前衛音楽は能書きに頼りがち、戦後ラーメン史とジャンクなもの、中原昌也とKlagen Fisherman
高校生の頃、近所のツタヤで借りてきた暴力温泉芸者こと中原昌也のCD『OTIS』。「デス渋谷系」と称されたそのアルバムには、さぞかし耳をつんざく凶悪な音が閉じ込められているのだろうと、念のため音量を下げて再生、ところがスピーカーから聴こえてきたのは「ミラーマン」のテーマ曲を歌う男性の声。カラオケで友人が歌っているような雰囲気で「戦え僕らのミラーマン♪」という間の抜けた声に当時の私はズッコけたものである。
また、同じアルバムに収録されていたのであったか、記憶は定かでないが、中原が友人と一緒に開いたビデオ観賞会の模様を採録しているらしき曲では、「これ、うまいよ」などと言いながら、ボリボリとポテチをかじる音が終始鳴り響く。果たしてこれは曲なのか…あまりの下品さに私は困惑したものである。
それ以来、私は約5年おきに中原のアルバムに挑戦している。年齢を重ね、私の可聴域が狭くなったおかげだろう、モジュラーシンセによるノイズ楽曲はだいぶ聴きやすくなったものの、好きか嫌いかの判断は保留している。というか未だによく分からない。
2020年代の現在、「歌ってみた」動画がSNSで普及したり、食べ物をかみ砕く「咀嚼音」動画が一部愛好家の間で流行しているのを見るにつけ、1990年代の中原は時代を先取りしていたのかもしれず、おそらく2050年頃には、彼のアルバムで試みられていた実験性はさらに理解しやすくなっていると思う。真面目な話、20年後の流行を知りたければ中原の前衛的な曲を聴けばいい。
が、中原はオタク嫌いで有名であるという。現代の「咀嚼音」動画では、「くちゃくちゃ」「さくさく」といった食べ物をかみ砕く音を採録する機材が重要で、たとえばバイノーラルマイク(2個の無指向性マイクを両耳に装着して録音し、周囲360度の音を立体感のある定位で聴くことができるというもの)で録音された音源をヘッドホンで聴くと、臨場感があってゾクゾクしたり、リラックスできるという。要するに「4K映像は超高画質!」の音版なのだが、このような音フェチによる技術信仰を中原はいかにも嫌いそうな気がする。
というのも、「さぞかし凶暴なノイズが鳴り響くのだろう」と身構えているところに、間の抜けたミラーマンの曲が流れたり、そもそも曲であるのか判別不能な咀嚼音が流れる、それを「ノイズ」と呼ぶわけで、ノイズを期待しているときに流れてくるノイズはもはやノイズではない。「ノイズ」とは、ホワイトノイズのように具体的に周波数を定義できる場合もあるが、本記事では「シグナル(意味あるもの)」の対義語として「ノイズ(邪魔なもの)」という言葉を使っている。
雑な整理だが、ビジネス化されたオタクは音質にこだわりがちである一方、前衛音楽は能書き先行型のものが多い。たとえば、Ernst Karel氏による「Dreiländereck(三国国境地帯)」(2013年)というフィールドレコーディング作品は、ライン川で採録されており、片方のマイクがフランス側を、もう片方のマイクがドイツ側を向いており、マイクスタンドはスイスに設置されているので、3つの国の音を同時に聴けるという。実際に聴いてみると、鳥の鳴き声やライン川を行き交う船らしき音が聴こえるが、正直なところ私には退屈で、5分でリタイアした。「こういう環境音を採録するならもっと音質にこだわってくれよ。バイノーラルマイクの機材レビューを兼ねて鎌倉散歩してるyoutube動画のほうがずっと音が良いぜ…」などと感じる私はすでにビジネス化された音フェチ界の住人なのかもしれないが、いかにも美術館で「この作品はライン川で採録されています…」などと能書きを読んで小難しい顔して頷いている人が喜びそうな作品である。もしかすると「Dreiländereck(三国国境地帯)」は美術館の一室に流しておくインスタレーション的な作品であり、最初からヘッドホンで全編通して聴くことを意図していないのかもしれないが…。
