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吾が仏尊し

日本ペン回し界で、なかなか折り合いのつくことがない大きな議題の一つ。
それが小技大技問題。

簡単に言うと小技主体の人が大技を軽視する→大技主体の人はそれにダメージを受けている またはその逆。
みたいな構図の事。だと思う多分。
ぶっちゃけ最近は大技だけでなく複雑系とかの難易度主体の人を広く指して批判されていることが散見されている気がする。
ただ、最近になってタブー視されてきた「オールドスクールへの理解」についても議論されるようになり、ある意味フェアな扱いになってきているように思える。

そもそも何でこうなっているのか。て言うか海外でもこんな争いって起こっているのだろうか? って言うか小技って何? 大技って何? 複雑系? コリアンスタイル? みたいな色々な疑問はあるだろうけど、とりあえず今回は恐らくこうであろうと言う一般論をあてがったつもりで進めていく。

※本稿ではクラシック(またはコリアン)を小技・オールドスクール、現代的趣向(大技・複雑系)を大技・ニュースクールと定義して記述しております。(ジャパモはクラシック・現代それぞれ通ずる要素があるため例外的なポジションとして認識しています。)
また、筆者はオールドスクールに対してそこまで造詣が深くもなければ、パワートリックやフィンクロもほとんどできません。ある種の中立的な立場として意見を述べている認識でお読みいただけると何よりです。

従来の日本ペン回し界における風潮

僕が2007年からペン回しをはじめてから十数年が経過した訳だけど、その中で確信しているのは『日本のペン回しは世界的に見ても唯一無二で素晴らしい』と言う事。
今や世界中に素晴らしいスピナーがたくさんいるけど、かつては「JEBってだけでチート」だと実際に言われていたくらいには日本は強かった。(僕も実際に外国の方に言われたことがある)
各国が国民性と言うかその国ならではの何らかの特徴を持っていた事に対して、日本は多様性に富んでおり、それによってかどのように勝負しても基本的に無敵を誇っていた時期があった。

そんな我らが誇るべき日本に多大な影響を及ぼしたのが他でもない『韓国』
はるか昔、まだ日本にフリースタイルの概念が輸入されていなかった頃、日本では一つの技をどれだけ無駄なく美しく行えるかが主な競技性だった。
それからしばらくして、韓国からFSの概念が持ち込まれた事によって日本ペン回し界は急速に発展。JapEn 1stが産声を上げる。

そんな日本にとってコリアンスタイルは正にバイブルだった。韓国には独自の評価基準があり、それによってスピナーがランク分けされていたらしい。
そんな韓国のスタイルは当時の時代背景もあったとは思うけど、主にFSとしての完成度や、技の美しさなどの現代で言う「小技」に該当するものだったと思う。(コリアン有識者からしたら検討違いかもしれないが、さほど逸脱もしていないはず)

もちろんコリアンの中にも2軸をバンバンこなすNoryやNeoSAと言えばの飛雲客(Cloud Traveller)とか当時の基準では相当な大技をやってのけたレジェンドも存在したけれど、本質的な部分での評価はまだそこになかった気がする。あくまでそれも個性として見られていたと言うか。(どうなんでしょ)

つまり日本のペン回しのルーツはコリアンスタイル、いわばクラシックのオリジンである韓国にあるため、小技信仰の側面が強かったんじゃないかと思う。
そして今日本で活躍しているスピナーの大半が、小技の系譜を受け継いでいる場合が多い。ペン回し歴的にね。知らんけど多分そう。

だからこそどのようなペン回しをするにしても「美しくある」ことが前提で、評価を受けるにしてもその土俵に立ってからじゃないと難しいのが現状なのかもしれない。

大技と小技の切り分け

ここは正直、感覚で判断されていると思っている。
明確に区別できるような決定的な概念はおそらくない。
この二つは難易度の性質も異なる。

まず小技。小技は旨味と考える。
オールドスクールは理解の到達点が遠いところに魅力があると感じている。
とは言え「どうすれば到達できるのか」が不明確な一方、「何をしているのか」はほとんど理解できる。
しかし、言い換えると、何をしているのかがわかっているのにどうすれば良いのかはわからないと言うことになる。
音楽で言うところのクラシックに該当する。同じ譜面を演奏できたとしても、美しい旋律をいかに当時のように奏でられるかどうかが技能の指標になっているような、そんな感覚を視覚的な栄養素として旨味と表現してみた。
また、基本的には変わり映えのしないありきたりなものに映りがちでもある。

