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歴史に名を残す脚本家から学べる事 vol.4 ベン・ヘクト&フランシス・フォード・コッポラ

7. ベン・ヘクト

ベン・ヘクトは、少なくともハリウッドにおいて、脚本家という職業を実質的に確立した人物です。『市民ケーン』の一発屋のマンキーウィッツに対し、ヘクトは数多くの優れた脚本を手がけました。その中には、正式にクレジットされたものもあれば、そうでないものもあります。

当時のハリウッドでは、脚本家のクレジットが公平に扱われることは稀でした。通常、脚本家は一つのスタジオ専属となっていましたが、実際には他のスタジオの脚本家とも頻繁に協力していました。

ヘクトの代表作として正式にクレジットされているのは、『犯罪都市』(1931年)と『暗黒街の顔役』(1932年)です。これらの作品はその後少なくとも一度はリメイクされています。また、アルフレッド・ヒッチコック監督の『白い恐怖』(1945年)と『Notorious』(1946年)の脚本も手がけています。

しかし、おそらくさらに注目に値するのは、ヘクトがクレジットなしで関わった作品かもしれません。これには『風と共に去りぬ』(1939年)、『街角の商店』(1940年)、『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)などが含まれます。

ヘクトの活躍は、ハリウッドの黄金期における脚本家の重要性と、同時に彼らが直面していた課題を浮き彫りにしています。彼の幅広い作品群は、正式なクレジットの有無に関わらず、彼の才能と影響力の大きさを示しています。多くの作品が後にリメイクされたという事実は、彼の脚本の質の高さと普遍性を証明しています。

ヘクトの貢献は、単に個々の作品にとどまらず、脚本家という職業全体の地位向上にも及んでいます。彼の活躍は、後の世代の脚本家たちに道を開き、映画産業における脚本の重要性を確立する上で大きな役割を果たしたと言えるでしょう。

1. 迅速な執筆プロセス
ヘクトは驚異的な速さで脚本を書くことで知られており、多くの場合数週間で完成させました。鉛筆と安価な無地の紙を好み、最終版とほとんど変わらない原稿を一気に書き上げました。彼自身の言葉によると、執筆中は「週に75から100本の鉛筆を使う」ほどでした。この速さのおかげで、約70本もの映画のストーリーと脚本を手がけるという驚異的な生産性を誇りました。

2. 生き生きとした対話の重視
ヘクトの脚本の特徴は、臨場感と力強さにあふれる活気に満ちた対話でした。「機関銃のような対話」と呼ばれる彼のスタイルは、登場人物同士が機知に富んだ言葉、罵り言葉、冗談を素早く交わすものでした。このスタイルは、ヘクトが得意としたギャングスター映画や犯罪物語に完璧にマッチし、1920年代から30年代のアメリカの厳しい現実を反映していました。

3. ジャンルの融合
ヘクトは脚本の中でさまざまなジャンルを巧みに融合させました。ジャーナリスト、小説家、劇作家としての多彩な経験を活かし、犯罪報道、前衛的な小説、テンポの速い舞台劇の要素を脚本に取り入れました。この独特のアプローチにより、彼は従来のハリウッド作品とは一線を画す魅力的な物語を生み出すことができました。

4. 商業的アプローチと芸術的アプローチの使い分け
ヘクトは脚本執筆に対して二つの異なるアプローチを持っていました。『アンダーワールド』(1927年)のようなオスカー受賞作品のストーリーなど、一部の脚本は真剣な芸術作品として取り組みました。一方で、他の執筆活動や大義を支援するための純粋に商業的な仕事もありました。しかし、商業的な脚本であっても、ヘクトの生き生きとしたスタイルと物語力が発揮されていました。

5. クレジットされない貢献
ヘクトの最も称賛される脚本の多くは、『風と共に去りぬ』や数々のアルフレッド・ヒッチコック作品を含め、正式なクレジットがありませんでした。多大な功績と影響力にもかかわらず、ヘクトは脚本執筆に対して複雑な思いを抱いており、「無数の映画メロドラマの作者として絶えず登場する小説家や思想家を称賛するのは難しい」と述べたこともあります。

ヘクトの素早く多彩なアプローチと、独特の対話と物語の才能を組み合わせたことで、彼はハリウッド史上最も影響力があり成功した脚本家の一人となりました。彼の遺産は今日でも脚本執筆の芸術に大きな影響を与え続けています。ヘクトの手法は、効率的な執筆プロセス、印象的な対話、ジャンルの融合、そして商業性と芸術性のバランスという点で、現代の脚本家たちにも多くの示唆を与えているといえるでしょう。

