#Hume, 1739 20151229
#Hume , 1739 20151229
ある本(the righteous mind)を読んでいると、
Reason is, and ought only to be the slave of the passions, and can never pretend to any other office than to serve and obey them.
との引用があった。何てこった。
ぼくがこれからしようとしている、(「道徳」や「正義」についての)仕事を先取りしている奴がいて、1739年に既に考えついていたのだ。あと数日で2016年だってのに、まったく何てこった。
こどもが(本当の意味での用語として)経験的(empirically)に何かのルールを見出しそれをルールにしていく過程を踏み、それで何らかの秩序を身に着けていくことがあるのか。Piagetの、例えば、保存の概念が実験過程上の、ほんのちょっとした間違いというか、手違いというか、(幼児には)何がわからないかというレベルの知識についての欠損が、彼を保存概念成立年齢を見事に誤りに導いたのと同じようにして、もしかすると、ある種生得的な「なにか」があるのかもしれないし、演繹という作業を経てではなく、解(の理屈は知らぬまでもだ。それが何となくわかるというのであれば)に合わせて、つまり、ある種合理的に、一方で都合良く、そう、引用にあるようなことがあるのかも知れないとも思えてもいるのだ。
(ぼくの思考はどうだろう。ちょうど、直観的に(これは、intuitionallyという意味)それほどの文献やら先行研究やらの分野を読むのでなく、以上のようなことに思い至ったのであることは間違いない。あるいは、ぼくが以前誰かの裡にあった「魂」がぼくという肉の衣を着た存在であるのなら、それはそれでわかるような気もするのだが、ぼくが誰かの生まれ変わりとする前提は、今のところ、採用出来ない。だから、そういう点でも、この文化取得の生得性みたいなものがあるとすれば、それは1739年の見解に幾ばくかの寄与と同時に反論を与えることにもなるのだと思う)
(もうちょっと言うと、これは差別に関するある種ユニバーサルな立場の共有を可能にしてくれるような思いもあるのだ。もしも、ぼくらが互いに違った正義を持ち、それに照らして「差別」であると断じ合うなら、それは最早同じ言語の議論にならないと常々思って来たことへの、ぼくなりに辿り着いた考えあるいは「前」考え(T. S. Eliot風にいうなら、こいつは"ur-thought"とでも言えるものである。あるいは、"pseudo-thinking"か)みたいなものだ)