『海賊とよばれた男』と『ウルトラマンギンガS』の、右と左を問わない「信じる」論理による「疑い」の見落とし
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注意
これらの物語の重要な展開を明かします。
特撮テレビドラマ
『ウルトラマンティガ』
『ウルトラマンダイナ』
『ウルトラマンガイア』
『ウルトラマンコスモス』
『ウルトラマンネクサス』
『ウルトラマンメビウス』
『大怪獣バトル』
『大怪獣バトル NEO』
『ウルトラマンギンガ』
『ウルトラマンギンガS』
『ウルトラマンX』
『ウルトラマンオーブ』
『ウルトラマンジード』
『ウルトラマンR/B』
『ウルトラマンタイガ』
『ウルトラマンZ』
特撮映画
『ウルトラマンギンガ 劇場スペシャル』(1)
『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』
特撮オリジナルビデオ
『ウルトラセブン』
漫画
『LIAR GAME』
テレビドラマ
『とと姉ちゃん』
小説
『海賊とよばれた男』
はじめに
様々な物語で、「人を信じる」ことは大切で、「疑う方が悪い」という論調がみられますが、それを考え直すために、ある一見対照的な物語を挙げます。
小説『海賊とよばれた男』と特撮テレビドラマ『ウルトラマンギンガS』です。
この物語は、「主人公が、通常なら疑われる存在を信じる美談になっているが、それは主人公側が悪いことをしない前提でしかない」という偏りがみられ、さらにこの両者は、軍事や国家についての政治的な立場の左右がちょうど逆とも言えるので、比べると様々なものが見えて来ます。
『ギンガS』は、主人公側が「悪役の支配」を逆用している
まず、『ウルトラマンギンガS』の前作『ウルトラマンギンガ』では、それまで悪役の主張とされるような支配に逆らいつつ、その支配を逆用するところがあります。
『ギンガ』の黒幕のダークルギエルの目的は、全ての生命をスパークドールズという人形に変えて、死ぬことのない状態で停止させることで、それを『ギンガS』では「永遠の静寂」と正当化していました。『ウルトラマンダイナ』のグランスフィア、『ウルトラマンコスモス』のカオスヘッダーなどに似ています。
また、このスパークドールズにしたウルトラマンや怪獣に、人間や宇宙人が一体化して変身して暴れます。しかし、主人公の人間のヒカル達も、怪獣や、ウルトラマンギンガ以外のウルトラマンに変身して対抗出来ます。
これが、政治的にも興味深いところがあります。
『ギンガ』前後のウルトラシリーズでの「敵や怪獣を利用する」ことの扱い
それまでのシリーズでは、怪獣の能力を利用したり、ウルトラマンの能力を人間が簡単に使ったりするのは悪く扱われていました。
平成で、『ウルトラマンダイナ』で怪獣を操り「共存」だと主張した人間の科学者のオオトモ、ウルトラマンダイナの能力を複製した巨人で人類を防衛しようとした防衛組織上官のゴンドウ、『ウルトラマンコスモス』で敵の宇宙人の兵器のヘルズキングを改造して使おうとした防衛軍の西条、『ウルトラマンネクサス』でウルトラマンに変身する人間を実験してその能力を戦闘機の光線に使った防衛組織上官の松永などです。
怪獣はウルトラシリーズで必ずしも絶対悪にならない、自然の生き物であり、やむなく倒すのではなく利用するのは良くないという主張があるようです。
また、ウルトラマンは人型なので、その能力を人間の防衛組織が使うのは恩人を実験にかける、道具扱いするから悪いという論理もありそうです。必ずしも、実験でウルトラマンに負担がかかるとは限らないのですが。
そして、ヘルズキングなどの明らかな敵を利用するのも、「敵の技術の転用は駄目だ」という流れがあるようです。
新世代ヒーローズシリーズの前であり、昭和シリーズの流れをくむ『ウルトラマンメビウス』では、ウルトラマン自身の複製を除けば、宇宙人やウルトラマンの能力を人間が科学技術で使い戦うのに肯定的ですが。
