知ったのだが、その頃つるんでいた別の友人が、ぼくらの仲を悪くするように画策し、親友にぼくのことをいろいろ吹き込んでいたらしい。「女の腐ったような奴だ」なんて言ったら女性から怒られるだろうか。こんな奴がこの世に存在するのか。胸糞悪いクズである。
ぼくはひとりになった。
この頃、家では家族全員で父親を追い出すことに成功していた。両親は晴れて離婚し、アル中で元ヤクザでパチンコ狂いの父親は我が家から消えていった。(最近、この父親が名古屋のアパートで孤独死しているところを発見されたと姉から連絡があった。なにも思わなかった。どうやら生活保護を受けていたらしい。あいつが家をでたのは今のぼくと同じ年くらいだったと思う。いくらでも生活を立て直すことはできただろうに。しょうもない死に方だなと、それだけ思った。)
ひとりになったぼくを救ってくれたのはもうひとりの親友だった。ぼくらは他人を攻撃することで心の傷を隠し、ぼくの顔からは表情が消えていった。
母の願い
中学も卒業が近づき、進路を考える頃、ぼくはなにも考えてなかった。高校なんて行けるわけないと思っていたけど、中卒で働くのもかったるい。世の中のことなんて全くわからないガキだったが、今思えば当時はバブル全盛期。生まれた頃から貧しくてバブルの恩恵など受けたことがなかったが、選ばなければ仕事はいくらでもあると思っていた気がする。どっかの汚ねぇ工場にでも就職すんのかなとかぼんやり想像していた。
しかし母は違った。ぼくに高校くらいは行ってくれと言ってきた。ぼくの兄も姉もみんな中卒で働きに出た。ぼくだけ高校?めんどくさいんだけど。でも母の願いは強かった。ぼくは根負けして進学することにした。とはいえ、ほとんど授業に出ることもなく、成績なんて存在しないバカ生徒に入学できる高校なんてない。担任の先生は夜間定時制のある県立高校を勧めてくれた。
結果、ぼくはその高校を卒業することになる。
(友達もいないし誰とも絡むこともない退屈な高校生活を嫌々続けたが、高校を卒業していなければ理学療法士の専門学校へ入学することはできなかったのだから今は母に感謝しなければならない)
氷河期
さすがに大学は無理だから卒業と同時にどこかへ就職しなければならない。しかし夜間定時制というのは就職先を斡旋してくれないらしい。そもそも昼間働いている人たちのための学校だからだ。
しかも高校の4年間で時代がガラリと変わっていた。バブル経済の崩壊。それに伴いたくさんの企業が新卒採用を見送った。
就職氷河期である。
結局、ぼくはどこにも就職できずに社会に放り出されることとなる。
車の免許くらい持っとけ
ぼくの地元は愛知県。世界のTOYOTAのお膝元。完全な車社会である。車のない奴は買い物できない。友だちできない。彼女もできない。就職できない。出世もできない。車がなければ何もできない街なのだ。
ぼくは自動車運転免許を取得するため、とりあえずバイトすることになった。個人や中古車販売店、新車のディーラーなどを相手に車の清掃を行う業者だ。そこでバイトをしながら教習所に通うための資金を貯めた。
これは本当にどうでもいい話しだが名古屋では自動車教習所を自動車学校という。呼び方は「車校:しゃこう:syakou」である。ぼくが通ったのも知多自動車学校という名前の車校だった。
ここまでで19歳。
自動車の運転免許を取得したのち、しばらくしても就職できないでいると兄がブチ切れ。建設現場の作業員として独立したばかりの兄の仕事を手伝うことになった。多分、この仕事は2年ほど続けたと思う。
この時21歳。
24歳までの3年間
まったく記憶にございません。
就職活動はしてた。何社も面接して不採用通知をもらった。不採用になるたびに心が重くなった。自分は社会に必要とされていないことを思い知った。なんの役にも立たない存在だと気付かされた。大きな壁の、ひとつのレンガにもなれないとわかった。
手に職をつけようとゲートウェイの安いモデル、それでも当時は20万円以上したけど、デスクトップパソコンを買った。OSはWindows98、CPUはCeleron、Pentium Ⅲの500MHzが発売されたばかりだったから欲しかったけどCPU単体で10万したから断念。アビバとかに通う資金はなかったから独学でパソコンを、せめてOfficeくらいは使えるようになろうと勉強した。
毎日部屋に閉じこもって勉強・・・するもりだったけどテレホーダイ時間にネットサーフィンというとてつもない誘惑に勝てずただただパソコンで遊んでいた。
funny gamers heavenのクソゲーレビューを読んで独り腹抱えて笑ってた。侍魂の先行者GIF見ながら腹抱えて笑ってた。海外サイトからダウンロードした何千本ものROMデータをSNESエミュレーターに読み込ませて夜通し遊んでた。
そんな記憶しかない。
この時期は完全にニートだった。
ほんと、3年も何してたんだろ。
コンピュータの仕事がしたい
