1989年東西ベルリン珍道中 #2
さて、1番の若手君は渡仏してまだ10日ほど。なのにいきなりバカンスって(笑)
私、彼を見た時、見たことある人だなと思ったのだ。で、そうつ伝えると、こともなげに
「そりゃそうだよ、僕、藤が丘に住んでいたんだから」
藤が丘、私の大学の近所だ。私は大学構内の寮に住んでいたので、まさにご近所さん。駅前のミスタードーナツでだべっていたとき、隣にいたかもしれない人だったのだ。そんな人とベルリンで会うなんて!?と、私がすごく驚いているのに、彼は全然驚いていないのが逆に面白く思えた。
はじめに私に声をかけた細身のK氏はもう長くパリの有名韓国料理レストランで働いている人。
「よく有名なデザイナーが食べに来るよ」
と、何人かの名前を上げた。カンサイだったか、ケンゾーだったか。忘れてしまったが。
最後のヒゲ氏は…面白い人だと言うのは覚えているが、シャイなお方だったので私にはほとんど話しかけて来なかった。(笑)
そんな3人と私との珍道中がはじまった。
行程は一日め、西ベルリン、二日目、地下鉄で東ベルリンへ。
寒いけど、パッチがないから、と、私にパンストを買わせたり(自分で買ったら変な人だと思われるもんね)、国際学生証を持っている私にひっついて、まんまと学生料金で観光バスに乗り込んだり、ちょっとした待ち時間にトランプをおっぱじめて、周囲の注目を浴びたり、彼らの行動の面白いこと!
3人は職業柄、食への関心、好奇心が強い。
通りすがりにある屋台で何やら見つけたと思ったら次の瞬間には買ってて
「ほれ、食べなさい」
だの、ホテルの朝食では、いつのまに買っていたのか、スーパーでいろいろ調達したものを広げ
「お、このサラミ、さすがドイツだな」
なんてやっている。
そして必ず
「君も食べなさい」
お世話になりましたね(笑)
でも私はレストランの人に注意されやしないかと、ちょっとドキドキ。
私はドイツ語が少し出来るという理由だけで彼らから「敦子女史」と呼ばれた。すごく賢そうだ(笑)。
一番年長のK氏は、
「敦子女史、これ食べなさい」
に始まり、
「敦子女史、寒いからカッコを気にせずにジャケットの前を全部閉めなさい!」
だの、親戚のおじさんかなんかのように世話を焼いてくれた。
東ベルリンの印象は…暗い街。
前日の西ベルリンでは晴天だったのとうって変わって、3月の終わりというのに雪までちらつくような曇天だったから、ということもあるだろう。
また、車が悪いせいか(トラバントなんてのも走ってたな。なぜか黄緑色、とか、安っぽい、ミョーな色が目についた。)空気が明らかに西ベルリンと比べて悪い。
大都市のはずなのに、あまり人が歩いていない。
4人で最後に入ったレストランで、我々はいろいろな話をした。そのほとんどは忘れてしまった。だが、一つだけ印象深い話がある。
「給料が出たら、ちゃんとネクタイを締めて、一流のレストランに食べに行く」
という話。それは贅沢ではなくて、勉強のために。
「いつまでも勉強なんだよ、音楽も同じだろ?」
さて、この後、彼らは夜行列車に乗り、プラハへ。私も夜行で南ドイツへ。予定を変更して彼らについてプラハに行くのも捨て難かったが、やはり行ってみたかった南ドイツに行ってみることに。
そしてその後の目的地は双方ともウィーン。そこで再び落ち合うことになった。
私の列車の時間が近づいてくる。
「お勘定!」
と何度もウェイトレスを呼ぶも、一向に来てくれる気配なし。そう、ここは社会主義国家。「サービス」という言葉はないのだ。少し焦り出した頃、やっと面倒臭そうにウェイトレスがやってきて、無事、お勘定。
彼らはお釣りの小銭を私に握らせ、
「これで車内で食べるサンドイッチでも買いなさい」
…………だが、そのわずかなお金が後で悲劇を生むとは誰も予想出来なかった。
#3へ続く