続いて大技。大技は凄味と考える。
ニュースクールは視覚的な情報がシンプルであるところが最大の魅力だと感じている。
基本的に見ればだいたい何をしているのかがわかる。だが近年の大技の発展はめざましく、ある意味見てもよくわからないことも多いが、それでもペンが手のどこをどう回転しているのかはわかるはずだ。
つまり、何をしているのかはわかっているのにやろうとしてもできない。
こちらはスケボーや体操のように競技性が高く、スポーツに近い。
一度見ただけでそのインパクトに圧倒されることから凄味と表現してみた。
また、基本的にはアクロバティックで派手に映るものでもある。

そもそも大技は過小評価されている?


今もなお「大技は過小評価されている」と言う空気がやんわりと日本のペン回し界隈には漂っていて、それが時折議題として挙がることがあるのだけれど、

そもそも本当に大技ってそんなに過小評価されているのだろうか?

大技も小技もそんなにできない僕は明確に中立な目線を持っていると自負しており、そんな中立の目線で感じていたことを述べていこうと思う。

ずばり
大技が過小評価されていると言うよりは
「大技への関心の低さと、大技と言う分野にありがちなデメリット」
が、評価の難しさを招いている。と僕は分析した。

大技への関心の低さ

まず一つ目の「大技への関心の低さ」についてだが、国外に比べて日本のスピナーは大技に関心を持つ割合が少ないと感じている。
これはお国柄も影響していると思っていて、前述した通り日本は世界的に見ても非常に広い範囲の分野を踏襲しており、それによって多種多様なスタイルが形成され、今もなお世界最高峰のペン回し大国として君臨できているわけなのだが、選択肢が多いと言うことは必然的に「大技を選ぶ割合」も減少することになる。

また、「大技の鑑賞方法がわからない」と言うのも関心を遠ざけることに一役買ってしまっている。
特に歴の長いペンスピナーにとって大技は今でも「新しい分野」のままの印象であることも多く、古参の中にはいまだに大技の正しい鑑賞方法を心得ておらず、結果「あんまよくわからんから見ないでおこ〜」「全然指使ってなくね」「ペン立てとかもはや回ってないじゃん」となってしまうのではないだろうか。

僕も大技の発展に追いつけなかったうちの一人のため、世界トップレベルのパワートリックを見ても、正直、全部同じに見える。
だがパワー系のスピナー同士ではちゃんと共通した審美眼があり、それぞれのFSの良さを語り合ったりしているのを見ると、やはりそこには何かしらの水準があるのだと感じている。
だが、凄い以上の感想は僕からは出せない。そして、そのような印象を抱く人は少なくはないだろう。

それと、「小技を理解している方がより造詣が深い」と言うあまり良くない風潮が蔓延しているため、それに影響を受けたスピナーが大技よりも小技の方が高尚であると流布し、よりその溝を深くしてしまうこともしばしば。(ヨクナイヨ‼︎)

とはいえ、この評価はどんどん変わってきているような気がする。
現代のペン回し界はYouTubeやX(Twitter)のみならずTikTok等、無数に情報源があり、それによって新規参入は増えている。
特にTikTokは「短時間でインパクトを残す」ことが特徴のコンテンツと言うこともあり、パワートリックが豊作な土壌でもある。
更に、SNSが活発な世代は中高生と若く、一見地味にうつるオールドスクールよりも派手でかっこいいニュースクールの方が第一印象が魅力的に映るのは当然であり、そのままパワートリックの道を選ぶことも珍しくない。
よって、プレーヤーの循環が起きれば、「大技の関心が低い」と言うシーンからの脱却も時間の問題になりえるのではないだろうか。