せっかく大金使って手に入れたコンピュータ。それを使った仕事がしたいとネットワークエンジニアを目指した。とりあえずCCNAの資格をとろうと独学で勉強。
すぐ挫折。
派遣会社に登録して未経験でも雇ってくれる企業を探したけど見つからなかった。
何をやってもザコはザコ
本当になんの役にもたたないな。おれは。
工場とかで働いたこともあるけど1日で辞めたからいつ頃か覚えてないよ。
4日で辞めた仕事もあるよ。
半年もたなかった仕事は数え切れないよ。
やっと興味が持てたネットワークエンジニアもすぐに挫折して諦めたよ。
人として何かが欠落してるんだと思う。他の人が当たり前にできることが、ぼくにはできない。当たり前にっていっても他の人が余裕でできてるとは思ってない。みんなすごく努力してるのはわかってる。自分も同じように努力しなくちゃいけない。でもそれができない。やって当たり前レベルの努力がぼくにはできない。
ザコ・オブ・ザコ
社会の底辺を這いずり回るゴキブリ。
どうしてこんなクズに仕上がってしまったのだろう。生まれた家が悪かったのだろうか。父親がマトモなサラリーマンだったら違っただろうか。幼少期のイジメのせいか。中学校で付き合うひとを間違えたか。なんなら完全にグレて暴走族にでも入っていれば少なくとも根性だけは身についただろうか。
どれが原因かわからない。
わからないけどぼくはニートになった。
たった3年で離脱できたのは幸運だったと思う。
なんでもいいから外に出よう
プー太郎3年目。24歳のとき現状を打破したくてとにかくなんでもやってみようと思った。同級生たちは大学を卒業してこの世の春を謳歌している(ように見えた)。高校時代を共に過ごした悪友たちもなんだかんだで社会に適応していた。
ぼくだけ取り残された気分だった。
派遣会社に登録して「なんでもやります」と言った。営業さんに腕時計を買いなさいと言われ、ディスカウントストアでオリエントのシンプルな腕時計を4000円で買った。
携帯電話をインターネットに接続できる機種に変更した。
ボロボロのエンジニアブーツを脱ぎ捨て、カジュアルなスニーカーに履き替えた。
パンツは時代遅れのブーツカット、リーバイス517からローライズ気味かつ細身のカーゴパンツに履き替えた。
貰い物のライダースジャケットを捨ててスタイリッシュなシルエットが印象的なフード付きの茶色いジャケットを1万7千円も出して買った。
髪を切るときは美容院へ。
全て、今まで毛嫌いして避けてきたことだ。
地元の友人とも連絡を取らなくなっていった。
人生は回りだすと早い
気がつくと30手前になっていた。紹介された仕事をコツコツとがんばり、時給は少しつづつ上がっていって最終は時給1700円貰えるようになっていた。
インターネットに接続できる携帯電話を持ったことで新たにはじめたことがあった。
出会い系サイトへの登録である。
いや、変な目的じゃなくて純粋に異性と交流したいと、接点を持ちたいと思ったからだ。これもぼくがずっと避けてたことだから。
出会い系サイトを半年ほど使ってみてわかったことがある。ここは恋愛がしたい普通の男女が出会える場所ではないということ。
それでもぼくは異性との知り合い方がわからず出会い系で出会う方法を考えた。
そのサイトは1日1回だけ無料で掲示板への恋人募集メッセージが書き込めるようになっていた。
ぼくはそこに毎日投稿し続けた。
出会い系には色々な目的で登録している女性がいる。
①純粋に恋人が欲しい人(少数派)
②友達が欲しい人
③援交目的の人(多数派)
④冷やかしの人
⑤友達に誘われたからとりあえず登録した人
⑥なんか暇だし淋しいからあまり使う気はないんだけどなんとなく登録しちゃった人
などなど。ぼくが知り合いたいのは普通の女の子。つまり④〜⑥に該当する女の子だ。そんなに積極的にサイトを使う気はないし会うなんてもっての外、暇だから恋人募集の掲示板見ながら「モテない男たちが必死にアピールしてるわw」とか考えてる人たち。この人たちこそ『普通のひと』だと思った。
毎日投稿することで彼女たちに自分を知ってもらうことにした。だからただの日記を書き続けた。年収800万円の独身30代です、一緒に映画観に行きませんか、ZARD好きな人募集!とか必死さ満点の書き込みのなかで「今日は古着を買いに大須へ行きました」とか「鬼まんじゅうは蒸しパンとは違うらしい」みたいな書き込みがあったら目立つかなと思って。
そういえばこの人毎日なんか書いてるな
昨日は少し笑ったな
今日はどんなこと書くのかな
え、ブランキー好きなんだ
みたいに少しづつぼくのことを知ってもらえたらその方がいいと思った。めちゃくちゃ非効率だけどコツコツがんばった。
毎日投稿を続ける中で何通か「いつも読んでます。がんばってね」みたいな普通の人からのメッセージをいただくようになった。ぼくは嬉しくてお礼のメッセージを1通だけ送った。ちなみにこのサイトでは男性が女性にメッセージを送るのに50円分のポイントを消費する。だからやさしいひとだと「メッセージいらないよーポイント大事に使ってねー」とか返信をくれた。