8. フランシス・フォード・コッポラ


フランシス・フォード・コッポラは1970年代の最も偉大な監督の一人で、『ゴッドファーザー』(1972年)、『ゴッドファーザー PART II』(1974年)、『カンバセーション…盗聴…』(1974年)、『地獄の黙示録』(1979年)を監督しました。これは確かに自明のことですが、彼がその10年間おそらく最も偉大な脚本家の一人でもあったということはあまり広く認識されていません。なぜなら、彼が監督した4つの傑作の脚本を書くか共同執筆したことに加えて、『パットン大戦車軍団』(1970年)と『華麗なるギャツビー』(1975年)の脚本も書くか共同執筆したからです。

1. 入念な準備と徹底的な修正
コッポラは実際に脚本を書き始める前に、綿密な準備を重視しました。アイデア、イメージ、疑問をノートに書き留めることから始め、自由に思考を巡らせました。この段階は、物語と登場人物を深めるために極めて重要でした。その後、複数の草稿を書き、脚本を磨き上げるために何度も修正を重ねました。

2. チームワークを重視
コッポラは『ゴッドファーザー』シリーズでマリオ・プーゾと組んだように、しばしば脚本家チームと密接に協力しました。彼は彼らの意見を尊重し、自由にアイデアや視点を提供するよう促しました。このチームアプローチにより、創造性を自由に発揮し、多様な影響を取り入れることができました。

3. 製作中の変更を柔軟に受け入れる
コッポラは映画製作の過程で、予想外の展開を積極的に受け入れました。過度の計画が創造性を抑制すると考え、物語を作りながら新たな発見をすることを好みました。このアプローチにより、即興的な瞬間を捉え、偶然の出来事を映画に取り入れることができました。たとえ当初の脚本から外れることになっても、それを恐れませんでした。

4. 最後から書き直すユニークな手法
コッポラは独特の脚本書き直し方法を持っていました。ページの一番下に「終」と書き、そこから上に向かって作業を進めるのです。主要なプロットに焦点を当て、直接関係のない要素を削っていきました。この手法は、物語を整理し、不要な部分を取り除くのに効果的でした。

5. 編集プロセスを重視
コッポラは脚本を映画製作過程の一段階に過ぎないと考えていました。彼は、実際の執筆は編集段階で行われると信じており、そこで最終的な映画の形が決まると考えていました。彼の有名な言葉に、「実際には3つの映画を書くのです:みんなが合意する脚本、撮影する映画、そして編集室で作り上げる映画です」というものがあります。

コッポラの型破りな脚本執筆アプローチは、準備、協力、柔軟性、そして映画製作プロセス全体への配慮を重視することで、彼独自の映画スタイルを確立し、彼の作品に長く愛される魅力をもたらしました。この手法は、単に台本を書くだけでなく、映画全体を見据えた総合的なアプローチであり、それが彼の作品の深みと複雑さを生み出したと言えるでしょう。

3の柔軟性の実例

例えば『地獄の黙示録』の撮影中、コッポラは予期せぬ出来事を積極的に受け入れ、それを作品に活かすという彼の姿勢を如実に示しました。

当初の脚本では、ヌン川をさかのぼって反乱を起こした大佐を暗殺するという比較的単純な物語が描かれていました。しかし、フィリピンでのロケ撮影が進むにつれ、コッポラは様々な困難に直面し、それに応じて物語を有機的に発展させていきました。

例えば、当初ウィラード大尉役に起用していたハーヴェイ・カイテルがその役に適していないことが判明した際、コッポラは躊躇なくマーティン・シーンに配役を変更しました。シーンの強烈な演技と、コッポラ自身の健康問題を含む撮影の困難さは、脚本に大きな変更をもたらし、結果として映画の中心テーマである狂気と道徳的腐敗をより深く掘り下げることになりました。

さらに、コッポラは撮影中に起きた予期せぬ出来事も積極的に取り入れました。例えば、セットを破壊した台風や、元々別の映画のために撮影されたヘリコプター攻撃のシーンなどです。これらの予定外の要素を受け入れることで、コッポラはベトナム戦争の心理的影響を探求する、夢のような幻覚的な雰囲気を作り出すことに成功しました。

製作の混乱や予算超過にもかかわらず、コッポラの柔軟な姿勢と予期せぬものを取り入れる決断は、当初の構想をはるかに超える作品を生み出しました。『地獄の黙示録』は、監督が映画製作プロセス自体を通じて、作品の芸術的ビジョンを深めていく方法を示す代表的な例となっています。

この事例は、コッポラの映画製作哲学を鮮明に表しています。彼は脚本を固定的なものとして扱うのではなく、撮影中の様々な出来事や困難を創造的な機会として捉え、それらを作品に融合させることで、より深みのある、予想外の傑作を生み出すことに成功したのです。この姿勢は、映画製作における柔軟性と創造性の重要性を如実に示しています。

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