「多様性」への配慮はどこまで必要か?
みなさん、見てますか、バチェラー4。
あ、この記事は見てる人も見てない人も読んでいただいて大丈夫です。
特にネタバレもありません。
かくいう私もまだ3話目くらいまでしか見ていませんので…
大筋には関係なく、SNS上で話題になっている件についてちょっとうーん?と思うことがあったのでもやもやを言語化したく、これを書いています。
何にもやもやしたかというと、はい、まずこちらのTwitter投稿を見てください。
4代目バチェラー 黄 皓/コウ コウさんの発言
「本当につくづく、素敵なご両親がいる子は魅力的だと思う。ご両親から沢山の愛をもらって育ったから、それをまた多くの人に、大切な人に向けられる素晴らしい女性に巡り会えたこと本当に幸せだと思った。出会ってくれて本当にありがとう。」
小島瑠璃子さんの発言
「バチェラーに出てる女の人、ひとりも太ってる人いないわぁ えらいなぁ。」
引用元のツイートを見に行ってもらえればわかると思うんですが、これ2つともバチボコにたたかれております。
理由は「片親、毒親で育っている人もいるのにそういう人への配慮がない」「痩せてたらえらくてデブはえらくないって差別では?人の体型に言及するのはどうなの」というような感じです、ざっくり言うと。
昨今「多様性」という言葉がよく使われるようになり、「ありのままの自分を受け入れる」「ありのままの自分を認めてもらう」=良いこと!という風潮を強く感じます。
もちろんそれ自体は良いことだと私も思いますし、今後どんどんそうなっていくべき、世界に比べて日本はそういう動きが遅い、すべてその通りだと思います。
なんですけど。なんですけども!「多様性」という言葉を振りかざして、そんなつもりで発言していない人に突っかかっていく社会は本当に「良いもの」なのでしょうか?
件のツイートに関しても例えばもし黄 皓さんが「やっぱり両親がそろってない子はだめだな~」と言っていたら、小島瑠璃子さんが「太ってる人は全員努力が足りないよね。」と言っていたら、そりゃ叩かれるだろうし、差別発言と言われてやむなしと思いますが、それぞれ黄 皓さんは「素敵な両親のもとで育った素敵な女性に出会えて幸せ」、小島瑠璃子さんは「バチェラー出演者さんはみんな体型キープをされていてすごいなあ」という趣旨の発言だったのだと思います。(あくまで私の解釈なのでご本人の意図と違っていたらお詫びして訂正いたします。)
強いて言うなら黄 皓さんのほうはちょっと言い回しに配慮が足りない部分もあったかなと思うところもなくはないですが(「出会った女性のご両親にも会わせていただきましたが、ご両親もとても素晴らしい方たちで感動しました。」という言い回しだったらまた受ける印象は少し違ったと思う。)、あくまで言いたいことは「素晴らしい両親がいる子=自分にとって魅力的」であって「そうでない子=魅力がない」と言っているわけではないのですよね。
小島瑠璃子さんにしても「体型維持をしている=えらい」と言っているだけであって「太っている=えらくない」とは言っていないわけです。それに対して「体質や持病で痩せられない人もいるんですよ」というのは趣旨が違うのではないでしょうか?
「カニ鍋食べた~!最高!!!」という発言に対して「カニがアレルギーで食べられない人もいるんですよ」と言ってくるのと似ていませんか?
中には私がこのように感じるのはお前の育ってきた環境が恵まれているからだろうと思う方もいるかもしれないのですが、私自身ばっちり片親育ちですし、体型もそんなに恵まれているわけではありません。ダイエット中です。
それでも別に上記の2つのツイートを見て悲しい気持ちになったり、イライラしたりということは特にありませんでした。
ちなみに私がかつて実際にイライラした片親関連の発言は以下のようなものがあげられます。
第3位:とある元カレ「めたこちゃんは片親なのに精神が安定してて本当にいい子だよね」
↑ほめてるつもりか?両親そろっていても偏見がすごいと大変ですね。
第2位:高校の同級生のお母さんより「めたこちゃんはお父さんいないのにちゃんと勉強していい成績でえらいわよね。」
↑単純に「勉強頑張った私」がえらいだけであって父の有無は成績には関係ありません。
第1位:父方の祖母より「早くに父を亡くした子は年上の男性に惹かれやすいっていうから不倫とかしないようにしなさいね」
↑敵は身内にありの好例。その発想が気持ち悪すぎます。
わかりますか。実際に「は?」って思うのはこういう発言なのですよ。こういうのはたぶんそれぞれ言われたの5~10年以上前なのですが、今も記憶に残ってるし思い出すと腹立ちます。
あなたは「片親」(もちろんこの鍵カッコ内は「太っている」とか「毒親育ち」とかでも言い換えられます。)だからこうですよね、もしくは「片親」なのにこうですね、などと勝手にカテゴライズされてネガティブ・ポジティブにかかわらずその人の抱くイメージを押し付けられるのが気持ち悪いのです。
ツイートの件に戻りますけど、結局ああいったツイートに「差別だ!」「○○な人に対して失礼です!」と声を上げる人たちの一体何割が本当に「○○な人」に該当する人たちなのでしょう?大半は「(私は該当しないけど)片親の人や毒親の人に失礼です!」「(私は該当しないけど)病気で痩せられない人もいるんですよ!」なのではないでしょうか?
本当に該当する人が「私はこの発言で傷ついた、配慮に欠けていると思います。」というならわかりますし、その感想を伝えることは自由です。
これを読んでいるあなたが該当しない人で抗議の声をあげたいと思っているのであればちょっと立ち止まって本当にそれが必要な抗議なのか、該当する人たちが本当に傷ついているのか考えてみてください。
少なくとも私は、黄 皓さんの発言に対して「片親/毒親育ちの人が見たらどう思うか考えてください!」と言っている人を見て、「ああこの人は片親/毒親育ちはこういうツイートを見たら傷つくと決めつけているんだなあ」と遠い目をしてしまいました。
それを言い始めたら終わりませんが、そういう決めつけも一つの差別発言ではないんですかね。個人の感想ですけど。