「尖っている」は便利な言葉

芸人のヒコロヒーさんがブログにて「尖っている」という言葉について触れていた記事を読んだ。

「尖っている」という言葉には、「無礼」だったり「前衛的」であったり、複数の意味が内包されており、話し手が言語化を怠っているように感じてしまうというような記事であった。

この記事にはとても共感した。
曖昧で抽象的な言葉を多用することは、考えることを怠っているように感じる。
エモいなんて便利な言葉は絶対に使いたくない。

しかし、「尖っている」に関しては、言語化の怠りによって使われるというケースだけでは説明できない使い方がされているとも感じた。

例えば、人に直接的に「無礼だ」というのは、なかなかに憚られるし、その後の関係に軋轢を生みかねない。
だから、「尖っている」という言葉を使うことで、「あくまで、それを私は認めてますよ。」というニュアンスを含ませているのだ。

ただ、これはあくまでも他人の行動・思想を「尖っている」と評価することで人当たりが良い人を演出しているだけにすぎず、実際にポジティブな感情を抱いて言葉を発しているとは限らない。

むしろ、内心ムカつきながら使っていることも多いだろう。本当に評価しているのであれば、他にいくらでも褒め言葉はあるはずだ。

つまり、「無礼だ」という意味で使われている「尖っている」の言語化を図ると正確には、「悪いとはいわないけど、無礼だと思うよ」になるわけだが、これでは説教くさくなってしまう。それを避けようとすると、「無礼な部分もあるけど、そういうのも個性だよね」辺りが妥当だろうか。
こんなことをムッと来た人がわざわざ考えて伝える訳がない。

抽象的であることを利用して、悪い印象を与えずに、深い意味や心情も悟らせずにその場をやりすごす。「尖っている」という言葉は、大人にとって、そんな便利な言葉であるように感じる。


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