【MeWSS論文コラム】 あまり面白いと思えない研究の論文を書くとき

 ちょっと過激なタイトルかもしれませんが、こういう声は意外と聞きます。指導の先生から与えられたテーマだけれども、どうしても自分の興味を惹かないとか、会社であればマーケティングに必要だけれども研究としては面白いと思えないとか。

 たとえば製薬会社がよくやる「市販後調査」というものがあります。新薬の販売を始めてから1年もしくはそれ以上の期間、PMDAに主に安全性の報告をするために実施するのですが、決められた期間もしくは症例数に達するまで全ての情報をくまなく報告することが本来の目的であるため、論文としての面白みはあまりありません。新規性や研究としての意味を強く求める一般の雑誌にはアクセプトされにくいという問題もあります。ただ出版社も商売なので、市販後調査(Post Marketing Study, PMSといいます)論文を喜んで審査してくれるジャーナルもあり(査読審査はきちんとされます)、結果的にはIFなどに拘らなければどこかには掲載されます。
 以前製薬会社の依頼を受けていたときは、PMS論文の執筆依頼がたくさんありました。
 研究手法もシンプルで、結果も想定内で、投稿する雑誌も概ね決まっていれば、定型的に書けばいいという考え方もあり、そのように作業しているメディカルライターさんもいます。でも私は今になって思い返してみると、PMS論文であっても退屈だと思ったことがほとんどなかったなあと、改めて気がつきました。たとえば同じようなことを毎年更新して論文化する場合、これは逆にライターとしての腕の見せ所となります。前の論文を引用するので、それと同じことを書いたらアクセプトにはならないからです。

 疫学研究を退屈だと思う方もいるようです。でも医学研究では論文の背景に疫学情報が重要で、世界や他国の情報だけしか書けないと、研究の動機付けにつながりません。コホートは、実際に研究論文の形になるまでに何年、何十年も維持しなくてはならず、初期の論文はすごく面白いというものにはならないでしょう。でも目指すゴールが明確であるなら、将来に向けて絶対に必要な論文となります。

 以前国際会議でNIHのマラリア研究者の話を聞いたことがあります。NIHは巨大な研究機関でありかつfunding agencyでもあります。米国内の様々な研究者に研究費を提供していますが、達成困難なリスクの高い研究はNIH内で行えるように別の資金システムがあるそうです。大きな研究費が与えられる可能性があるものの、毎年の審査は厳しく必ず成果を出し続けなくてはなりません。当初はvectorの開発とか血液細胞の培養とか、細かいところから始めなくてはなりません。必要な技術の開発など、それぞれは必ずしもインパクトのある結果にはならないかもしれませんが、目指すゴールには絶対に必要なものだと丁寧に説明することによって成果と見なされ、資金が継続されてきたと言っていました。

 話を元に戻しましょう。与えられた研究テーマが面白くなかったとき。面白いと思えない理由は何でしょうか?それが新規でないとか二番煎じだからといった理由なら、テーマについて再考してもらう努力が必要かもしれません。
 それが遠い目標の一歩目であるのなら、そのことを心に強く抱いて、読者を納得させることを目的として書けるのではないでしょうか。

 誰がみても面白いと思える研究の論文はAIでも書けます。
しかし面白さが分かりにくい研究の論文を、読者や査読者を納得させる形で書くのには知恵と工夫が必要です。自分でもぱっと見面白くなかったこの研究を、読むに値する論文に仕上げるという知的作業を楽しんでみてはいかがでしょう?

 論文を書くのに最も重要なことの一つは、著者自身がその論文に価値を見出している、面白いと思っているということです。書いている人がそう思っていない論文はそれが読む側に伝わります。査読者に「この研究は何が面白いのかわからない」と言われたとき、長文の反論レターが書けるくらいでないと、そもそもその論文を書く意味はないと思っています。

 私は、他の方が実施した研究の論文を書くことを仕事にしていますが、PMSも含めてどれも(割と本気で)面白いと思って書いてきました。実際査読者から否定的なコメントが来たとき、レスポンスレターで反論してアクセプトを勝ち取ったことが何度もあります。楽しんで書けるのなら、査読者とのバトルも楽しいものです。
 ただし、面白さが分かりにくい研究と、論文にならない研究とは違います。最初にいただいたコンセプトを見て、これはそのままでは論文にするのは難しそうだと思えたら、著者と徹底的に議論して、どうしたらいいかを考えます。そうやって論文への道が見えてきたとき、これはまた幸せな瞬間でもあります。