「分からないなりに分かろうとしろ」という人間は、「分からないなりに分かろうとしている」人間のことを認めているのか
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注意
これらの物語の重要な展開を明かします。
特撮映画
『ゴジラ』(1954)
『ゴジラ×メカゴジラ』
『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』
特撮テレビドラマ
『ウルトラマンメビウス』
『ウルトラマンギンガS』
『ウルトラマンX』
『ウルトラマントリガー』
漫画
『築地魚河岸三代目』
『ラーメン発見伝』
テレビドラマ
『コントロール 犯罪心理捜査』
はじめに
2023年12月14日閲覧
「人の気持ちなんて分からない」という主張がみられることもあれば、「分からないなりに分かろうとすることが大事だ」という主張があります。
しかし私は、これについて違和感を長らく感じつつも、反論が難しい中で迷っていました。
今回は、また1つの答えを出してみました。『ラーメン発見伝』原作1巻の表現を借りて、「これだという答えはまだないけれども、今のところの答えはこれかな、というのをぶつけてみたい」という主張です。
今回は、「分からないなりに分かろうとすることが大事だ」という人間は、本当に「分からないなりに分かろうとする努力」を認めているのか、結果しか見ていないのではないか、という疑問です。
まず、例として、『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』、『ウルトラマンX』、ドラマ『コントロール』、漫画『築地魚河岸三代目』の4作品における、「分かろうとする努力」が空回りしていることを挙げます。
「メカゴジラのことを何も分かっていなかった」
『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』は、「ゴジラと人間が分かり合えない」多くのゴジラシリーズの対立の中から独自の答えを出しています。
『ゴジラ』1954年版のあとに、『ゴジラ×メカゴジラ』で、倒された初代ゴジラの骨を利用したサイボーグ「3式機龍」により、新しいゴジラを倒そうとする物語の続編です。しかし、元々ゴジラは人間の核兵器の被害者であり、それを踏まえて、「ゴジラがかわいそうだ」という主張もあります。これはゴジラシリーズにはよくありますが、たいていは「人間の生命を守る」ことを優先します。
その中で独特なのは、この『東京SOS』の義人が、ゴジラを敵だと断定する側の人間でありつつ、そのゴジラの骨によるサイボーグの機龍には親身に整備していることです。彼は日本のアニミズムのような「機械の感情」を主張して、周りが距離を置くような熱心さがありました。
しかし整備するとき、本来無人で遠隔操作するほど急な加速がある機龍の内部に閉じ込められ、その負荷に苦しむ中で、「テレパシー」のような現象で、機龍の真意を知りました。それは、「眠りたかった」ということであり、「俺はお前のこと、何も分かっていなかった」と認めました。
おそらく、「気持ちを分かる」というのはたいていは、「良い人の気持ちを分かる」という意味であり、「悪い人の気持ちを考える必要などない。むしろ考えてはいけない」と思っている人が多く、義人にとっては「ゴジラは悪い奴」で当たり前であり、そのサイボーグの機龍は「親身になれば良い奴になってくれる」と「信じていた」のが、前提を根本的に勘違いしていたのでしょう。
ゴモラのことを「何でも分かるとは限らない」
『ウルトラマンX』では、『東京SOS』に似た、「人間が機械的な怪獣を戦わせる」要素があります。
この作品では人間が怪獣を殺さずに人形にして封印する選択肢もあり、そこから得た電子情報で、戦闘機の新しい武器や、ウルトラマンの鎧などを作り出せます。破壊したロボットからも電子情報を得られるので、情報のためだけに生かしているとも言えず、怪獣の都合も考えてはいます。
主人公の防衛隊員の大空大地が、幼いときから人形として接しているゴモラの情報から、変身するウルトラマンエックスの鎧を作るだけでなく、ゴモラの分身としてのサイバーゴモラを生み出して人間の脳波で操り戦力にしようとしていました。
しかし、サイバーゴモラの実験には、人形のゴモラ自身の協力する意思が必要らしく、途中でゴモラが「心を閉ざした」ことで中断されました。大地が「ゴモラのことは家族のように何でも分かる」と言ったものの、隊長の神木は自分の経験も踏まえてか、「家族でも分からないことはある」と返しました。
けれどもそのゴモラの真意は、自分が操られるのが嫌だというわけでも、人類に反感があるわけでもなく、脳波で操る大地の体を心配してのことでした。
大地はゴモラの真意を、「分かろうと」はしたものの、根本的に勘違いしていたのです。大地は「ありがとう。でも俺が戦わなければ多くの命が失われる。力を貸してくれ」と話し、サイバーゴモラを実体化させました。
ロボット三原則に、「人間の安全、人間の命令、ロボット自身の安全」という優先順位があり、さらに第0法則として、人類全体の安全を人間個人の安全より優先する物語もあるそうです。ゴモラはサイバーゴモラにより守られる人類全体より、親しい大地個人の安全を重視したと言えますから、ロボットのように割り切れない感情があるのでしょう。
ちなみに、この直前の回では、暴れない植物怪獣のホオリンガが、「弱っている」ようだったので人間が薬で助けようとしたのですが、そのホオリンガには「山になる」ことで周りの生態系に貢献する目的があり、かえってそれを妨害してしまいました。