『ギンガ』では単なる民間人だったヒカルやその仲間が、次々と怪獣に変身したりウルトラマンになったりしています。
それも、ほとんど高校生しかいないので、本来敵の悪行である人形の能力を使ってでしか対抗出来ない状況になっています。
これ以降の新世代ヒーローズでは、『ウルトラマンX』、『ウルトラマンオーブ』、『ウルトラマンジード』、『ウルトラマンR/B』、『ウルトラマンタイガ』、『ウルトラマンZ』など、主人公のウルトラマンでも敵や怪獣の能力を用いることがあります。
怪獣などを拘束すると悪くみられる
また、ウルトラシリーズに限らないことでしょうが、ヒーロー作品や戦いを描く物語で、悪いことをした相手にとどめを刺さない場合、どのように拘束したり刑罰を与えたりするのか、という問題が生じます。
『ウルトラセブン』平成版で、防衛チームのカジとフルハシは、仲間を殺した宇宙人がそのまま戦いをやめて帰った場合にどうするのか、という議論で決裂しました。
『ウルトラマンコスモス』では、怪獣を殺さずに特殊な諸島に管理していますが、保護を目指すムサシはそれにも否定的で、「もっと自然にいられないのか」と疑問を呈しています。
『空想法律読本』シリーズでは、『仮面ライダー』の怪人や『ウルトラマン』のジャミラなどの元人間の相手は、たいてい人命を奪う暴力を振るうので、主人公達の行いは途中までは正当防衛で、とどめを刺すと過剰防衛だとあります。
しかし、その作品世界の現実で考えて、怪人や怪獣や宇宙人にとどめを刺さずに拘束したり法的に裁いたりするのは難しいでしょう。
そうすると、ヒーローが警察や政府に敵、あるいは人間でない異端の存在を引き渡して、結局は権力や組織に頼るために印象も悪くなりやすいかもしれません。
『ウルトラマンティガ』で珍しくおとなしい怪獣のデバンを防衛組織が預かろうとしたときに、そのサーカス仲間の民間人は公的組織を忌避しているところがありましたし、『ダイナ』では宇宙人であり攻撃していない時点のシオンを取り調べようとしたゴンドウが悪い印象になりました。動物に近い怪獣や、外国人に近い宇宙人を公的機関が拘束、管理するのが悪いという印象があるようです。『ガイア』の藤宮や『ネクサス』の姫矢など、そのような組織に反感や不信感を持ち、ウルトラマンとして独自に行動する人間もいます。
しかし『ギンガ』では、高校生達に人形のウルトラマンタロウが加わっただけの主人公達が、敵が利用した怪獣の人形を回収して、なるべく自分達の能力として管理しています。公的機関でないとはいえ、「戦いが終わったあとに、それ以上攻撃しなくても、敵にまた奪われないなどのために危険な怪獣は管理する」という、通常のウルトラシリーズなら横暴な権力者の行動になってもおかしくないことを主人公の高校生がしているのです。
また、後述しますが、管理するのは権力者の許されざる「疑い」や「言いがかり」で、主人公達のように「信じる」ことを重視する物語もあります。
『ギンガ』における高校生による管理
危険な相手を、それ以上攻撃しない状態でも長期的に管理する公的機関のような行動、敵や異端の存在の能力を積極的に利用して、その支配を目指す黒幕の能力を逆用する意味で、『ギンガ』はそれまでのシリーズで悪役扱いされるような行動が主人公達にみられます。
『ギンガ』最終回でルギエルは倒され、スパークドールズは宇宙に帰って行き、ヒカル達による管理は一時的なもので終わりました。
『ギンガS』の基礎の説明
ここまでは、『ギンガ』の解説でした。ここで『ギンガS』の主張の独特なところに移ります。
『ギンガS』では、再び現れたスパークドールズの怪獣に対抗するため、「冒険家」に近い状況になったヒカルがウルトラマンギンガとして戦います。新しく防衛チーム「UPG」が加わります。
そこで、地球の未知の鉱石であり生命を支えるビクトリウムを奪おうとするチブル星人エクセラーの部下のアンドロイド・ワンゼロなどの変身する怪獣と戦います。
