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歴史に名を残す脚本家から学べる事 vol.12 ダルトン・トランボ&ジェイ・プレッソン・アレン

23. ダルトン・トランボ

ダルトン・トランボの波乱万丈の人生とキャリアは、それ自体が一本の映画になりそうな素材です。実際、彼はジョセフ・L・マンキウィッツと並んで、ハリウッドの脚本家としては唯一、その人生が映画化された2人のうちの1人となっています。これは、彼の人生がいかに劇的で注目に値するものであったかを物語っています。

トランボのキャリアは、まさに roller coaster ride(ジェットコースターのような)と呼ぶにふさわしいものでした:

成功の絶頂期『ジョニーは戦場へ行った』(1939年)などの初期作品で、彼は商業的に最も成功した脚本家の一人となりました。

ブラックリスト時代:1950年代初頭、彼は当時のアメリカの政治的風潮の中で、最も有名なブラックリスト入りした脚本家/監督の一人となってしまいます。

潜伏期:この困難な時期にも、トランボは創作を止めませんでした。『ローマの休日』(1954年)や『スパルタカス』(1960年)など、後に名作となる映画の脚本を、偽名を使って書き続けました。

驚くべき復活:後年、トランボは見事な復活を遂げます。この「第三幕」とも呼べる人生の転回は、皮肉屋として知られる彼自身でさえ、信じがたいと思うほどのものでした。

トランボの人生は、才能、信念、そして逆境に立ち向かう不屈の精神を体現しています。彼は政治的な弾圧に屈することなく、創作を続けました。そして最終的に、彼の才能と貢献は正当に評価されることになったのです。

彼の経験は、芸術と政治、表現の自由、そして個人の信念と社会的圧力の関係について、深い問いを投げかけます。トランボの物語は、単に一人の脚本家の伝記を超えて、アメリカの歴史と映画産業の複雑な関係を映し出す鏡となっているのです。

浴槽での執筆
トランボの最も特徴的な習慣の一つが、浴槽に座りながら執筆することでした。タイプライターと原稿を脇に置き、一晩中浴槽で作業することもありました。水濡れのリスクがあるにもかかわらず、この環境が彼の創造性を刺激したようです。この奇抜な執筆スタイルは、トランボの個性的なプロセスを象徴するものとなりました。

改訂時のページの切り貼り
トランボは脚本の改訂に独自の方法を用いていました。ページを物理的に切り取り、新しい順序で貼り合わせて変更を加えるのです。満足のいく改訂ができたら、切り貼りしたページを最終版としてタイプ打ちしました。この手法により、シーンや台詞の配置を自由に試すことができ、より柔軟な編集が可能になりました。

驚異的な執筆速度
トランボは信じられないほどの執筆速度と生産性で知られていました。彼自身、冗談交じりに「ハリウッドで最高の脚本家ではないかもしれないが、間違いなく最速だ」と語っています。この速さと効率性は、特にブラックリスト期間中、匿名で大量の脚本を書かなければならなかった時期に大いに役立ちました。

登場人物に尊厳を与える力
トランボの脚本に共通するのは、登場人物に尊厳と高潔さを与える能力です。『スパルタカス』の奴隷から『パピヨン』の不当に投獄された主人公まで、トランボの描く人物は逆境の中でも自らの原則を貫く姿勢を示します。これは、政治的迫害を経験したトランボ自身の人生とも重なるテーマでした。

小説や実話の脚色
トランボの最も評価の高い脚本の多くは、小説や実話の脚色でした。『スパルタカス』(ハワード・ファストの小説)、『パピヨン』(アンリ・シャリエールの回顧録)、『エクソダス』(イスラエル建国の実話)などがその例です。彼の才能は、原作の本質を保ちながら、魅力的な映画的物語に仕立て上げる能力にありました。

これらの独自の手法と姿勢により、トランボはハリウッドのブラックリスト期間中の困難にもかかわらず、多作で高く評価される脚本家であり続けました。彼のユニークな執筆プロセス、驚異的な生産性、そして人間の尊厳を描く能力は、映画界に消えることのない足跡を残しました。トランボの創作アプローチは、単に効率的であっただけでなく、深い人間性の理解と芸術的感性に裏打ちされたものだったのです。

24. ジェイ・プレッソン・アレン

1960年代から70年代初頭にかけて、ジェイ・プレッソン・アレンは、おそらくハリウッドで最も優れた、そして間違いなく最も商業的に成功を収めた女性脚本家でした。彼女の成功は、ほぼ一夜にして訪れたと言えるでしょう。

