歴史に名を残す脚本家から学べる事 vol.13 パディ・チャイェフスキー&ジャン=クロード・カリエール
25. パディ・チャイェフスキー
パディ・チャイェフスキーは、3つの脚本賞オスカーを獲得した偉大なアメリカの脚本家の「聖なる三位一体」を完成させる人物の1人です。しかし、ビリー・ワイルダーやウディ・アレンとは異なり、チャイェフスキーは純粋に脚本家であり、監督業は手がけませんでした。そのため、一般的な知名度は彼らほど高くないかもしれません。
それでも、チャイェフスキーには他の二人が主張できない特筆すべき功績があります。それは、映画とテレビの両方で大きな成功を収めたことです。実際、特に『マーティ』(1953年)の成功により、チャイェフスキーは最初の偉大なテレビ脚本家の一人と見なされています。
チャイェフスキーが1950年代の名声を再び取り戻したのは、晩年になってからでした。それは、全く異なる性質を持ちながらも、同様に驚くべき2つの脚本によってでした。一つは『ネットワーク』(1976年) この作品は、アメリカ、そして広くは西洋世界全体の増大する愚鈍化に対する、チャイェフスキーの怒りの叫びとも言える作品でした。鋭い社会批評とブラックユーモアを織り交ぜた脚本は、今日でも高い評価を受けています。
そして、『アルタード・ステーツ/未知への挑戦』(1980年) 一転して、この作品は幻覚的で幻想的なドラッグカルチャーの探求でした。科学と神秘主義の境界を探る独特な物語は、チャイェフスキーの多様な才能を示しています。
チャイェフスキーの功績は、単にオスカーを3回受賞したことだけにとどまりません。彼は、テレビと映画という異なるメディアで成功を収め、そして社会批評から幻想的なSFまで、幅広いジャンルで傑作を生み出しました。彼の作品は、鋭い洞察力と独特の視点で社会や人間性を描き出し、今なお多くの観客や批評家を魅了し続けています。
チャイェフスキーの遺産は、単に優れた脚本家としてだけでなく、メディアの境界を越えて物語を語る力、そして時代を超えて観客の心に響く普遍的なテーマを扱う能力にあると言えるでしょう。
散文形式での構想
チャイェフスキーは、脚本執筆の前に物語の約半分を散文形式で下書きしました。この方法により、プロットの要素を整理し、脚本形式に移行する際の明確さを保つことができました。また、この予備段階が執筆中の行き詰まりを防ぐのに役立つと考えていました。
三幕構成の重視
彼は古典的な三幕構成を厳守しました。これは彼の演劇の背景から来るものでした。第一幕で状況を紹介し、第二幕で葛藤を高め、第三幕で解決するという構造です。このアプローチにより、物語全体を通して効果的に緊張感を高めることができました。
精密な対話
チャイェフスキーの対話は精密さと真実味が特徴です。登場人物の性格に忠実な、リアルな会話を心がけました。特に、長い独白を効果的に使用する能力に優れており、『ネットワーク』のハワード・ビールの有名な独白はその好例です。
厳密な編集
彼は編集プロセスに妥協を許しませんでした。「気になるものがあれば、それは悪い。切り捨てろ」というのが彼の信条でした。不必要な要素を徹底的に排除し、簡潔さと明瞭さを追求しました。
徹底した研究とリアリズム
チャイェフスキーは脚本のための広範な研究を重視しました。主題を深く理解することで、より本物で共感できるキャラクターと状況を作り出せると信じていました。『病院』での医療現場の描写はその成果の一例です。
明確なテーマ設定
プロジェクトの最初から明確なテーマを持つことを重視しました。テーマは執筆過程で進化する可能性がありましたが、物語が一貫して中心的なアイデアを反映することを目指しました。『マーティ』における孤独と愛の探求はその好例です。
キャラクター名への こだわり
チャイェフスキーは登場人物の名前付けを楽しみ、時にミステリー作家や野球のボックススコアからヒントを得ることもありました。名前がキャラクターに深みを加えると考え、異なる作品間で名前を再利用することもありました。
パディ・チャイェフスキーの執筆アプローチは、綿密な計画、厳格な編集、そしてキャラクターとテーマへの深い理解が融合したものでした。魅力的な対話を生み出す能力と、リアリズムへの献身は、彼をアメリカ映画史上最も記憶に残る脚本家の一人にしました。『ネットワーク』、『マーティ』、『病院』などの作品は、その鋭い洞察と感情的な深さにより、今でも多くの人々の心に響き続けており、チャイェフスキーの卓越した技巧を証明しています。
26. ジャン=クロード・カリエール
ジャン=クロード・カリエールは、フランス映画界で最も頼りにされる脚本家としてプレヴェールの後継者となり、20世紀後半の多くの名作を執筆または共同執筆しました。彼はルイス・ブニュエルという素晴らしい監督と組んで脚本を書き、『昼顔』(1967年)や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972年)を生み出しました。
ブニュエル以降、カリエールは一連のヨーロッパやアメリカの監督のために脚本を書きました。その中には、フォルカー・シュレンドルフの『ブリキの太鼓』(1979年)や、フィリップ・カウフマンの『存在の耐えられない軽さ』(1988年)などがあります。
脚本執筆の哲学
カリエールは、脚本執筆を文学的な最終段階ではなく、映画制作の出発点と考えていました。彼にとって脚本は、完成された作品ではなく、映画制作全体を通じて修正と適応を重ねる「設計図」でした。「脚本家は小説家よりもずっと映画制作者でなければならない」という彼の言葉は、映画独特の言語と視覚的なストーリーテリングの理解の重要性を強調しています。
適応技術
カリエールは多くの文学作品を脚本化しましたが、その際に物語の「映画的本質」を追求しました。例えば、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を脚色する際、内省的な物語であっても、アクションと人物の発展を抽出することに焦点を当てました。彼は、成功する脚色には、観客を引き込むための何らかの形のアクション(明白なものであれ微妙なものであれ)が必要だと考えていました。 ルイス・ブニュエルとの共作『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』では、タイトル自体が協働プロセスから生まれました。二人は潜在的なタイトルについて長時間議論し、最終的に新しいテーマ要素(慎み深さ)を導入するものを選びました。これは、脚本が監督との対話を通じて進化するという、カリエールの映画制作の協調的な性質への信念を示しています。
初期経験の影響
カリエールの初期キャリアは、ジャック・タチとの交流に大きく影響されました。最初はタチの映画の小説化を担当していましたが、この経験を通じて編集技術やナラティブ構造など、映画制作の複雑さを学びました。この基礎的な経験が後の作品に影響を与え、文学的深さと映画的形式の融合を可能にしました。
ジャン=クロード・カリエールの脚本執筆アプローチは、映画という媒体への深い理解、協調的な創作姿勢、そして複雑な物語を魅力的な映画体験に変換する卓越した能力によって特徴づけられます。彼の作品は現代の脚本家たちにも大きな影響を与え続けており、映画におけるストーリーテリングの独自性を理解することの重要性を示しています。