ビクトリウムを守る地底人「ビクトリアン」の「選ばれし者」のショウが変身するウルトラマンビクトリーが、怪獣のスパークドールズと合体したような能力を用いて、敵を倒すつもりだったのですが、当初は宇宙人ではなくヒカル達地上人を犯人と誤認して攻撃し、誤解がありました。
やがてビクトリーとギンガ、UPGがエクセラー達に立ち向かいます。
「主人公達は良くて上官は駄目」
この作品の特徴であり問題点は、「主人公達のウルトラマンや地底人は自然界のエネルギーや怪獣の能力を使って良いが、防衛組織の上官は駄目だという倫理的な区別がされている」ことです。
まず、貴重な自然のエネルギーであるビクトリウムを奪う敵に対抗する目的で、そのビクトリウムを使う手段を選ぶビクトリー=ショウの行動はジレンマを抱えています。ショウは「地上人が資源を奪っている」と批判しながら、自分が地底人の「選ばれし者」だからと地底の鉱石を使っていることに疑問を抱いておらず、終盤の地上の防衛組織の上官の神山がビクトリウムを兵器にしたことを強く批判している矛盾があります。自分については「守る目的だから正しい」、神山については「守るべきエネルギーを手段に使うから間違っている」と主張しているのです。
つまり、いかにも軍事的な人間がウルトラマンの能力や自然界の資源を使うと「非人道的」かつ「環境破壊」で、神秘的な背景を持つ地底人、つまり少数民族に近い人物がウルトラマンや自然のものを使うと「自然界に選ばれている」ようにして正当化されるわけです。
主人公の神秘的な能力は良くて軍事的、科学的な能力は駄目だという区別は『ティガ』やその劇場版や『ダイナ』にも多く、私は二重基準だと考えています。
今回私がこの点から問題視するのは、「主人公達は怪獣の能力を使って良い、それは仲間との絆であり、軍事的な人間が使うのは許されざる搾取や利用だ」という区別です。
「中立」と「味方」の区別
元々ショウは怪獣のスパークドールズを利用して、4話のビクトリーの能力「ウルトランス」にするのに迷うことで何故か使えなくなり、そこで「敵の力など必要ありません」と拒否したこともありました。
しかしヒカルはショウと異なり怪獣に変身してみせて味方になり、「こいつらは敵じゃない。ただ悪い奴らに操られているだけなんだ。信じれば力を貸してくれる」と主張して、ショウにウルトランスの能力を取り戻させています。
しかし、これはウルトラシリーズでもかなり珍しい、矛盾が起きています。
この『ギンガ』、『ギンガS』でルギエルに変えられた怪獣の人形は、敵にも味方にも変身出来る「中立」の存在で、それまでウルトラマンタロウなどの一部を除けば意思疎通が出来ません。だからこそヒカル達は「利用」していたのです。
実際に、『ギンガ』でヒカルは、『大怪獣バトル』の怪獣使いのレイと異なり、一度も怪獣に礼も言わず、「仲間」とも呼ばず、『ギンガ』劇場スペシャル1で、ウルトラマンタロウが「ティガはもう使えない」と、会話出来なくなったウルトラマンも含めて道具扱いしているとも言えるところがあります。
しかし、ヒカルは突然『ギンガS』の4話で「怪獣は仲間」と呼び始めました。『ウルトラマンガイア』の我夢や『ウルトラマンコスモス』のムサシの場合は、怪獣が自発的に協力したと言えるときがありましたが、『ギンガS』のヒカルの場合、一方的に「怪獣が力を貸してくれる」と「信じる」ようになったのです。
これ以降、ヒカルやショウが怪獣の能力を使うのは「仲間の力を借りる」という扱いになったようです。もっとも、あまり呼びかけもしていませんが。
また、怪獣の人形は基本的に負けても損傷などがみられず、ヒカル達の戦いは、精神はともかく身体としては操られる怪獣に害も利益も与えていない可能性があります。
ヒカルは操る怪獣に礼や「頼む」を言えたとしても、何の見返りも与えられないのです。「感謝」までは良くても、「力を貸してくれている仲間」とみなすのは飛躍しています。
「こいつらは敵じゃない」は正しくとも、そこから「信じれば力を貸してくれる」というのが飛躍して、中立と味方の区別が付いていません。「怪獣は仲間だ」と言ったヒカルを、「怪獣を駒扱い」して「くだらん」と言ったエクセラーの方が、それについては事実の認識として正しいとも言えます。
