多様性が大切なら、多様性のない頑固親父に理解を示すこともまた多様性である。
タイトルのままである。
多様性を認めようという風潮は素晴らしい。
しかし、
「多様性 = 個人を尊重する」
ではなく、
「多様性 = 少数派・新しい価値観を認める」
という認識になっていると感じる。
これでは白羽の矢が立つ風向きが変わるだけで、生きづらい人が減ることにならない。
頑固親父はもちろん害悪だ。
だからといって、いまだに亭主関白気取りのおじさんに時代遅れだと指を差してしまったら、多様性を認めているとはいえない。
時代背景や生きてきた環境を考えて、どうすれば理解し合えるのか会話をしていくことが多様性を認め合うということではないのか。
自分で感じたり、考えたりすることは自由だ。
頑固親父に腹を立てるなとは思わない。
同様に奇抜すぎるファッションに「それはちょっと」と思うことも自由である。
問題なのは、それを共通認識だと考えてしまうことだ。
「それは普通に考えておかしいよね」の「普通」のことである。
普通などない。その考えを持ったあなた個人の感想でしかない。この考え方を持っている限り多様性が尊重されることはない。
「それは私にとっては理解不能だし、まじで最悪。だから、その良さを教えてくれない?」
これが多様性のあるべき姿ではないだろうか。
そんなことできるかは知らない。
だけど、多様性という言葉が一人歩きして、誰かを苦しめることはないで欲しい。