秋元康と“2つ”の制服
初カキコ…ども…(ヒエラティックテキスト)
柏木由紀さんがnote始めて盛り上がってるし、「乗るしかない、このビッグウェーブに」って感じでやってみますよ、っと。
さて、慣れてないのでいきなり本題。
このテーマ、最近、欅坂46の「制服と太陽」に微ハマリしてる(オタク3日目)のを機に思い立った。
「秋元康プロデュースアイドルといえば制服」ってくらいに歌詞やMVに幾度となく登場してくる制服。
もう「制服王イスカンダル」を名乗ってもいいと思う。(ピンとこない人はFate/Zeroを観てね♡)
48Gの衣装を数多く手掛けるオサレカンパニーさんは実際の学校の制服を手掛けるようになってますしね。生まれ変わったらその学校に入りたいものです。そもそも生まれ変わったらAKBに入りたい(これは卒アルに書くくらいガチ)。
それはさておき、秋元康の歌詞において制服は大きく2つの側面から描かれているという主張をここではしていきたい。
・欲望・自由の鎖としての制服
自分が知っている限りで古くは「セーラー服を脱がさないで」から始まるこの系譜。
セーラー服を脱がさないで
今はダメよ 我慢なさって
セーラー服を脱がさないで
嫌よダメよ こんなところじゃ
(セーラー服を脱がさないで/おニャン子クラブ)
行為を迫る彼氏(?)との場面。
ここで「セーラー服=制服」は彼の性的視線をシャットアウトし、理性をはたらかせようとする効果を持つとともに、彼女自らに言い聞かせているようにも聞こえることから、性的な事柄への関心・欲望を持つ自ら(Aメロ・Bメロ・2番等で説明される)を抑え込むものという機能も果たすものとして描写されている。
この系譜は、コンプラ的な部分からか直接的な描写を避けるようになったものの2000年代のAKB48、そして10年代の坂道シリーズになっても描かれる続けている。
制服が邪魔をする
もっと 自由に愛されたいの
どこかへ 連れて行って
知らない世界の向こう
制服が邪魔をする
もっと 自由に愛したいの
そういう目で見ないで
たかが 女子高生よ
(制服が邪魔をする/AKB48)
どんな自分を守ってるのか?
純情の壁 壊すんだ
汚れなきものなんて
大人が求める幻想
どんな自分を守ってるのか?
僕は本気で好きなんだ
その意思はどこにある?
制服を着たマネキンよ
(制服のマネキン/乃木坂46)
いずれの楽曲も男性側が彼女(女子高生)より年上という設定での恋愛を描いていると思われるが、その恋愛をすんなりいかせないもの(不純異性交遊という世間の目など)の象徴として制服が用いられている。
ここまで愛欲の鎖として制服を説明してきたが、英語の“uniform”が同時に「同形の、均一の」といった意味を表すことから分かるように、もっと広い意味の自由の鎖としての制服という一般的イメージがある。
そもそも制服は校則で定められているから着るものであり、昨今では制服自由という学校も少なくはない。
故に、制服は個性の発現を阻害するものであり…という議論は各所でなされている。
そうした制服を衣装モチーフとして用いているアイドルも例外ではなく、「主体性のないアイドル」の象徴として挙げられたり、そうした統一感を逆手に取って上手く魅せているのが欅坂46だったりするし、
実際歌詞でも
さあ 制服コインロッカーに預けて
駅のトイレで着替えてしまおう
夏じゃないか もっと 大人っぽく
いつもと違うもう一人の自分になろう
メイクをすりゃ何とかなるでしょう
イメージ以上もっとサバ読もう
夏じゃないか イエー 経験しようか イエー
危なっかしい計画
(危なっかしい計画/欅坂46)
と前の不純異性交遊と大きく絡みながら、普段は生真面目っぽい子が渋谷(これも試験に出る秋元康読解キーワード)で羽目を外すために「コインロッカー」に預けるものとして制服が描かれている。
このような鎖としての側面がある一方で…