その契機となったのは、ミュリエル・スパークの小説『ミス・ブロディの青春』(1961年)をブロードウェイ向けに脚色した作品の成功でした。この実績が認められ、巨匠アルフレッド・ヒッチコックの目に留まることとなります。ヒッチコックは彼女に『マニー』(1964年)の脚本を依頼し、これが彼女のハリウッドでの大きな転機となりました。

興味深いことに、『マニー』はヒッチコックのキャリアの終焉を告げる作品となってしまいましたが、プレッソン・アレンにとっては、逆に飛躍のきっかけとなったのです。この成功を足がかりに、彼女はさらなる高みを目指していきます。

その後、彼女は自身がブロードウェイで成功を収めた『ミス・ブロディの青春』を1969年に映画用に脚色しました。そして、彼女のキャリアの頂点とも言える作品、『キャバレー』(1972年)の脚本へとつながっていきます。

プレッソン・アレンの成功は、彼女の才能はもちろんのこと、文学作品を映画やミュージカルに脚色する卓越した能力を示しています。彼女は、原作の本質を損なうことなく、新しい媒体に適した形に作品を再構築する技術に長けていました。

また、彼女の活躍は、当時まだ男性が圧倒的多数を占めていたハリウッドの脚本家業界において、女性が重要な地位を占めることができることを示した点でも重要です。プレッソン・アレンは、後に続く多くの女性脚本家たちの道を切り開いたパイオニアとも言えるでしょう。

彼女の作品は、単に商業的に成功しただけでなく、芸術的にも高い評価を受けています。特に『キャバレー』は、ミュージカル映画の傑作として今でも高く評価されており、彼女の脚本家としての才能を如実に示す作品となっています。

強い女性キャラクターの重視
アレンは、強くて多面的な女性キャラクターの創造に力を注ぎました。当時のハリウッドでは男性中心の物語が主流でしたが、彼女はそれに挑戦しました。『ミス・ジーン・ブロディの青春』(1969年)では、情熱的で物議を醸す教師を主人公に据え、生徒たちの人生に大きな影響を与える姿を描きました。ミス・ブロディの複雑な人物像は、アレンの繊細な女性描写の能力を如実に示しています。

率直さとウィットに富んだ表現
アレンは映画業界に対して率直でユーモアのある見方を持っていました。「私は本当にお金のために書いてきた」という有名な発言は、彼女の実用的なアプローチを端的に表しています。この正直さは彼女の脚本にも反映され、深刻なテーマをユーモアと皮肉を交えて扱うことを可能にしました。『キャバレー』(1972年)では、鋭い対話と第二次世界大戦前のドイツへの風刺的な見方を取り入れ、エンターテインメントと社会批評を見事に融合させています。

脚色と独創性の両立
アレンは既存作品の脚色と独創的な脚本の両方に秀でていました。『ファニー・レディ』(1975年)での彼女の仕事は、既存のキャラクターを発展させつつ、新しい葛藤やテーマを導入する才能を示しています。原作の本質を保ちながら新たな要素を加える能力は、彼女の作家としての多様性を証明しています。

スクリプトドクターとしての才能
キャリアの後半、アレンは「スクリプトドクター」として知られるようになりました。彼女はこの役割を「まあまあの状態の脚本を改善する」ものと捉え、実用的なアプローチを貫きました。この仕事により、主要な制作者としてのプレッシャーなしに様々なプロジェクトに貢献することができました。

心理的深さの探求
アレンの脚本は、しばしば感情的・心理的な複雑さを掘り下げ、より広い社会問題を反映していました。『プリンス・オブ・シティ』(1981年)では、法執行機関内の道徳性と腐敗のテーマを探求し、重いテーマを深い洞察力を持って扱う能力を示しています。

ジェイ・プレッソン・アレンの創作アプローチは、強い女性キャラクター、率直なウィット、そして作家としての柔軟性によって特徴づけられます。彼女の作品は、単に物語を豊かにしただけでなく、次世代の女性脚本家たちの道を切り開きました。アレンは、脚本執筆が商業的な事業でありながら芸術性も追求できること、エンターテインメントと意味のある社会批評を両立できることを示しました。彼女の遺産は、今日の映画産業にも大きな影響を与え続けています。

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映画のメトダ
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