論文メモ20191231
20191230運命論と
20191230 急に具合が... p.111
九鬼(周造)が『偶然の問題』で示す偶然性の定義そのものです。彼はそれを「独立の二元の邂逅」と名づけ…偶然を確率的に思考はまったく掴むことができないと強調しています。
“p”は「そうでない確率」つまり危険率(有意水準)とも呼ばれる概念です。“p<.01”と記せば,1%未満で「そうでないことが起きるかもしれない」けれど,それ以外は,「そうであることが起きる」(つまり,たいていは,仮説通り)というものです。最近は,帰無仮説棄却という考え方自体が批判されてもいますから,心理学研究だけでなく,実験デザインに統計的手法を入れざるを得ない場合は,割と困ったことになります。だから,ベイジアン(ベイズ(の確率)論)にその方法論的根拠を求めて,実験前の確率と実験後の確率を出して議論するという手法も出てきました。事前事後の確率というものです。
また,周知のとおり,p<.05で棄却され,つまり,(対立)仮説が支持された社会心理学研究の6割は再現可能性がないという,重大な指摘があります。それなのに,心理学研究は統計パッケージ頼みで,Aという統計では「(有意)差が出ない」のでBにしたというひとたちがいます。これは改竄に近いというか,デザインの時点でAにしてたものを,「はじめからBという検定をします」と書けば済むという話も含まれています。カットオフや閾値などを用いて,差が出る方向に導くひとたちも当然いることでしょう。
研究倫理といえば,その研究の貢献度と倫理的に大丈夫か否かがたいてい検討されますが,こんなAでもBでもいいようなやり方で構わないという研究(者)にそもそも「倫理」はあるのでしょうか。
冒頭引用したのは,まったく異なる事象どうしが偶然発生することについて,文化人類学の立場から説明したことが,(図らずも)九鬼周造の「独立二元の邂逅」と内容が一致したという話です。著者たちは,一方の著者が癌になったことや標準治療やその他の仕方について,往復書簡で話題化し,そもそも癌になるという偶然について集中的に話し合います。偶然と対義である必然ということや,確率論も登場します。この治療法はこのタイプに95%有効であるといった言い回しが,たとえば,出てきます。これが60%, 50%, 40%, …と変動することだってあります。
「しかたない。私は癌になることになっていたんだ」という,運命論や必然性のような話も出てはきます。因果応報というより,原因論もいくつか。癌患者というフレームワークに収まり患者然としているひとと,患者であるけれど,私の中の患者の度合いみたいなことも。
本は,うまくまとめられませんので,機会があれば読んでいただくこととしましょう。ただ,この九鬼の「独立の二元の邂逅」というのは,興味深い発想です。避けられない偶然性という点では,じっさい,議論のしようがありません。議論ではなく,自分に発生した不運なり出来事をどう受け止めたらいいか。それを受け止めきれないまでも,また,運命論的な発想でけっきょくその運命やら定めやらを甘んじて受け入れる,運命に支配されて運命の奴隷にならない・なりたくはないという意識を一定水準つまりそれで寝てしまわない程度の覚醒を手に入れておくためにも,こうした偶然と運命との違いを見つける必要があります。
きょうだいたち,世があなたがたを憎んでも,驚いてはなりません。(1ヨハネ3:13 協会共同訳)
キリスト者は,世の中はその者たちを憎み虐げることになるが,それについて驚いてはならない。キリスト者はそういう運命なのだと言っている「わけではない」のだと思います。ここで,対話が生まれ,その憎しみ自体を超越したところに希望を見るか否か。こうなると,運命論ではありません。どちらかというと,成長論で,敢えて言えば,予想される結果は,どんどん変わっていきます。人生が単純に“p<.05”という確率で語られるとすれば,「出会い」や「時間の経過」や「進歩」といった事柄はそこでは一切省かれてしまっています。わたしたちは,この形式の呪縛を受けた,ある種の運命論に陥りかけています。5%未満の誤差を除く,この「運命」論はじつに手強いなあと思います。