そして、人形になる前からショウの仲間だった、ビクトリウムを含む体のシェパードンを、ビクトリウムの兵器のために神山が利用したことに、ショウは激しく憤りました。
しかし、シェパードンは神山からみれば、ビクトリーの援護こそするものの、一度地上の施設を破壊したこともある、怪獣のゴモラをウルトラマンギンガからかばったこともある、敵か味方か分からない怪獣であり、それを利用して何が悪いのか、という話かもしれません。
また、「仲間」といっても、ショウがウルトランスするときに「頼む」と呼びかけたのは、人形になる前から仲間のシェパードンを除けば4話のキングジョーだけです。
ショウが明らかな敵に利用されたEXレッドキングやエレキングをさらにウルトランスに利用するのと、神山が自分からみれば敵かもしれないシェパードンを兵器に利用するのと何が異なるのか、という疑問への答えは劇中にありません。
「相手の気持ちを知りもしない」のは上官も主人公も同じ
また、『ギンガS』では『ギンガ』の戦いもあまり一般人や政府に知られていないらしく、神山からすれば、ギンガとビクトリーというウルトラマン同士の争い、ビクトリーが地上人を攻撃に巻き込んだこと、ビクトリーが怪獣と融合したような姿になること、ギンガやビクトリーに倒された怪獣が突然味方になることなど、敵と味方の区別が難しく、ウルトラマンを疑っても仕方がないと私は考える状態でした。
しかし、神山のそのような意図かもしれない疑いをヒカルは激しく否定して「取り消せよ!あいつらの気持ち、知りもしないくせに!」と叫んでいます。
そしてヒカルも、自分の知らないところで怪獣「ガンQ」に変身した人間が、かつて自分達を攻撃した怪獣と同じ姿というだけで攻撃し、「気持ちを知りもしない」からこそ疑ったわけなので、似たようなことをした神山だけを責めていると言えます。
「左」だからこそ「上官だけは駄目」だとみなす
私が見る限りヒカル達の最大の問題点は、意思疎通の出来ない相手である怪獣の人形の能力を、断りを入れられない中で使うのを「信じれば、きっと力を貸してくれる」という論理で押し通して美談にしていることです。
そして、ウルトラマンを疑うように、怪獣を「疑って」利用する神山を悪く扱うのも、権力者が異端の存在を疑うのは横暴だ、という政治的に主に左の主張だとみられます。
左翼あるいはリベラルは「自由」、「平等」、「博愛」として、上司への反発、異なる出自の人間を信じることを重視する傾向があります。
ヒカルやショウと神山の、怪獣の利用について異なるのは、「信じて頼む」か、「疑って利用する」という内面の問題だけで、行動としてはさして変わりませんが、ヒカル達は「左」に受け入れられやすい「一介の冒険家や少数民族」で、神山は「軍事的な権力者」なので、扱いに差異があるのでしょう。
知らない相手を疑うのも管理するのも、限られたエネルギーを使うのも、少数民族のショウや元高校生のヒカルなら良くて上官の神山なら悪いという意味で、『ギンガS』には「左」の主張があります。
『海賊とよばれた男』の経営者の問題
ここで、『海賊とよばれた男』原作小説の企業経営者の国岡の「社員を信じる」について扱います。
国岡は戦前から石油の有用性に注目して、周りになかなか理解されない頃から石油産業に取り組んで会社で優秀な業績をあげてきました。また、会社や自分個人の利益だけでなく、国家全体のことを考えた主張で、投機だけの仕事は部下に禁じました。
しかし、「家族のような会社」として、社員の給料が安い、長時間の過酷な労働は当たり前、労働争議は社内を分断させるから認めないなど、今で言えばブラック企業に当たるところが散見されます。
劇中の地の文ですら、石油の工場の建造が通常2年以上かかるのを、「人間の赤ん坊のように」という根拠のない論理で10ヶ月で完成させようとするのは悪く扱われています。また、労働者への搾取を批判するマルクスの主張を晩年に受け入れたらしいですが、具体的な行動はみられません。なお、「人間は石油など手に入れない方が良かったのではないか」と、環境問題を最後に気にしているふしもあります。