大技にありがちなデメリット

次に「大技にありがちなデメリット」についてだが、これはかなり難しいテーマとなっている。

そもそも日本のペン回し界は基本的に「クオリティ重視」である。他国との圧倒的な違いはここにあると思っている。
クオリティとはつまるところ作品性である。日本は競技性よりも遥かに作品性に重きを置いていると私は感じている。
だからこそただの「成功テイク」じゃ魅力は伝わないことがほとんど。
特に大技は一発芸みたいなもので「成功させること=完成」的な側面がある。あまりに難しい工程のため、スタートから全力で走り抜けてゴールテープを切れさえすればそれだけで十分なのだ。
そうなるとおろそかになるのは完成度である。高難易度のオーダーを失敗せず通しきるのは凄いことだが、完成度が低いと結局は作品性が低下することに繋がる。

更に言うとこの類のスタイルの大半が手持ちだったりあぐらをかいた下半身が映るようなアングルだったり、フレームアウトはするわ、頭は映るわ、ベッドやクッションなど生活感満載の部屋がしっかり映るわで、セットアップに対する配慮が浅い。

もちろんFSの内容的に「そんなところに気を配っていられない」と言うことはわかるのだが、これについては僕も「さすがに工夫のしようはあるだろ」と思っている。
また一部の大技支持者の中には「セットアップは気にならない」とした主張もあるが、僕もまだその鑑賞姿勢にまでは到達できていない。

その状況下で、競技性で評価されたい人にとってどうするべきか考えたところ、シンプルな2択に行き着くと思った。

1.FSの完成度を維持できる範囲で撮影環境を整える。
2.作品性に対する評価を諦め、最もやりやすい状況で楽しむ。

正直このどちらかにしかならないと思う。2は小技信仰者の大技鑑賞姿勢が変わることを祈るしかない。
例えるならFSは役者の演技で、撮影環境と言うのはそのステージなわけなので、演技のクオリティもそれを活かすステージ作りも必須であることに変わりはない。
完成度はもとより、環境次第でより良いFSになることがわかりきっているのにセットアップに気を配らないのは、あまりにも勿体無いことではないだろうか。

結論:大技はまだやや評価されにくいが、評価される素地はほとんどできている。

オールドスクールは難しい

次にこの溝をより深くしている大きな要因がオールドスクールを履修できる環境が整備されていないことにあると考えている。

最近は若手でも高い解像度でオールドスクールを鑑賞できるスピナーが増えたが、それにしても興味を持つことにすら高いハードルがあることは確か。

そのデータどこにあったの?と歴17年以上の僕でさえ見たことないような情報を所有していることも多々ある。(て言うかその辺の子たち韓国語わかるよね? ペン回しに興味持つことで言語習得しちゃってるの何気にめちゃくちゃ凄いことだと思う。)

このとっつきにくさがオールドスクールへの無理解を増長させ、結果的に「小技って誰でもできる簡単な技をやっているだけだよね」とか「画質悪いから上手く見えるんでしょ」みたいなスれた視点を生み出しているように思えるのだ。
だが、実際は使用しているペンがそもそも軽く短いため、同じような条件でやってみると案外難しかったりもするし、実はなんかよくわからない動きをしていて再現不可能だったりもする。
掘れば掘るほど発見があるのが魅力の一つでもある。(画質は低い方が上手く見えがちではある気がする)

また、オールドスクール信仰のスピナーは得てして閉鎖的で、アウトプットを好まず、無理解に対して冷笑的な態度を示す様子が見受けられる。
「好きなようにやればいい」と言う意見は私も概ね同意なのだが、知ろうとしている人にもっと優しくあっても良いのではないかと思う。

言語化できない魅力もある

比較的古参の方がオールドスクールの受け皿を持ち合わせているのは、コリアンスピナー現役に立ち会っていた感動が残っているからってのもあるだろうけど、僕もそのうちの一人ながら当時はコリアンに対して「なんかすごいらしい」くらいの感覚しか持っていなかった。

そんな僕がオールドスクールの魅力に気がつき始めたのは12年目を超えたあたりくらいだった気がする。
単純に歴を重ねることで「カッコいい」のレンジが広くなり、幸運にもその範囲にオールドスクールが該当するようになったと言う印象だ。

