美しいものを見たい/駈込み訴え
この前、ヒトカラに行った。機種はLiveDAMだ。なんとなく、ぬゆり『ロウワー』をはじめて歌ってみたら、やたら豪華なMVが流れ始めた。プロセカやおもちの歌みたでしか聴いた事がなかったので、MVがある事を知らなかった。カラオケの部屋で、ロウワーのMVを見ていたく感動してしまった。あとMiliの『Hero』があまりにも良すぎて感動した。歌を聴くのも、歌うのも俺は結構好きだ。
中年開幕
先日、ついに30歳になった。もう立派な中年だ。しかし素晴らしい誕生日プレゼントを貰ったから、悪い気分じゃない。20代最後の1年は、それなりに有意義に過ごせたと思う。若い頃は漠然と死にたかったけど、某理解のある彼くん漫画ではないが、「あれ、生きてしまったぞ?」という感じだ。いや一般的にはだいぶ悪いのだろうが。
俺はもともとは健常者として生まれたが、親による虐待や嫌がらせ、貧困、田舎の荒んだ環境によって自傷癖が始まり、20代中盤にはついに精神障害者となった。
これまで何度も何度もどういう選択すれば精神障害者にならずに済んだのか?を考えた。導き出した俺の人生で最善のルートは「中卒でなるべく早くに家を出て上京する」だった。
それも一歩間違えれば今の俺よりも遥かに悪くなる可能性の高い、大変な修羅の道ではあろう。でも生まれた環境が余りにも劣悪すぎた以上は仕方がない。だがもうどうあっても人生をやり直す事はできない。
4年ほど前に、うごくちゃんというYotuuberが自殺した。その時に色んな感情が込み上げてきたが、彼女が死んで「ほっとした」ことに自分でも驚いた。
坂口安吾が『堕落論』の中で同じような事を言っていたし、希死念慮があって自殺未遂もした俺にとっては、うごくちゃんが若く美しいまま死んだ事を肯定する訳ではないが否定する気にもなれなかった。
数年前に私と極めて親しかった姪(めい)の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚(せいそ)な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様(まっさかさま)に地獄へ堕(お)ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
もう苦しまなくて済んで良かったのかもしれないと当時は思った。どうか安らかにと。しかし、最近うごくちゃんのイラストが流れてきて、ぼーっと眺めて、本当に今更だけど昔と違ってこう思った「生きていて欲しかった」。
彼女が死んだ時に感じた事の一つが「もったいない」だった。俺と違って、それだけ優れた素養を持って生まれたのに何故自殺なんかするんだ?俺があなたに生まれていたなら、その人生をきっと楽しんだのに、と。
*
もったいない
もったいない、とは「有用なのに無駄にしてしまったりするのが惜しい」という意味だ。例えば一万円札を服のポケットにいれたまま洗濯してしまったら、余程のブルジョワでもない限りもったいないと思うだろう。
肉や野菜を冷蔵庫に入れ忘れてダメにしてしまったらもったいない。もしも、大谷翔平が高校卒業を前にして「いや、やっぱ俺は将棋をやる!」と将棋プロを目指して野球の道を放棄したり、藤井聡太が「いや、やっぱ将棋ちゃうわ。野球やわ」と草野球を慎ましく楽しむだけの平凡なサラリーマンになったら、もったいないと多くの人間は思うだろう。折角の天性の才ある道を選ばなかったのだから。
俺はルッキストで醜形恐怖症であり、男にしてはかなり美容に気を使っている方だ。女性の方が美しい性だと思っているので、女の子に生まれたかったという気持ちがある。
夕方ごろに商業施設にいたりすると、放課後ドレッサーでメイクをしてコスチュームをレンタルしたりして自撮りしたり遊んだりしている女の子をたくさん見かける。都会だからか、それとも俺が10代の頃よりも、人々の美意識が向上したからか、少なくともサテライトの女子に比べて今の若い女の子たちは凄く可愛いと思う。
こんな事を言うのは破廉恥だし歪んだ意見である事は承知の上で敢えて言うと。都会にも、もちろん可愛くない女の子が当然いる。余計なお世話だろうが俺はこう思う。「せっかく女の子に生まれたのに、せっかく都会に生まれたのに、ブスに生まれて、何てもったいないんだ!」、と。