他にも、戦争で日本を敗北させた欧米への「弔い合戦」として主にイギリスと争う航海をしたり、かつて争ったアメリカの「スケールの大きさ」に好悪相半ばする感情がみられたり、日本の「右」の主張がみられます。
中国や韓国では「右」といえば共産主義の影響のある体制への反発だそうですが、日本では「右」は権威主義で、ヨーロッパの人権や平等などの概念を押し付けとみなす、日米同盟や貿易などからアメリカには肯定と否定が混ざり合う傾向があります。
「右」は日本では、経営者や財界に有利な主張をして、「左」がマルクス主義の影響で労働者の味方になりやすいとされます。大川周明のように、右翼社会主義を唱えた人間もいますが。
「タイムカード」を認めない「信頼」の裏
そして国岡の最大の問題点の1つは、アメリカの手法を参考にすると言いつつ唯一不満だと言った「どの会社にもタイムカードがあること」、つまり社員の働きを管理する制度についてです。「僕は社員を信頼しているからそんなものは必要ないし、そんなものは民主主義ではない」と話しています。しかしそれはアメリカの経営者の集まりでの会話で、労働者はその場にいなかったようです。
アメリカの経営者に「出来の悪い従業員がいたらどうするのですか?」と問われ、「うちの社員は家族であり、出来が悪いからといって馘首はしない」と言って拍手されました。
しかしこれは、『ギンガS』の一見「左」で権威に反発しているようなヒカルにも通じる、「自分が悪いことをしない前提で、相手を信じるとして互いに疑う、拒否する余地をなくすのを美談にしている」と言えます。
タイムカードがないことで、確かに経営者側が「出来の悪い社員が怠ける」のを防げなくなる、管理出来なくなる可能性はあります。しかし、逆に「出来の悪い経営者」による過重労働などの間違いを社員が異議申し立てすることも出来なくなります。「出来の悪い経営者などいない、悪ければそもそも経営者にならない」という保証はありません。
タイムカードなどの制度は、経営者と社員の「契約」をどちらが破っても管理出来るようにするもののはずです。
それを経営者しかいない集まりで、「社員が間違いをする」可能性しか話さず、「信頼」を経営者だけがすれば良い、逆に社員が経営者を疑う抵抗の余地もなくしていることを見落とさせています。
だからこそ国岡の企業には馘首がない代わりに労働争議もなく給与が低く、「この仕事が国のためになっている」と今で言う「やりがい搾取」に当たることもしているのでしょう。
管理とは、双方向の疑いや、どちらかが間違えたときに相手が関係を切れるようにする「契約」のためでもあるはずです。
そのような論理を「ヨーロッパやアメリカの押し付け」と判断して、日本の「家族のような企業」の一体感で労働の問題をごまかすのが、『海賊とよばれた男』の「右」の要素だと言えます。
守りたいのが「国家」なのか「国民」なのかが、ナショナリズムを「国家主義」と「国民主義」のどちらに訳すかの問題があるかもしれません。
『ギンガS』と『海賊とよばれた男』に足りない「自分達も含めた疑い」
まとめますと、『ギンガS』はウルトラシリーズによくいる軍事的な人間への反感が強く、それまでのウルトラシリーズなら悪役のものになるような、敵やそうとも限らない怪獣、そしてウルトラマンの能力を使うことを、神秘的な能力を持つ、あるいは権力の少ない新入隊員や少数民族のヒカルやショウならして良い、上官の神山は目的が同じでも駄目だという「左」の主張があります。
その中で、ヒカル達は怪獣と意思疎通が出来ず、強制的に操っているだけの可能性について、異端の相手を「信じる」から「力を貸してくれる」と主張してその使用を正当化し、神山は「強制的に操っている」ことにして悪く扱っています。どちらも怪獣が嫌がっている可能性を、怪獣に拒否権がないので否定出来ないにもかかわらず、です。