・抵抗・自由の象徴としての制服
という系譜もあるように思われる。
先に鎖の例として出した欅坂のパフォーマンスは逆説的にこっちの側面を持つとも言えよう。
本題の歌詞で言うなら
私は
制服を着たレジスタンス
大人に抵抗し続ける
孤独な
制服を着たレジスタンス
あれダメ!これダメ!息苦しい
聞き分けいい子なんて
なれやしない
(制服レジスタンス/AKB48(TeamK))
は説明するまでもなく、この系譜の代表例。
そして
制服は太陽の匂いがする
スカートは風に広がる
何十回 何百回 校庭を走り回り
自由な日々 過ごして来た
これから先の夢は
いつの日にかわかって来る
生き方なんて誰からも指導されなくたって
運命が選び始める
(制服と太陽/欅坂46)
本日のメインディッシュ:「制服と太陽」。
ここでは進路相談中の生徒が、制服を通して自由だった高校生活を振り返りながら、将来への覚悟を決める姿が描写されている。
こちらの系譜は「鎖」の系譜とうって変わって、むしろ抵抗や自由の象徴として描かれている。
このような矛盾するような2つの系譜は実はもっと広い制服の議論ともかかわってくるのだと私は考える。
社会学者・宮台真司は『制服少女たちの選択』(講談社 1994)で90年代の女子中高生の援助交際やブルセラブームの原因となる制服への異常なまでの欲望の背景には明治以降の近代日本学校制度の「紳士たれ、淑女たれ」という抑圧があることを指摘した。
これは「鎖」の系譜に大きく関わってきそうな話である。
また、「抵抗と自由の象徴」の系譜については、私が大学のファッション論の講義(オタクがファッションの講義を取るな了解)で聞いた話なので出典は示せないが、海外でのコスプレなどの日本の制服のブームの裏には、統一感の中でのちょっとしたアレンジ(「制服レジスタンス」のAメロを思い出しますね)=微妙な差異が、みんなバラバラよりも逆に差異を際立たせるというところでの評価があるということらしい。
こういった点でも実はこの2つの系譜というのは矛盾ではなく両立するものとして一般的にも語られてきたことが分かる。
そしてこの2つの系譜に通底する制服の基本機能がある。
それは「大人ではないが過渡期にあるティーンエイジャーの象徴」としての機能である。
青春と気づかないままに
時に流されて
甘えてた制服を脱ぎ捨てて
大人になってた
あの頃にみんなで歌った
メッセージソング
歌詞の意味が今さら分かった
(青春と気づかないまま/AKB48)
を持ち出すまでもない基本機能だし、皆さんの経験で分かると思う。制服でレンタルショップの暖簾はくぐれないでしょ。
この「制服を着ている=大人ではない」を示すという基本機能を起点に、「制服を脱ぐ=大人になる」をしないと大人との関係を築けない(「鎖」の系譜)と捉えるか、「制服を着ている=大人ではない」を利用して大人との違いをアピールする(「抵抗・自由の象徴」の系譜)と捉えるかの違いであり、論理的にもこれら2つの系譜は矛盾しないのである。
実際、
私が
制服を脱いでしまったら
抵抗するものがなくなる
心も
制服を脱いでしまったら
歯向かう相手が見つからない
みんなと同じように
大人サイド
(制服レジスタンス/AKB48(TeamK))
と前に出した「制服レジスタンス」でも言ってるしね。
ここまで来れば、なぜ本稿のタイトルが“2着”じゃなくて“2つ”なのか、分かっていただけたと思う。
最後に、今後、どちらの系譜を多くしてくるか、第3の系譜を出してくるかと還暦過ぎたおじさんへの期待を込めて書いておきます。
以上、欅共和国2017実況を横目に書き上げた雑感です。
読んでくださってありがとうございました。
追記
「危なっかしい計画」の歌詞が歌詞サイトで「イエー」になってて「Yeah」の打ち間違いではと思って歌詞カード見たら、ホントに「イエー」になっててビビった。