じゃあどこが魅力なのかと言うと、学術的な持ち方でコリアンを鑑賞しているわけではないため、言語化はできない。
だが、前述した通りある時期を境にオールドスクールから「旨味」を感じるようになったのだと思う。

例えば、子供の頃はジャンクフードのようなわかりやすい味のものばかり好んで食べていたが、大人になると苦いものや渋いものに旨味を感じて美味しいと思えるようになったりする。
しかし、なぜ美味しく感じるようになったのかを明確に理解し、それを説明するとなるとそうとう難しいはずだ。
ペン回しも同じようなものなのかもしれない。

だからこそ、オールドスクール信仰のスピナーがアウトプットをしない理由に「言葉にしようとしてもできない」または「言葉にしたところで伝わらない」と言った言語化難の部分があるのではないかと思う。
それによって、前述したようなシニカルな印象を生んでしまう一因となっている部分もあるだろう。

こんなことは別にオールドスクールに限ったことではなくて、正に好きに理由はいらないってやつなので、説明ができるから偉いとかそう言う浅い価値観で判断してはいけない。
その上で言語化できるなら是非、チャレンジしてみて欲しい。それを悪く言う人がいたなら、代わりに僕が戦うので。

結論:オールドスクールはアウトプット向きのジャンルではない。

Don't think! Feel.

ニュースクールへの無理解は関心の低さにあり、オールドスクールの履修環境の未整備はそもそも「整備が極端に難しい」ことが一因となっていることがなんとなくわかってきたと思う。
じゃあ、その上でそれぞれを履修するにはどうしたらいいのか。その答えらしいものは一つしかないと思った。

積極的に探しに行くしかない。

いくら考えていても仕方ない。行動を起こさない事には得られないこともある。
もちろん動いたところで得られるのかどうかもわからない。だが、本当に興味があって無理解からの脱却を望むのなら、そのけもの道に足を踏み入れることを厭わないほどの熱量を持つべきだと思う。

ブルース・リーの至言であるDon't think! Feel.は「考えなくても理解できるところを目指せ」と言う文脈で引用したが、正にその通りだと思う。
知ろうとせずとも一瞥しただけで伝わるようになるためには、多くのことを知っておく必要がある。
そしてそれは他力本願では到達できないのだ。

吾が仏尊し

この言葉は「自分の信じるものだけが何がなんでも尊いとする、他を顧みない偏狭な心」を意味する慣用句である。

価値観の衝突はいつだって起こりうる。
結局のところ、小技大技問題は自分の信条を貫くがための強い意志によって生じているにほかならない。
だが、それはあくまで自分自身の価値観でしかないことを常に忘れないで欲しい。
現代のペン回しは多様性に富んでいる。回すことよりもペンのコレクションや改造に主軸を置いているスピナーもいる。

満足に意見ができない状況も良くないが、特定の派閥や個人をこき下ろすような表現を用いることはもっとあってはならない。
意見を述べるのなら、誰も傷つけずに自身の価値観を表明する手段はないかをできる限り探す義務がある。
それができないなら、いたずらに他を下げることで、自分の信条を振りかざして満足したいだけの身勝手な主張に聞こえてしまうこともあるだろう。

誰も傷つけないようにそれぞれが配慮し合いながら議論することは不可能ではないはずだ。
無傷とまでいかずとも、ダメージを最小限に抑えるように表現をすることくらいはできるだろう。

良くないことは良くないとはっきりと言える空気感は重要だと思う。
だが、そこのバランスは難しくて、「これは意見だから」と言う論説を免罪符に好き勝手なんでも言っていいわけでもない。
それにより生まれた心無い言葉によってペン回し界から遠ざかってしまった優秀なスピナーを実際に見てきた。
僕にもそうやって誰かを遠くに追いやってしまった心当たりはあって、反省しなければならないと自戒している。

最後に

長くなってしまったが、小技大技問題についての持論を述べてみた。
何か意見があればコメントまで。

みんな違ってみんないい。
意見や言葉は「良い方向へ導く」ための手段として是非活用して欲しい。

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