一方『海賊とよばれた男』の企業経営者の国岡は、投機などを狙わないものの、国のためだと過酷な労働や低い給与を正当化し、社員達と自分達経営者の双方の間違いを証明してただすためのタイムカードなどの「疑う管理」を、家族のような企業には必要ない、信じるのが民主主義だと否定して、「主人公側は、対立しがちな労働者が悪いことをしないと信じる」美談で、「そもそも主人公側、経営者側が悪いことをする可能性はないのか」という疑問をごまかしています。
そうして、「経営者は間違えない、国のためにするのなら正しい」という「右」の主張になるわけです。
ヒカルも国岡も、「自分は異なる立場の相手を信じる」と「疑い」を放棄して、逆説的に「自分達への疑い」も放棄しています。
「人は疑うべきだよ」
そもそも、「疑う」の定義を、ウルトラシリーズも政治や経済の小説でも誤認している人間が多い印象が私にはあります。
『LIAR GAME』原作では、母親をだました詐欺師に復讐した詐欺師の秋山が、その母親に似たところを見出しているらしい女性の神崎に、「人は疑うべきだよ。俺はある巨大マルチ商法を潰したときにひどい人間を見たが、もっともたちが悪かったのは、自分が良いことをしていると信じ込んで、結果的に人をだましている人間だった。多くの人間が信じるという名の下にしているのは知ることの放棄であり、疑うというのはその人を知ろうとすることなんだ。困っている人こそ悩みを打ち明けにくいから疑うことさ」と、必ずしも冷たい、刺々しいだけでない助言をしています。詐欺師の台詞とはいえ、これこそ私の求めていたものでした。
マルチ商法は、勧誘された被害者が新しく勧誘して加害者になる連鎖があります。被害者がその仕組みを「信じる」のは、被害者の立場だけなら「お人よし」、「優しさ」で済みますが、その仕組みに加担して加害者にもなれば、当然「自分に甘い」、「反省しない」ことになります。
「疑う」の真の定義は「分からないと認めること」
「疑う」というのは、「自分達が被害者であるときに、相手が加害者であるかもしれないと考えて調べる」ことが多いでしょうが、それは「相手が悪いことをしていると決め付ける」という論理になる人間が物語に多く、本来ならば「相手が悪か善か分からないと認める」ことのはずです。
つまり、「疑う」とは相手を傷付けるとは限らず、むしろ「今の自分には分からないと認める」、「自分を傷付ける」行いのはずです。ときには、「むしろ自分の方が悪かったかもしれない」と疑うことも必要です。
だからこそ『LIAR GAME』の神崎は、「私は人を信じることを良いと思って、結果的に慮ることをしなかったから、いざというときに助けてもらえなかった」と振り返り、「信じる」自分の方が相手より悪い可能性も「疑い」ました。
『ギンガS』と『海賊とよばれた男』に足りない逆説的な「疑い」
『ギンガS』のヒカルも怪獣を操ることについて、「怪獣は自分達を拒絶しないし抵抗や暴走もしない」と信じることで、結果的に「自分達も怪獣に悪いことをしていない」と信じることになります。問題は怪獣に負荷をかけるのか怪獣が暴走するかの事実の可能性と、怪獣に頼る倫理、つまり意見の問題にも分かれますが、どちらにせよヒカル達に欠けていたのは「相手も自分も疑うこと」です。
『海賊とよばれた男』の国岡も、「経営者ならば従業員を信じるべきだ」と、時間の管理を放棄して、結果的に自分達が逆に働かせ過ぎる、「出来の悪い経営者」になる危険性を放置しています。もちろんこちらでも、労働時間の超過や過労による傷病という事実か、労働者の感情という主観的な意見に問題が分かれますが。
『とと姉ちゃん』の「疑い」の一方通行
ちなみに、『とと姉ちゃん』では、女性であり、高度成長期には珍しい雑誌の編集をする企業の経営者だった常子が、当時多かった粗悪な家電のメーカーの製品を「疑って」調べて、「公正」だと主張して、「疑う」メーカーや新聞社に反発しています。「我が社は正しい試験をしています」、「何か恨みでもあるのですか?」と、「自分達が相手を疑うのは正しく、相手が自分達を疑うのは許さない。何故なら完璧なメーカーなど今までなかったからだ」という論理でした。
