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1-5.見えるもの●ポンプ核通信1979年7月


 ぼくの実感だけど、この一年間ぐらいの間に「七○年代のそれなりのイデオローグ」と思われる人たちのボルテージが、どんどん落ちてきているみたいだ。昨日、子ども調査研究所の高山所長にそう言ったら「もう特別なイデオローグなんか出てこないよ」と言った。確かサミットの時にジスカールデスタンは「もうドゴールのような偉大な指導者は出てこない」と言ったはずだ。出てこない、というのは、つまり、ぼくたちが必要としない、ということだ。ジスカールデスタンと華国鋒というのは、なんとなく似てるみたいだ。独裁者の決定から、集団指導制の決定へ。決定される内容自体は、そんなに変わったとは思わないけど、これも確実に時代の移行だ。どこに向かって移行していくのか。唐突な言い方かもしれないけど、それは、ぼくたちに向かって移行している。

 現実に対する直対応でなんとかなる、あるいは、なんとかならないまでも、一定の効果やカンパニアになるならそれでも良いと思う。でも、先生を殴ったり、要人Aをテロればそれですむような時代じゃない。ドゴールや毛沢東の時代なら、それも、ひとつの方法だったんだろうけど、今は、システムの時代。システムそのものを変革する方法を探さなきゃ。

 ポンプというのは、将来の方向性として二つの方向性がある。ミクロ化(=地域をせばめていく。例えば都市単位のポンプ、団地単位のポンプ、更に家族ポンプまでいく)とマクロ化(=これは国連が発行するインターナショナル・ポンプ)ということだ。ミクロ化という発想の極に「直接民主主義の具体的な裏づけとしてのメディア」という発想がある。つまり現在の議会制における代議員制度を廃止して、メディアの上を議会とする方法を考えている。ポンプの基本的性格である評論家批判は、そっくりそのまま代議員批判に結ばれる。市民が橋や道路を必要とした時、直接、議会(メディア)に発言する方式が確立すれば、今のような「おらが村のセンセイ」はいらなくなる。ポンプが「みんなの雑誌」になるためには「みんなの税金」で運営されるべきだ。今のポンプは、方法論の呈示だ。

 ポンプが進もうとしている二つの極が、その先で一つになるまで、ぼくたちは方法の模索をやめない(現実的な一案として、ある知人は北海道のある市長に、その市の若い人の間にポンプノート〔=好きなことを自由に書いてもらうノート〕をまわし、それを本にして成人式に配布する、という提案を出した。あなたが市役所に入ったら、この提案を考えてみてください)。

 これからは、内容の時代ではなく、方法の時代だ。こう言い切ってよいのかタメラウ部分もあるけど、内容というのは誰がやってもそれなりのカッコはつくようになるだろう。それだけひとりひとりの質は高まってる。だからあとは、方法さえ呈示できれば、充分にショーバイできるだろう。方向さえ人間が指し示せばあとは誰でも(つまり機械でも)できるようになる。ぼくは、人間としての仕事は、この「方向を指し示すこと」だと思ってる。この世界の中で、内容的な勢力をつくりそれを拡大していく、というやり方ではなく、世界のあり方そのものを変えてしまう方向を指し示すことだ。世界は敵ではなく、ぼくたちが世界そのものなのだから。ぼくたちはテロリストの顔をする必要はない。

 メディアについて、あるいは世界について、最終的なイメージを出せといわれれば、それは「面白くもなんともない世界」としか言いようがない。これで分ってもらえれば幸せだが、ほとんどの人にはビーンときてもらえなかった。つまり、今みんなが「面白い」というのは非日常的な部分、事件とかもめごととか矛盾とか、そういうことだろうと思う。つまり、みんなが知らなかったり、気づいていなかったことだ。ポンプにしても「ユニークな母親」なら面白いけど、どーってことない母親が登場しても、一部なら面白いけど、全部がそうなっても、まだ特別な人しか楽しめないだろう。でも、ぼくは確実に「面白くもなんともない雑誌」を最終的にイメージしてるのだ。そういう社会をイメージしてるのだ。もちろん、それまでに、「面白い」原稿をたくさん載せて、それが異常でもなんでもないものとなるまで個人の情報量を増大させなければならないだろう。「面白くもなんともない世界」それは各個人の情報量がパーフェクトになった時であり、その時こそ「ハシが落ちただけでも面白い」ことになるわけだけど。ポンプは最終的に没原稿なしの、すべての手紙が掲載されるような物理的通信システムの完備を目指すわけだが、それが成立するためには、まず、「あれよりこれの方が面白い」とか「こっちの方に興味がある」とかいったメディアに対する物欲しげな態度が変わらなくっては話にならない。自分の身のまわりのことに注意を払うようにしてメディアとつきあえるようになるには、まだまだ時間がかかるだろう。

 傘というのは、今や大量に出まわっているから、誰のもの、という私的所有感がなくなってしまって、他人のを持ってっちゃっても金を盗むような後ろめたさはない。情報も、スムーズに無制限に流れ出せば、誰の意見とか、誰の考え方なんていうことはなくなるはずだ。すでに、何かの意見は「どっかで聞いたことあるなあ」というふうになっている(この意見もネ!)。鈍感な連中だけが、自分の発見にびっくりしたり大仰に感動してるだけなんだ。

 情報というのは、多様化することによってはじめて深まるものなのだ。そういう意味で今の町の小書店というのは、書店の役割を全然果していない。この点に関しては「書店」に変わる新しい産業システムとして「情報ショップ」の展開を企画しているんだけど、これはちょっと金銭的スケールがでかすぎて、どこに企画書を出せば良いのか分らない。

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橘川幸夫
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