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【哲学漫談】 ストッキングのエロス、微差は大差、性別でポートフォリオを組む?

突然ですが、ストッキングとタイツの違いをご存じでしょうか?ストッキングは足をきれいに見せるためであり、タイツは足を温めるためだそうです。たしかにストッキングを履くと、足が細く引き締まって見えますよね。

そういえばどこかでロラン・バルトが、ナイロン製ストッキングは超絶エロいって語っていたような記憶があります。半透明のストッキングがふくらはぎを覆っている。早く脱がしたいけど、いざ脱がすと引き締まった脚線美が損なわれて幻滅する。ここにジレンマがある。ふくらはぎを撫でる手のひらは、決して脚線美に到達することはないだろう。触るものと触られるものは、ゼロmmのナイロン膜によって無限に隔てられているのである…的なことをバルトが語っていた記憶があるのですね(うろ覚えですいません)。

というのも私は最近、デフォルメについて考えているのですね。アニメや絵画で人物を描くとき、対象の特徴をとらえて誇張・簡略化することを日本では「デフォルメ」と呼ぶそうで、「増幅」といっても「強調」といっても構わないのだけど、「ベースはのっぺりと連続しているのだが、人為的な境界線を引いて両者の違いを際立たせること」って、面白いな~と。

たとえば人間は幼体成熟であるという説があり、「昆虫は幼体と成体の姿形が大きく異なる。しかし人間は大人と子供の見た目がたいして変わらない。いわば人間は幼体の姿のまま成熟期を迎えるので、様々な社会的制度を設けることで大人と子供の違いを強調するようになった」というのはさすがに珍説かもしれません。が、「男女の姿形はもともと大きく変わらないけど、様々な社会的制度やファッションを通じて、男女の違いを強調するようになった」という説であれば、多くの賛同を得られそうですよね。

このように「ベースはのっぺりと連続しているのだが、人為的な境界線を引いて両者の違いを際立たせること」を私はデフォルメと呼んでいるのですが、この人為的な境界線に位置する物がストッキングなんですよね。ストッキングフェチとは、触るものと触られるものとを分け隔てる境界線その物を愛好する。いわば境界線フェチであるといえそうです。この微妙な違いを増幅させる人は、ゼロか100かを志向します。微妙な違い(50か51か)に大きな違いを発見して喜び、「ゼロか100か」へと誇張する。「触る人」と「触られる人」という二元論的な発想の持ち主だと思うのですよね。おそらくこの論点は、なぜ現代思想家は左翼であり、金融市場を批判するのかにも繋がりそうな気がします。

一方、ジェンダー論は性のグラデーションを主張してきました。「男は色々。女も色々」という考え方をジェンダー論は認めないのですね。男と女という二元論ではなく、性には無数のあり方がある。まず身体的特徴として、男性器をもつか女性器を持つかどちらでもないか。またメンタル面で自分のことを男性だと思っているか女性だと思っているかどちらでもないか。また好きになる相手は男性か女性か両方か。身体・メンタル・好きになる相手を各3通りとして単純計算すると、3×3×3=27通りの性別が存在することになります(実際はもっと複雑だと思いますが)。これはどちらかといえば投資家的な発想で、資本主義と親和性が高いように思います。ざっくりいえば、27通りある性別のうちの一つだけを生涯を通じて守り続けられるはずがなくて、性欲という賭け金(自分の資金)を各性別エリアにどう配分するのか、その際に自分自身の嗜好もあるけど、LGBTに対する周囲の理解度や流行という相場環境も鑑みて、空白の27マスに資金という名の性欲を振り向ける。発想としては投資家がポートフォリオを組むのに近いと思うのですよね。ジェンダー意識の高い人は、性別をダイナミックに変化するものとして捉えているのではないか、と。

このように「性は多様であり、無数の性がグラデーションを成している」とジェンダー的投資家は主張する一方で、ゲイバーや風俗など性の現場ではストッキングを脱ぐか脱がないかを巡ってデフォルメ遊びが行われている。そこではストッキングという境界線が必須アイテムとなっている。ぶっちゃけストッキングを脱いでも大して変わらないじゃんか、て思う人は変態レベルが低いです。本物の変態はストッキング(ゼロ距離)に無限(およそ100メートル)の隔たりを感じるのです。ストッキング越しに伝わる柔らかな肌の感触。ナイロンの上を滑る指先がふくらはぎに押し返される。私がふくらはぎを触るとき、私はふくらはぎに触られているのです。

ちなみに変態とは英語で「Queer クィア」と呼ばれ、「LGBTQ」の「Q」はこの「Queer クィア」を指すとの説もあるそうです。そうすると、なんだかおかしなことになってきます。ジェンダー論は二元論とグラデーションの双方を含むといえるからです。私たちはジェンダーという現象から、静的な二元論と、為替相場のように配分が変動するグラデーションの双方を引き出すことができる。いわば二元論とグラデーションという二元論。これを分かりやすくいうと、デフォルメされたベタな女言葉を使うのはオネエだけ、ということですね。


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