しかし、試験を公開して、メーカーの自前の検査の方が聴診器を使う分自分達より優れていたことを知った常子がそれを認めると、新聞記者は「間違いを認めたから正しい」と解釈しました。それまで「自分達は正しい」と常子は一点張りだったにもかかわらず、です。「調べて間違っていたなら疑って良かったことになる」という結果論ですら、常子達は間違えていたことを都合良く扱っています。
常子も、一応その前に「ひとりよがりだったのかな」、「私達の記事で雑誌の売れ行きが決まるのは恐ろしいことよね」と言っているものの、結局は「自分達が正しい」ことにしています。
メーカーを疑うので「左」に近いかもしれませんし、常子は「母親のような経営者」を目指していたらしいですが、最終的に「自分達は相手を疑い、逆の方からは許さない」ということになっています。
『ギンガS』でも、「ウルトラマンであるショウが地上人やその組織を疑うのは良くて、組織側がウルトラマンを疑うのは悪い」という一方通行になり、それは軍事的な権力を悪く扱う「左」の空気で支えられています。
国岡が「家族のような企業」の「父親のような経営者」なら、常子が「母親のような経営者」であり、「自分達は間違えない」という前提で、「相手が間違えないと信じる」、「相手が間違えていると決め付ける」と分岐しています。
ヒカルや国岡はどうすれば良かったのか
念のため、「ならばヒカルや国岡はどうすれば良かったのか」という反論への答えも私なりに書きますと、ヒカルは怪獣の能力を使わなければ、国岡はタイムカードや労働争議権を認めれば良かったのではないか、というのが答えです。
「その能力なしにどうやって勝つのか」とヒカル達を擁護するならば、神山が「ビクトリウムの兵器を利用しないでどうやって人類や地球を守るのか」と反論したのと同じになります。
怪獣の意思を確認出来ないのは『ギンガS』の世界の設定からやむを得ず、その手段を考えろというのは無理な話なので、ならば怪獣に害のないように、そもそも使わずに管理だけしていれば済んだと考えます。
『ウルトラマンX』で解決されたこと
ちなみに、『ギンガS』の次作『ウルトラマンX』では、ルギエルとの関連が不明で、明確な感情もそれを人間が確認する手段もある人形のスパークドールズがあります。
こちらについて、ウルトラマンエックスが怪獣を積極的に人形として封印し、その能力を主人公の大地などの人間が科学技術で分析して、サイバーカードという技術で戦闘機に活かしたり、ウルトラマンの鎧にしたり、サイバー怪獣というコピーを人間の脳波で戦わせたりします。
しかし、サイバーカードと鎧は、敵対しているゼットンの同族からも作れるので、ただ能力を使っているだけのようですが、サイバー怪獣はその人形自身の協力する意思が必要なので、大地は、昔馴染みのゴモラに「頼むぞ」と呼びかけていますし、ゴモラが拒否することも出来ます。
このため、サイバー怪獣については、「怪獣を強制的に操る」のではなく、「力を貸してもらっている」ことが物理的に事実として明示されています。劇中では大地がヒカルを見習うような扱いでしたが、ヒカルと異なり、大地は自分達の行いを無根拠に「信じている」わけではありませんでした。
重要なのは、強制でないならば、相手に物理的に「断る」拒否権があることです。スパークドールズが拒否する意思を確認出来ないヒカル、労働争議を認めない国岡は、それを「信じる」で押し通しています。
まとめ
「左」にせよ、「右」にせよ、「自分達が間違えない」という前提で、詳しい事情や行動や内面を確認出来ない、しにくい相手が悪いことをするかの可能性を「信じる」と決め付けて、逆に自分達が悪いことをする可能性を疑うことを放棄する意味で、『ギンガS』と『海賊とよばれた男』は似ていると考えました。
参考にした物語
特撮テレビドラマ