チンパンジーの殴り書きに解説文を付けると現代美術になるというジョークがある。あるいは芸術家のデュシャンは既成品の便器に「泉」というタイトルを付けて展覧会に出品しようとしたらしいが、デュシャンは美術館で小難しい顔して能書きを読んでる人を皮肉ったのかもしれない。ずいぶんケンカ腰だが、中原の音楽はこのような悪意が濃厚で、「どうだ!お前らが普段見て見ぬふりをしているクズだぞ。汚いだろ!」って、便器にこびりついたクソを突き付けてくる感じがする。
このように中原のノイズ音楽はとても露悪的で、聴き手に不快感を与える。
ところが、ノイズを取り扱っているにもかかわらず、上品な味わいを持った音楽というものがある。たとえば、Klagen Fisherman氏による「permanent vacation」は、おそらく駅ピアノを自演自録した楽曲であるが、ピアノ音が「ぴーんぽーん」という駅構内の誘導チャイムと会話しているような、不思議な味わいがある。通行人の足音、咳払い、構内アナウンスといった、通常の駅ピアノではノイズとみなされがちな要素を採り入れ、静謐な環境音楽として成立させている。
このように、Klagen Fisherman氏によるいくつかの楽曲はコンセプトが明確である。いわば「駅ピアノと誘導チャイムによる即興的対話」みたいな、強力な能書きを付すことができるのだが、にもかかわらず、何度も繰り返し聴けるスルメ曲が多いという点において、とても珍しいタイプの音楽家だと私は思う。能書き先行型の前衛音楽は往々にして、一度聴けば充分であったり、あるいは「作者である私自身も全編通して聴いたことがないんですよ(笑)」などというエピソードがあったりするはずなのに…。
急に話が飛躍するようだが、日本ラーメンの歴史は「動物系と魚介系スープをいかにして馴染ませるか」という課題を追求し続けてきたところにあると私は理解している。すなわち「かつおや煮干しなど日本で身近な食材を煮込んで作る出汁(魚介系)と、鶏ガラや豚骨を煮込んで作る出汁(動物系)をいかにして馴染ませると美味しくなるか」という課題である。鶏ガラや豚骨はもともと可食部を取り除いた後に残る廃棄物であり、いわばクズ骨を安く仕入れてスープの材料に使ったという。「ちょっと待って。その骨を捨てないで。ラーメンのスープに使うから」「え。こんなんゴミやで。けったいなこと言いますな。どうせ捨てるものだから、無料で持っていきなはれ」といったやりとりが昔は行われていたかもしれない。そして、もしデュシャンであれば、むき出しの鶏ガラに「荒ぶる生命」と仰々しいタイトルを付け、どや顔で展覧会に出品したかもしれない。
2020年代の現在、武蔵新城にあるラーメン屋「湯や軒」は、おそらくご夫婦で切り盛りされているWスープの名店である。醤油ラーメンを注文する際に、魚介スープと豚骨スープの比率を、9:1(あっさり)、7:3(普通)、2:8(こってり)から選ぶことができる。また塩ラーメンは、魚介と豚骨の比率を9:1か1:9から選ぶことができる。個人的なおすすめは醤油味の魚介7:豚骨3だが、その日の気分によっては魚介2:豚骨8も非常に染みわたる。戦後の日本式ラーメンは、鶏や豚の骨というジャンクな素材を煮込み続けた職人たちによる長い試行錯誤を経て、この5種の味に収斂したような感があるのだ。それと同様に、Klagen Fisherman氏による3曲「permanent vacation」「evacuation」「boulevard」は、いずれの曲も、ピアノの音色をノイズと掛け合わせているのだが、「ぴーんぽーん」をはじめとするノイズの効き具合が各曲において異なっているような気がする。氏の楽曲は能書きが強力であるにもかかわらず、テイスティである秘密は、駅ピアノとノイズの馴染ませ方を色々なパターンで試しているところにあるのかもしれない。私の勝手な想像だけど。
純なノイズは毒だが、何かと混ぜると旨味になる。中原昌也がノイズ音楽の極北であるとすれば、Klagen Fisherman氏はピアノにノイズ音を混ぜて旨味を出す。ジャンクなものとの距離感の取り方において、この2人が私の中で対を為している。
あなたのグラスのてっぺんを、私のグラスの足元に。私のグラスのてっぺんを、あなたのグラスの足元に。ちりんと一回、ちりんと二回。天来の響きの妙なるかな! byディケンズ。Amazon.co.jpアソシエイト。