そうそう!こうゆう普通の人とやりとりしたかったんだ。この短いやりとりだけでぼくは満足していた。
毎日投稿することでぼくの存在を知ってもらう。そうしてぼくを知った人からリアクションがくる。ぼくはお礼を言う。
これって何もなかったぼくにとっては凄く大きいこと。コミュ障のぼくにはちょうどいいリハビリになった。
半年ほど毎日投稿を続け、ぼくは4人の女性と会い、食事をし、お酒を飲み、ときどき会える友だち関係になった。
しかしぼくは彼女たちとの関係を長続きさせようとは思わなかった。彼女たちもそうだった。ぼくはいい経験ができたことで満足だったし、彼女たちにはいい暇つぶしになっただろう。
ぼくは普通のひとと知り合いたかった。でも彼女たち4人のうち3人は彼氏がいて、1人は旦那と子供がいた。
この引きの悪さはなんだろう。まぬけな間男気質か。
彼氏や旦那に内緒でときどき会うひと。そんな存在になれただけでもぼくにしては上出来だろう。彼女たちには感謝している。本当にいい経験ができた。女性と1対1でお酒を飲みに行く。これまでのぼくには考えられないことだ。
ぼくの書く文章を面白がってくれてありがとう。ぼくに興味を持ってくれてありがとう。ぼくにメールアドレスを教えてくれてありがとう。ぼくと毎日メールしてくれてありがとう。ぼくと会ってくれてありがとう。ぼくと約束してくれてありがとう。ぼくと食事をしてくれてありがとう。ぼくとお酒を飲んでくれてありがとう。ぼくと次の約束を交わしてくれてありがとう。ぼくに「女性」を教えてくれてありがとう。
彼女たちがぼくにしてくれたこと、一言で言うなら「承認してくれた」ということなんだと思う。ぼくをこの世界に存在するひとりの人間として、ひとりの男性として認めてくれた。
本当に感謝します。
ぼくは次のステージに行きます。
セフレが欲しいわけじゃないもんで。
妻との出会い
出会い系サイトでの武者修行もひと段落ついた頃、ぼくは31歳になっていた。サイトで知り合った人たちともひとりずつ関係が消滅していった。
ぼくは大手レンタルビデオショップが運営するSNSで映画の感想を書くというどうでもいい趣味を始めていた。何本か書いているうちに他のユーザーからコメントをいただくようになった。
乙一原作の映画「キッズ」の感想をアップしたとき、コメントをくれたひとがいた。神戸に住むそのひとと、互いの記事にコメントしあうようになり、メールアドレスを交換し、Skypeで会話するようになり、電話番号を交換し、互いの写真を交換したりして仲良くなっていった。
そのひとが今の妻である。
出会ってすぐ一緒に生活するようになって結婚。名古屋で暮らしていたけどぼくが理学療法士になるべく妻の実家のある神戸に移住。
むちゃくちゃハショって現在に至る。
認めてもらいたい
ひとは誰かに認めてもらいたいのだと思う。
最近は「承認欲求」なんて無味乾燥な言葉で表現されるけど、そんな言葉で片づけないで欲しい。認めてもらいたいってすごく可愛い感情だし、人間らしいし、温かいし、ゆりかごから墓場まで人間ならだれもが持ち続けるべき基本的な感情だと思う。あいつは承認欲求が強いとか悪い意味で使われるのはすごく残念。
このnoteはとんでもなく長くなってしまったけど、結局なにがいいたいかというと、認めてくれる人がいないと人は腐っちゃうよ!ってこと。
引きこもりでもニートでも貧乏でも
人見知りでもコミュ障でも童貞でも
いじめられっ子でもいじめっ子でも見物人でも
冷やかしでも援交JKでも人妻でも
PTでもナースでもドクターでも
みんな誰かに認めてもらいたいんだと思う。
それだけで人生が変わるんだなと思うわけです。
ぼくのこれまでの人生にも要所要所でぼくを認めてくれる人との出会いがあった。小学生のころの親友だったり、中学校の先生だったり、兄だったり、母だったり、高校生時代の悪友だったり、派遣会社の営業さんだったり、派遣先の社員さんだったり、出会い系で知り合った女性たちだったり、妻だったり。
ひとから認めてもらえるという事は、生きてていいよって言われることとイコールなのです。少なくとも自分自身にひとつも存在価値を見出せないぼくにとってはね。
認めてもらえないと生きていけない。
なんて可愛い感情でしょう。
きっと30年引きこもってるおじさんも
登校拒否のぼうずやおじょうちゃんも
頼まれると断れなくて誰とでも寝ちゃう女の子も
万引き依存症の専業主婦も
子育てに無関心なサラリーマンも
役者も芸人もアイドルもロックンローラーもユーチューバーも
アル中で元ヤクザでパチンコ狂いで孤独死したクソ親父も
みんな同じなんじゃないかしら。
ぼくと同じなんじゃないかしら。
そう思うのです。
7500字こえたから唐突におわり。