村石宏實ほか(監督),長谷川圭一(脚本),1996 -1997,『ウルトラマンティガ』,TBS系列(放映局)
村石宏實ほか(監督),川上英幸ほか(脚本),1997 -1998(放映期間),『ウルトラマンダイナ』,TBS系列(放映局)
根本実樹ほか(監督),武上純希ほか(脚本),1998 -1999(放映期間),『ウルトラマンガイア』,TBS系列(放映局)
大西信介ほか(監督),根元実樹ほか(脚本) ,2001 -2002(放映期間),『ウルトラマンコスモス』,TBS系列(放映局)
小中和哉ほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2004 -2005,『ウルトラマンネクサス』,TBS系列(放映局)
村石宏實ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2006 -2007 (放映期間),『ウルトラマンメビウス』,TBS系列(放映局)
菊池雄一ほか(監督),荒木憲一ほか(脚本),2007 -2008(放映期間),『大怪獣バトル』,BS11系列(放映局)
菊池雄一ほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2008 -2009(放映期間),『大怪獣バトル Never Ending Odyssey』,BS11系列(放映局)
アベユーイチほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2013 (放映期間),『ウルトラマンギンガ』,テレビ東京系列(放映局)
坂本浩一ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2014 (放映期間),『ウルトラマンギンガS』,テレビ東京系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2015 (放映期間),『ウルトラマンエックス』,テレビ東京系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),中野貴雄ほか(脚本) ,2016 (放映期間),『ウルトラマンオーブ』,テレビ東京系列(放映局)
坂本浩一ほか(監督),安達寛高ほか(脚本) ,2017,『ウルトラマンジード』,テレビ東京系列(放映局)
武居正能ほか(監督),中野貴雄ほか(脚本),2018,『ウルトラマンR/B』,テレビ東京系列(放映局)
市野龍一ほか(監督),林壮太郎ほか(脚本),2019,『ウルトラマンタイガ』,テレビ東京系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),吹原幸太ほか(脚本),2020,『ウルトラマンZ』,テレビ東京系列(放映局)
特撮映画
アベユーイチ(監督),谷崎あきら(脚本),2013(公開日),『ウルトラマンギンガ 劇場スペシャル』,松竹(配給)
村石宏實(監督),長谷川圭一(脚本),2000,『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』,ソニー・ピクチャーズエンタテイメント(配給)
特撮オリジナルビデオ
神澤信一ほか(監督),武上純希ほか(脚本),1998 -2002(発売日),『ウルトラセブン』,VAP(発売元)
漫画
甲斐谷忍(作),2005-2015(発行年),『LIAR GAME』,集英社(出版社)
テレビドラマ
西田征史(作),益子原誠(プロデューサー), 2016年4月4日-10月1日,『とと姉ちゃん』,NHK総合(放映局)
小説
百田尚樹,2014,『海賊とよばれた男』,講談社文庫
参考文献
盛田栄一,2004,『空想法律読本1』,メディアファクトリー
盛田栄一,2003,『空想法律読本2』,メディアファクトリー
大澤真幸(編),2009,『ナショナリズム論・入門』,有斐閣アルマ
浅羽通明,2006,『右翼と左翼』,幻冬舎