もちろん、人それぞれの意見やイデオロギーがあるだろう。下らないジェンダーだと言われればそれまでだし、所詮は人間万事塞翁が馬であると言われれば、それも間違っちゃいない。でもどうしようもなく、自分の価値観というものからは逃れられない。
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自分の人生で一番大切な女の子に、こういう事を思った。「そんなに顔も骨格も声も綺麗で都会に生まれたのに、底辺の家に生まれて、何てもったいないんだろう。少なくともお前だけはこんなところに堕ちて来るべきじゃなかった。お前だけは俺たちの代わりにもっと素晴らしい人生を歩むべきだったのに、と」。
料理に使えなくもないクズ野菜を使うかもしれないと冷蔵庫に入れておいて、ついには全く使えないくらい腐ったとしても、別にもったいないとは思わない。最初からさして有用じゃないからだ。
俺は自分に対してこう思っていた。最初から手遅れだから障害者になったとして、もったいないもクソもない。でも彼女は違うと思っていた。輝ける素質があるのに、それが阻まれて足を引っ張られてしまうのは、もったいないと。
俺が人生で最も傷ついた言葉がある。「お父さん、お母さんに、似てるね」だ。そら親子だから似てるのは当然だ。れっきとした事実なんだろう。でも自分がこのクズ共に似ているという明確な事実が、苦しかった。
悪意をもって何か貶されたりするのは、田舎者で慣れっこだしテメェが人様をどうこう言えるのか?って底辺共にだけ言われてたから別に平気だった。でも、両親に似てるという事実を悪意なく無邪気に言われる事だけは我慢ならなかった。父親の通夜でそれを言われた時に、ぐっと気持ちをこらえながらトイレに行って泣いてしまった。
逆に最も嬉しかった幸せだった言葉は、一番大切な女の子から「僕達は双子ちゃんみたいだね」だ。あの子に双子のように似ていると言われた事が望外の幸せだった。最も悪い相手に似ているか、それとも最も愛している相手に似ているか。でもその言葉を信じ切ることが出来なかった。親に似ているという事実は、根深く俺の心を蝕んで腐らせてしまった。
弱者男性の父親を殴れなかった
俺たち田舎の底辺層のガキは、言ってしまえば労働力の再生産を目的に粗製濫造された哀しきプロレタリアートだ。父親は歪んだカルト思想を持ち、俺に労働力として働く事と家を継ぐ事を求めていたのだと思うし、母親は自分が個性的で芸術的な良いお母さん、というセルフイメージを保つ為のアクセサリーになる事を俺に求めていた。奴らはまったく俺の話や要望を聞いてくれなかった。ゆえに色んな事を諦めざるをえなかった。親から一人の個人として尊重される事がなかった。
彼らには意気地というものがなく、俺の気性が激しいのもあって、彼らは要望を貫き通す事はしなかった。つまりは彼らは資本性や家父長制に妥協したのだ。イデオロギーの供物を用意する事に失敗し頓挫した。
リベラルで柔軟な考えを抱くには頭も勤勉さも足りず、家父長制をやるには力もまるでない。何もかもが半端者だった。
俺は、もう高校生になる頃には両親とは必要最低限のコミュニケーションしか取らなかった。こいつらと話したところで時間の無駄でしかないと。両親の仲もずっとギスギスしていたが、田舎の。ゾンビ儒教に囚われた弱者に離婚という選択肢はなかったようだ。
だが我慢の限界というものがあり、年収287万円で学費が払えないから進学を諦めろと俺を説得してくる父親に、ついこう言った「凄いね。よくそんなんで子供作ろうと思ったね」。これは嫌味が半分あったが、何故この人が子供を作ろうと判断したのかが気になったのも本当だ。
父親は開き直るように声を荒げて言った「ハイハイごめんなさいねぇ!」そうして。でも、不景気で仕方がなかった。色々と計画が狂っただの言い訳を並べ始めた。
俺はそれに対してこういう事を訊いた。「じゃあ、最初想定していた子育てのプランっていうのを教えてくれないか?」。運悪く不景気との遭遇がなかった場合の、順風満帆に行く筈だった彼の理想の家庭というものはどういうものだっただろう?
