ちいかわの「あのこ」を見ての所感――悲しくとも

 ※この記事は一年以上前に私がはてなブログに掲載したものをそのまま転載したものです。
 ちいかわの「あのこ」と、木彫りの人形でちいかわ達が(ちいかわ族と呼ばれる彼らの一人である白いのをちいかわと呼ぶのはおかしいので、私は便宜的に彼を白ブーと呼びます。ただ、親しみを込めて「でぶ夫くん」と呼ぶ事もあります)妖精のような姿になる話(妖精編とします)が、象徴的な対比になっているという話を見て、ほんの少しだけ感想を書き殴ってみたくなりました。

「おおツァラトゥストラよ。ここは大都市である。得るものは何もありはしない、失うものばかりだ。
 なぜこのぬかるみを渡ろうとするのだろうか。あなたの足をあわれむがいい。むしろこの城門に唾して、――引き返すといい。
 ここは隠者の思考にとっては地獄である。大いなる思想は生きながら煮られ、切り刻まれるのだ。
 ここでは大いなる感情はすべて腐ってしまう。ここでは干からびた小さな感情がかさついた音を立てるだけである。
[……]
 ――そこでは、すべての腐りかけたもの、いかがわしいもの、みだらなもの、やる気のないもの、膿みただれたもの、策謀のたぐいのものが、みな集まって化膿しているのだ――。
 ――この大都会に唾を吐きかけろ、そしてとって返すがいい!」

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』


 あのこは、楽しいこともあったけれど――弱いゆえに辛酸を嘗め苦渋を味わったちいかわだった頃を想起しながら、今の大きくて強い爪を眺めて、満足気に笑います。

 白ブーたちは妖精のような姿になって不思議なひとときを過ごしますが、やがてその原因となった木彫りの人形を破壊する事をハチワレが提案します。

 白ブーは少しだけ物思いに耽りました。縦横無尽に飛び回り、恐ろしいモンスターをもおちょくれる妖精の姿と、いつも足を引っ張り簡単な資格すら取れない本来の無能な――それでも、友達と楽しい時を過ごしてきた自分の姿。どちらが良いのか?さして悩む事もなく、元の姿に戻りたいと白ブーは考えました。

 つまるところ、あのこは孤独でも強い姿を望み、白ブーは弱いままの本来の姿を望んだという対比です。

 ちいかわ劇中では執拗に、白ブーはとことん無能な存在として描かれています。ハチワレにいつも助けて貰うばかりで、そのハチワレがピンチの時にはモジモジクネクネ泣いてばかりの白ブー。その癖に自分を守る時だけは渾身の力を出せる。いわば幼少期のライナー・ブラウンやMIDユーミくらい役に立つ、つまりは穀潰しです。しかし見た目に愛嬌があるので、ちいかわワールドやちいママ達に許されています。

 しかも白ブーより遥かに有能なハチワレが、みすぼらしい家とも呼べないような穴ぐらに住んでいるのにも関わらず、白ブーは「ただ当選した」というだけで、快適な一軒家に住みフカフカのベッドで眠っています。

「弱くても許される」し「快適な生活を送れる」から、白ブーは元の姿に戻ったとも取れます。「弱いことが許され(許せ)なかった」あのこは、異形の怪物となりました。

 私が以前書いた記事から引用します。

 私が誕生する前に放映された『宇宙の騎士テッカマンブレード』は、侵略種ラダムによって捕えられ、人型兵器テッカマンに洗脳・改造されたかつての家族・親族が地球を襲い、唯一洗脳を免れたテッカマンブレードことDボゥイと仲間たちがラダムに立ち向かうSFアニメである。ブレードの槍が唸るたびに家族が死ぬなんとも陰気な話だ。

 Dボゥイはラダムの侵略を幾度となく守り抜き、ついにかつての師であったテッカマンアックスと戦い決着をつける。

「強くなったな、タカヤ坊…昔のタカヤ坊とは大違いだ。肉を斬らせて骨を断つ、さすが死線をくぐり抜けてきただけのことはある。師匠ながら惚れ惚れしたぞ……」
「強くなどなりたくはなかった……できることなら、変わりたくなどなかった!」

タツノコプロ『宇宙の騎士テッカマンブレード』36話

 強くなって皆を守れるようになった。かつての師を超えた。それは間違いなく称賛に値する。でも、ほんとうなら、ラダムさえいなければ。家族同士で骨肉の争いをしなくてよかったはず。まだ師匠の下で訓練を積んでいられたはず。あたりまえのように弟と笑い合っていたはず。家族を葬りさる事を可能にする武力と覚悟を備えるようになったことは、ただただ悲しい。


