ヨーロッパでの資金集めってどうしてるの? vol.4 私の経験
さて、前回はスタートラインに立つ方法を紹介しました。
しかし、ここからが長いです。
今回は私の経験をお話ししたいと思います。
私はウッチ映画大学を卒業するタイミングで、幸いにも友人を通して新人プロデューサーと出会いました。彼女は経験は0でしたが、やる気は誰にも負けず、何より私が提案したドキュメンタリー映画の企画に非常に興味を持ってくれて、プロデュースすることに。
最初の一年はとても大変でした。ドキュメンタリーは企画を売り込むにも
リサーチがとても大事で、私のアイディアは日本での撮影が必須でした。そのため、初年度は私の自己資金で撮影を敢行。最低限の資金とスタッフ(私とカメラマン)だけで撮影しました。
しかし、その素材を元にポーランド最大のドキュメンタリー映画支援プログラムと映画祭のマーケットに選ばれ、共同制作先を獲得。そしてポーランド映画教会から資金援助を貰えることに。
それが2019年の事でした。
翌年には撮影が終わり、2021年には私のデビュー作が完成するはずでした。撮影は全て順調に準備され、私はひと足さきに日本へ。スタッフたちは後ほど日本で合流するてはずとなっていました…
が、困難はそこで起こります。
そう、コロナ。
当然、撮影は中止。世界中で渡航が禁止になり、そもそも、クルーが日本に来れず、私もポーランドに戻れず大変なことに。
ただ、幸いなことに、リモートを使って、多くのメンタープログラム、映画祭のピッチに参加したことにより、企画はある一定の知名度を得ることに。
しかし、困難はさらに続きます。日本は中国と並び、もっとも開国が遅れた国の一つでした。2019年に得た資金援助。もちろん時世もあり、延長猶予をもらっていました。基本的に資金援助は決定から2年以内の完成を条件としています。しかし、2022年になっても日本の国境は開かず、我々はポーランド映画教会から資金援助を失い、他の共同制作者も無くしました。
2023年、1月プロデューサーが企画から降りることを伝えられ、私はスタッフにその事を伝えました。その時点で、カメラマン、脚本家、編集マンの4人のスタッフが密にこの企画に関わってくれていました。私は一人で再びプロデューサーを探すつもりでいましたが、全てのスタッフが企画に残ることを決めてくれて、みんなで新たなプロデューサー探しをすることに。
そこに、日本開国のニュースが入ります。さらに、常に撮影先の人々とコンタクトをとっていたことにより”今が映画のために最も重要なタイミングだ”と言うことで、プロデューサーがいない中、私とカメラマンのみで再び撮影をすることを決めました。資金は自腹です。
同時にプロデューサー探しも加速しました。ポーランドのプロデューサーに片っ端から企画を送りました。しかし、全てのプロデューサーからいい返事をもらえませんでした。
その理由は長く続いてコロナの影響によってポーランド映画業界も疲弊していたこと。海外、特に日本という制作コストが高い企画であること、そして当時の保守政権の影響で外国をテーマにした資金提供が圧倒的に減っており、さらに我々はすでに貰った資金を失ってしまっていた事。もちろん、もう一度アプライできますが、ハードルはグッと高くなります。
そんな事で、もう先はない…と、諦めたところ、3年の間にポーランドからイギリスに移住したカメラマンを通して、今のプロデューサーと出会います。
彼女はロンドンに住んでいますが、ウッチ映画大学を卒業後、英国の広告業界で10年働いていた人物。ずっと映画制作への憧れを抱えて、1年前から映画制作をCM仕事をこなしながら始めた人でした。
ポーランド映画界にもいずれネットワークを持ちたいと考えていた彼女は企画も気に入ってくれて、私たちと一緒に映画制作をしてくれる事に。
タイミングが良かった。
新しいプロデューサーが最初に参加した作品がカンヌ国際映画祭のある視点部門に選出され、カンヌに行くことに。大きな映画祭は企画売り込みの最大のチャンス。
同じくポーランド人でありながら、10年フランスの映画業界で働いていたもう一人のプロデューサーと出会うことに。彼女は小さな新しいドキュメンタリー専門の映画制作会社で働いており、その創設者は米アカデミー賞ノミネートされた有名な作品を手がけた人でした。
7月の撮影前に、オンラインを通してそのプロデューサーにピッチを行い、少額ですが、撮影に足りなかった制作費をもらう事になりました。そして、そのタイミングでフランスの制作会社が正式に制作に参加してくれることに。
撮影が無事に終了したタイミングで私初のアジアの映画祭のピッチ参加が決まります。新しいプロデューサーが応募してくれていたおかげです。
そのピッチに向けて1ヶ月準備しまた。撮影を終えた時点で当初の想定とずいぶん内容が変わり、全ての素材の作り直しの必要性を感じていました。特に映像に関しては緊急でした。私たちのティザーは2019年の撮影を元にしていたため、4年間全く同じでした。そのため、より現在の内容に忠実なティザーを作る必要があり、私はピッチの練習と新たなティザー作りに忙殺されました。
映画祭の参加は多くの成果をもたらしました。残念ながら受賞はしませんでしたがとても重要なネットワークを得ることができました。彼らとは今も映画の完成に向けて連絡を取り合う事に。
(結果的に2024年に同じ映画祭のラフカット部門で賞をいただくことに)
この時点で、以前獲得していた資金は全て無くして文無しになっていた我々の企画は1からの資金集めが必要でした。これまで自己負担してきた分の回収とポスプロのための資金集めです。
そのため、撮影を経ての素材の作り直し(ピッチデック、脚本、参考シーンの再編集)に取り掛かりました。私も他のスタッフも別の仕事を抱えているため、時間を見つけての仕事となり全ての完成にはブラッシュアップも含めて5ヶ月かかりました。
そこから改めて資金提供に動き出しました。2024年11月現在、まだ資金は必要額に届いていません。それは資金提供の交渉にも予算決定の関係などで時期があり、長い期間の準備活動(ネットワークの強化)が必要だからです。
しかし、撮影から1年経った8月、無事、編集に入る事になりました。
まだまだ完成は先ですが、当初の目標であった2025年の完成に一歩近づきました。そして、その完成に向けてプロデューサーから日々、ポジティブな報告をもらえるように。
このように、映画制作は予想外のトラブルも含め、忍耐も行動力も重要です。私は今の企画を既に10年ほどかけて映画化に取り組んでいます。(実際に制作に入ったのは6年前)
しかし、それでもかなり運がいい方です。
そのぐらい、新人の長編映画の制作はハードルが高いのです。
これは私のケースですが、次回は様々な例を踏まえてヨーロッパでの映画制作の資金集めについて語っていきたいと思います。