父親はこう答えた「そんな事考えてたら、子供なんか作れない」。
まぁ、そりゃそうだろう。まともに自省したらお前たちは子供なんか作れないだろうよ。彼らがまともに考えてこなかったから、向き合うべきものに向き合ってこなかったから、我々の惨状がある。子供には見下され、妻には常に小言を言われながら、ひたすらトルネコの大冒険で、鍛え上げた装備を持ち込んで、負ける筈のない冒険を遊ぶだけの子供部屋おじさん人生。
俺は久々に、父親を一発ぶん殴ろうかと思った。怒りというよりは呆れの感情だった。カッとなった訳ではなく、俺には殴る権利があるから、それを行使した方がいいと判断した。
小学生の頃、父親は俺によく理不尽に暴力を振るっていた。だが俺が小学生の高学年くらいになって身体が大きくなってくると、俺は反撃するようになった。俺に殴り返された父親が、すごくきょとんとした顔をしていたのを覚えている。俺が全身全霊で反撃をしてくるので、中学生くらいになるともう父親も暴力を振るうのを諦めた。俺も暴力に出るのは嫌だったので、仕掛けてこない以上は暴力を使う事がなかった。エスカレートして喧嘩を超えた殺し合いになるのは望むところでは無かったし。
でも、久しぶりに、殴ってやる必要があると考えた。
だが、父親を冷めた目で見てみると。今までコミュニケーションに時間を割くだけ無駄だと向き合う事をしてこなかった父親をよく見てみると、そこには、50を超えた弱々しい、体格でも力でも口でも知能でも何もかもが俺に敵わず、どこかおどおどと困惑の表情を浮かべた、老いて太った不甲斐ない醜い還暦一歩手前の子供部屋おじさんがいるだけだった。
ようやくちゃんと悟った。この人に何かを期待しても無駄だって。殴ったってしょうがないって。俺は「もういいよ」とだけ言って、話は終わった。思えば、父親に対して真剣に何かを訊いた最初で最後の時だった。
その1年半後くらいに父親は死んだ。死人はもう殴る事はできない。あの時、殴るのを躊躇してやめたのは正しかったのかモヤモヤする事もある。殴っていればスッキリといまだに彼を憎む事なく過ごせていたのかも知れないと。
哀れだったのが、通夜や葬式をやる訳だが、その遺影に使う写真がロクに残っていなかった事だった。家族仲が冷え切っていたがゆえに、10年くらい家族の写真を撮る事がなかった。だから、一番最新の父親の写真が俺がまだ8歳とか9歳の頃の写真だった。仕方なくそれを使って、皆がその写真を見て、若い……と言っていた。こんな事になると知っていたら、彼は子供を作る選択肢を取らなかっただろうか?
なぜ彼らは憎まれ役を任されてそれを引き受けたんだろう?
システムに放り込まれてしまったから、仕方なく?
自分たちが底辺で苛まれてしまった理由が知りたくて、シングルマザーやファザーとか、底辺層の崩壊した家庭の人々の話を聞くと、みな口々にこう言う「最初は自分たちなりに真剣に考えて、いつか上手くいくと思ってた」「子供を作れば変わってくれると思ってた」。
予定調和の不幸はいつまで連鎖して続いていくの?
楽しいじゃんか、現実を後にして走り回るのは
ふと昔、自分が嫉妬していた女性に言われて、とても想定外で、驚愕した事を思い出した「あなたにとても嫉妬していた」。そんな事を言われるとは思いもしなかった。俺こそあなたにとても嫉妬していた。
そういう言葉を全部無下にしてきてしまった。今更だけど、自分がもう少し何か勇気を出せれば、酷い底辺からもっと早くに這いずり出て何かが変わっていたのかもしれないな。とても、もったいないと思う。我々の一番の罪は目を伏せ、信じきれずに夢を早々に終わらせてしまう事だと思う。
若い頃は誰もが幸せに、搾取されない、平等で幸せな世界を夢見ていた。でも本当は美しいものが、もったいなく、奪われてしまう世の中が我慢ならなかっただけなのかもしれない。
あの人は嘘つきだ。言うこと言うこと、一から十まで出鱈目だ。私はてんで信じていない。けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。
俺だけが余りにも遅くに悟ってしまった
俺はどうしようもなく両親に似ていて、他人の意見や忠告に対してあまり耳を傾けない。我慢弱く落ち着きがなく、思い込んだら突っ走ってしまうタイプの人間だ。でもようやく悟った。確かに俺とお前は双子のようだって。お前がかっこいいと言ってくれたのに信じる事が出来なかった。自分に好意を抱いてくれた誰の話も満足に聞かずに、ここまで来てしまった。俺は両親に似てはいるけど、根本的には違うんだ。
俺は親には恵まれなかったけど、凄く素晴らしい人達の背中を追いかけて、結構助けてもらったと思う。中里もジジェクもそうだし、私の視野を広げてくれる。未練たらしいけど、まだあなた達のファンでいさせて。あなた達のファンでいたいんだ。私は今でもあなたの一番のファンです。そして私は私の一番のファン。どこまで続くかは分からないが、行けるところまでは美しいものを目を伏せずに見ていきたい。
いい天気じゃないか……。もっと早くそう思ってたら。
そうすると、俺の30歳の誕生日、俺はこの日を良い日にしようと出かけた。奇跡か必然か、眼の前でまたとても美しいものを見た。
思いがけずに、その美しいものの片割れが偶然俺の眼の前を通りかかった。今確かに目があったな?こーゆーことかよ……シャマラン……。
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