Vtuberみぃとぅの愛は何処から来るの?
少しメタなお話になるので苦手な方はご注意を
ここでは便宜的に
アバターとしてのみぃとぅを「ボク」
魂としてのみぃとぅを「私」
と呼びたいと思います。
はれのそらさんから
自分を褒めてあげようという企画(ほめVプロ)に誘って頂きました!
が!しかし!
既に自己肯定感MAXの私!どうしたものか…。
そういえば私、ある理由から
「私」が「ボク」を褒めるのは難しいのでした。
なので今回は、ボクが「私」を褒めてあげましょう。
褒められない理由は最後にキチンとご説明いたします。
・ボクが思う「私」の良い所
ボクは「私」のことが大好きだ。でも、もちろん完全無欠の魂なんかじゃない。ついついお酒を飲みすぎては記憶を飛ばしてしまうし、翌日には二日酔いになっている。歌は下手だし、調子に乗って色んなことをペラペラ喋っちゃう。
でもやっぱり、ボクは「私」のことが好きだ。「私」は色んなエンタメに触れて来た。小さいころから両親に、たくさんのエンタメに触れる機会を貰って来た。絵本や紙芝居の読み聞かせ、小説、漫画、アニメ、ゲーム、ボードゲームetc…。ゲームに関しては1日1時間だったけど…笑。でもエンタメに触れることを禁止されることは一度たりともなかった。むしろたくさん本を読んで、漫画読んで、適度にゲームをして、たくさん外で遊べと教えられた。おかげさまで「私」はエンタメの根底にある【人の魂の素晴らしさ、美しさ】を良く知ることが出来た。
ボクが思うに「私」は自分で考え、決断することに長けている。これはエンタメを選択するとき、そこに一度たりとも両親の意志が加わったことがないからだ。
小さいころ図書館に行って本を選ぶ時、これを読みなさいなんて言われたことはなかった。私はこれが面白かったかなーなんておススメを貰うことはあっても、本を選ぶ最終選択はいつだって「私」だった。
逆言えばに「皆が読んでるから」や「皆がそのゲームを持ってるから」といった理由で漫画やゲームを買うことは許されなかった。
なんでその漫画が欲しいのか、友達の家で読めるのならば皆が持っていない漫画が良いのではないかといった質問にクリアしなければならなかった。
ゲームに至っては両親にプレゼンをして、欲しいゲームの紹介をしなくてはならなかった。うちにあるゲームジャンルの偏りや、前作の面白さから堅実性があることなど、自分で考え、自分で決めなければいけなかった。
おかげさまで、例え間違った選択をしたとしても、自分の決断であれば後悔はないということを、小さいころから知っていた。自分でプレゼンしたゲームがどんなクソゲーであっても、なんでかお気に入りだったように。
そして、たくさんのエンタメに触れ、自分で決断・選択することの大切さを知ったため、「私」には一つのスキルが備わった。それはオタクコンテンツにおいての【先見の明】だ。所謂、鼻が利くというヤツだろうか。あ、これは流行りそうだなとか、人気が出るだろうなという直観が本格的に流行る前からなんとなく分かるようになってきたのだ。
…まぁ、ボクが気にくわないのは、「私」がズボラなばかりに、保存状態が良くない宝の山が押し入れにたんと眠っていることくらい。
でも、じゃあ、その先見の明をある程度系統だって考えて、ボクをセルフプロデュースすれば…ボクは人気Vtuberに…?
・ボクを創る道のり
「私」は考えていた。人気が出る要素、ハマる要素、売れる要素は思っている以上に限られてくる。これらを網羅した世界設定を行い、箱庭を設置、Vtuberを役割としてすれば、大手は難しくとも中堅どころくらいはそう難くないのではないだろうかと。とりあえず「私」はそれ満たす存在を創り上げるために作業を続けた。
じゃあ「ボク」はそれらのメソッドに沿った存在なのでしょうか?
答えはNO
「私」には大きな見落としがあった。作品に対する熱量、いわば愛が圧倒的に足りていない。この作業、何一つ楽しくない!!!私は多少の粗や欠点があろうとも作品への愛が最も人の心を動かすことを忘れていた。っていうか、なんでVtuberになりたいと思ったんだっけ?人気が欲しい?自分にハマってる人に囲われたい?お金が欲しい?全部違う、最初はただみんながキラキラしているのに憧れて、次は凹んでる人を少しでも救いたくて。
じゃあ、組み上げたメソッドは?
これらは…ごみ箱に…どーーーーーーーん!!
・ボクに詰め込んだもの
ここからはもう、とんとん拍子だった。「私」の好きと愛をただひたすらにボクに込める。楽しい、愛おしい。あふれ出そうでも込め続ける。「私」にはボクの完成図は見えない。ただひたすらに、好きという気持ち、愛おしいという気持ち、楽しいという気持ちをボクに注ぎ込む。「私」がボクを褒められない理由はここにある。
「私」の好きを、愛を、これでもかってくらい込めているので
「私」から見ればボクは褒めるところしかないのである。
さて、出来たボクは?「私」は笑ってしまった。好きを、愛を、込めすぎたのでボクから愛が漏れ出ている。じゃあ、こうしよう!ボクが「私」から貰ったボクに収まりきらない愛を、たくさんの人におすそ分けしよう!「私」と「ボク」が統合された「みぃとぅ」は、自分のことを愛するだけじゃ飽き足らず、他人まで愛し始めたのだ。
私のメソッドを捨てるという決断は間違いだったのだろうか。
いいえ。私は知っている。
間違った選択をしたとしても自分の決断であれば後悔はないということを。
自分の決断で創り上げた存在が
どんなに世間から認められなかったとしても
私はなんでかそれが愛おしくてたまらないのだ。