さよなら、松村雄策(2)
松村のサマーキャンプが終わってしまった。
なんだか、何もやる気がしなくて、だるい。
ロッキング・オンが創刊から10年ぐらいが見えてきた時、僕と岩谷さんは、ロッキング・オンを離れた。ロッキング・オンでやろうとしたことを、音楽業界の範囲の中ではなく、追求したいと思ったからだ。渋谷は音楽という枠の中で頑張り、業界ナンバー1の位置を獲得した。
ビジネスを主導したのは渋谷だが、渋谷にとっても、松村は創刊の時からの仲間であり、ロックの魂というようなものではなかったか。
以前にロッキング・オン創刊4人組を称して、渋谷という顔、岩谷という頭、松村という心、橘川とい体、の組み合わせだと書いたことがある。まるで、バンドのようにそれぞれの役割がハーモニーを奏でていた。
90年代からのインターネットの大波は、出版業界を襲った。特に音楽雑誌は、外国のミュージジャンが直接、メッセージや写真、動画、音源まであげてしまうから、そうしたソースを編集して読者に提供する音楽雑誌が中抜けされた。更にCDによる音楽産業が、ストリーミングになり、音楽業界も変質して雑誌に広告を出す意味が薄れた。同業雑誌が多く潰れた中で、渋谷はフェスという、インターネットに対抗出来るコンテンツを開発し、大きく発展した。
フェスが軌道にのった頃、みんな還暦を迎え、それなりの年になって、たまに会おうということになり、デザイナーの大類信が、フランスに移住して、年に一度、2月くらいに帰国するので、毎年、その時期に会うようになった。同窓会である。もちろん、昔と同じように、こういう会合は、ワリカンである。少しは多めに渋谷が払ってくれるが、昔から社員の集まりでもワリカンだった。
久しぶりに会う松村は、すっかり老けてしまったが、酒量だけは相変わらずだった。終わってからも飲み足りなくなって、カメラマンの齊藤さんを誘って、二次会に向かった。
松村が脳梗塞で倒れた時は、心配したが、同窓会に来た時は、相変わらず、酒もタバコもやっていた。
ガンだと聞いたのは、コロナになってからである。松村の子どもたち3人と、渋谷(場所)のロッキング・オンに集まり、渋谷(人名 )と対応策を相談した。
松村の子どもたち3人は、こだわりの松村とは違って、素直で明るい、素晴らしい子たちである。孫はすでに4人いて、渋谷も橘川も、孫がいないので、羨ましい気持ちが少しある。
渋谷がいろいろ医者をあたってくれたが、子どもたちが住んでいる自宅近辺がよいというので、地元の病院に入院した。お見舞いに行きたかったが、コロナのため面会禁止であった。最終的には自宅療養を選んで、苦しむこともなく、眠るように亡くなったと聞いた。
( ああ、オレは何を書いているんだろう。亡くなった昨晩から、何かしてないと落ち着かないが、何もできない。こうやって言葉にしていないと、おかしくなりそうだ。松村が入院してから、二度程、夢に松村が登場した。飲みにいこうという誘いだった。悔しいなあ。僕は、10年ちょっと前に体調を壊し、もう酒を飲めなくなっている。元気な時に、もっと、いろいろ一緒に行きたかったなあ。こうやって、昔を悔やむのが、老人というものか)
Twitterで「松村雄策」と検索すると、たくさんの人が悲しんでいる。知ってる人も少しはいるが、大半は知らない人たちだ。松村に影響を受けたと言ってる人が多い。嬉しいなあ。渋谷に社葬はできないのか、と言ったら、コロナの時期はとても無理だし、家族にも負担かける、と葬儀はなしになった。でも、Twitterが松村の巨大な葬儀場になってる。みんな、ありがとう。
なんか嬉しくて泣いてしまう。嬉しくて泣くんだからな、松村。よかったなあ、こんなに愛に包まれて消えていくんだ。なんか、松村の歌声が聞こえてくる。
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