 何度も同じ話をしてすみません。しかし重要な事なのです。「愛する者の愛は受動的である」と、ジョルダーノ・ブルーノは言います。國分功一郎も、「恋に落ちる」という受動的な表現について語っていました。愛される事は能動的な力の作用でありうるという話です。現代の恋愛市場において、その人の魅力を「性的資本」として評価する事があります。人々は性的資本という力を高める為に、運動をしたり化粧をしたり整形をしたりお金を稼いだりして、マッチングアプリでスワイプを繰り返すのです。いわば「愛される力」を高めている訳ですが、そんな力を振りかざすのは、なにか滑稽で、悲しいことのように思えます。

 例えば街頭での暴力犯罪が頻発し、警察もろくにそれを取り締まらなくなったとして、なら自衛をする必要が出てきます。人々は暴漢に襲われても撃退出来るように鍛えたり、カモにされない用心深さや他人を出し抜く狡猾さを身につける事でしょう。それは、無邪気に気ままに道を歩いていた時よりも「強く」なったといえるかもしれません。でもそれは、きっと悲しいことです。

 この話は、10代の私が敬愛していた小説家が語っていたものから考えた事です。彼はこうも語っていました。「子供が愛されるのは、愛されないと生きてゆけないからかもしれない。」

 白ブーの容姿や立ち振まいは、子供のように見えます。愛されないと生きていけない子供でも、白ブーは愛されているので養護のもと生きていけます。ただあのこには、ハチワレのように白ブーを愛し精神的支柱になってくれる存在がいなかったようです。あのこも元はちいかわ族なので、子供のように見えます。子供なのに、愛されずたくましく生きていかなければならなかったので、彼は「強く」なったのかもしれません。「弱い」自分を選んだ白ブーとあのこ、本当に悲しいのはどちらでしょうか。

 どこで目にしたかは忘れましたが、女性が一人で生きられない世の中になれば、少子化は改善する、というような意見を今年見かけました。女性の社会進出における配慮をとりやめ、男性を経済的に”再び”エンパワメントすれば、結婚率は増え帰結として自然と子供も増えるだろうという訳です。いわゆる脱コルセット的な風潮とは間逆を求めた、右翼ポピュリストが反ポリコレの錦の御旗としたイスラム原理主義への誤認あるいは都合の良い我田引水、とでも言うべき一笑に付す価値もない話です。リベラル派はもちろんのこと、当然、いわゆる保守層でもこの意見には難色を示すでしょう。

 しかし、女性が一人(正確には個人という社会構成の最小単位)で生きられない世の中を許さない人が日本では多くいる中で、子供が親にあらゆる自己決定権を奪われる事に関しては、左派ですらそれを快く承諾するようです。女性は大人ですが、子供は子供ですから。愛しているから当然の事です。

  我々は辛い現実から逃げるように、幸せな物語に触れます。物語は幸せで、でも物語の外が悲しい。逆に不幸でショッキングな物語を求めるのは、現実がなんだかんだ幸せだからかもしれません。

 ちいかわの世界はディストピア的だとよく言われます。一見なんかちいさくてかわいいやつがのほほんと生きているように見えて、その実厳しい試練が幾つも訪れています。白ブーとは違い、驚異に晒され命を落とした事を示唆されるちいかわたちも決して少なくありません。そんな中で深淵を覗き、覗き返され、視線を交錯――見つめ合ってみる。愛せないものから離れてみたら、確かな満足がありました。傍から見れば悲しいのかもしれませんが。

 ニーチェは「愛から為されることは、常に善悪の彼岸に起こる。」と『善悪の彼岸』の153節で語りましたが、では愛せなくなったものから起こるものこととは、一体なんでしょうか。――というような事を最近の『ちいかわ』を読んで考えました。

「いい加減にやめよ」とツァラトゥストラは叫んだ。「お前の話すことにも話し方にも、ずっと虫唾が走っていた。 なぜお前はその沼地にいつまでも住んでいたのか。お前自身が、蛙か蝦蟇になってしまうほどに。 今や、お前自身の血管のなかに腐って泡立つ沼の血が流れているのではないか。だからそのように蛙のような声をあげて悪態をつくのではないか。 なぜお前は森に入らなかった。大地を耕さなかった。海はみどりの島々で満ちているというのに。[……] 一体どうして不平を言う豚になったのか。誰も思うように媚びてくれなかったからだ。――だから汚物のなかに座り込んだ。[……] だが阿呆よ。別れの時だ、この教えを与えよう。もはや愛せないなら、――通り過ぎなくてはならない――。

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』

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