こちらでは人間が謝罪して辞めています。
ゴモラが人間個人の安全を人類全体の安全より優先したのなら、ホオリンガは自分の個体の安全より周りの環境を優先する意思があり、人間も怪獣も善意で動く中で、どちらを優先するかの議論になったわけです。
重要なのは、人間は怪獣の意思を善意で「分かろうと」はしたものの、ゴモラにせよホオリンガにせよ、根本的に勘違いしていたことです。
刑事が分かっていなかった「被害者遺族の気持ち」
ドラマ『コントロール』では、刑事に大学教員の心理学者が協力するのですが、刑事の古い手法や、「熱血」とも取れる女性刑事の瀬川の姿勢に、学者が反発して苛立たせるようなところもありました。
この心理学者の南雲は、「人が倒れても多人数ではかえって助けない心理」を「面白い」と言い、倒れた本人の瀬川の前でも堂々とそれを言う「無神経」なところがあります。また、3人の人間が連続して殺される事件で、3人目の遺族の前で不謹慎な発言をしていました。
それらから、瀬川は「心理学者なのに、人の気持ちが分からないんですか!」と憤っています。しかしそのあとの展開が、「人の気持ち」にかかわる重要なきっかけになりました。
このとき、容疑者は「2人殺したが、3人目だけは違う」と自白して、刑事達はそれを信じませんでしたが、南雲はそれに注目していました。
この実状は、3人目だけはその犯罪に憤った遺族に殺されていたというものでした。容疑者は本当のことを話していたのです。
瀬川は「遺族の気持ち」を分かっているつもりで、根本的に勘違いしていたわけです。遺族にも殺すときに、息子の犯罪に憤る事情はあったと、警察官に認識はされていましたが。
経済の需要と環境の供給から「分からない」すれ違い
『築地魚河岸三代目』では、築地の仲卸、魚問屋の仕事を、元銀行員の赤木旬太郎の視点などから扱います。
あるとき、ある仲卸の四代目跡取りとして期待されていた小学生の克海が、「魚産業に希望が持てない」と嫌がったときに、既に成人している別の閉まった干物専門の仲卸の三代目の「若」は、「俺には分かるなあ。俺も干物離れや加工場からの直納で何度あきらめかけたか」と「共感」しているつもりでした。
しかし克海の真意は、「魚が乱獲で絶滅しそうで、漁師や仲卸にはその改善の気配がないから魚産業にかかわりたくない」というものでした。「若」はどちらかと言えば経済の、自分達仲卸への需要が減っている、世の中の人間に必要とされなくなっていることへの不安に注目して、克海もそうだろうと「分かろうと」していたのですが、克海は環境問題にかかわる魚の供給、人間以外の事情を考えていたのです。
これも「根本的な勘違い」でしょう。
「善意」と「努力」がそろっていても「空回り」することがある
これらの4例で言えることは、「分からないなりに分かろうとしている」人間が、みな悪人とは言えず、「善意」で「努力」している気配はあるものの、全てその善意の前提に不完全さがあり、努力が空回りしていたことです。
『東京SOS』の場合は、「人間がゴジラを殺して何が悪い。悪いのはゴジラの方であり、ゴジラの遺体を利用しても悪くない」という先入観が義人にあり、それでゴジラのサイボーグを一方的に「仲間」扱いしていた、不完全な善意と、そのためなら自分の命を懸ける「努力」がありました。
ゴジラシリーズでは、ゴジラを敵だと断定するものもあれば、「悪いのは人間の方だ」と和解しようとするものもあります。
ウルトラシリーズでも怪獣との和解をほとんど目指さない『ウルトラマンメビウス』や『ウルトラマントリガー』があります。
その『東京SOS』の先入観は、劇中の総理大臣や義人の上司などにもありました。本作の総理大臣は機龍をあくまでゴジラとの戦いにしか使わず、終われば廃棄する、外国との戦いには使いたくない、「人間」、「日本人」としての善意はあります。その視野の狭い善意を共有する義人が、ゴジラのサイボーグという敵か味方か曖昧な相手への「分かろうとする」努力の空回りを招いていたのです。
『ウルトラマンX』の場合も、大地は自分の怪獣を人形にしたり発見された時点で人形のゴモラを戦わせようとしたりするのは、あくまで人類全体のためで、自分も命を懸ける善意はあったのですが、それがゴモラとすれ違う空回りをしていたのです。
『ウルトラマンギンガS』でも、主人公のヒカルは同じ「スパークドールズ」という種類の名前の人形である怪獣の能力を使い「仲間」と呼んでいますが、『ギンガS』で人形からその意思による返事は特になく、一方的に決めつけているだけとも取れます。ヒカルから大地への状態に移り、自分が怪獣の意思を無視していたことを認めたのが『東京SOS』だと言えます。
『コントロール』でも、瀬川が殺人の被害者の遺族に気を遣うのは、一般的には当たり前の「善意」ですし、被害者の状況を調べるのは捜査のための当たり前の「努力」なのでしょうが、「家族に殺されていて、それに警察が直ぐには気付かない」という珍しく確率の低い結果を見抜けなかったことで、「善意」がかえって犯人を見落とし別の容疑者の犯行だと思い込む空回りになってしまいました。
『築地魚河岸三代目』では、「若」が経済と環境という、魚産業でなら共に注目すべき社会問題のうち、片方の経済にだけ注目する偏った善意を持ち、そのためなら必死に勉強したり営業に出かけたりする「努力」もしているものの、環境問題について相手が言及している可能性に思い至らない「不完全な善意の努力」が空回りしたと言えます。
理解してもらえない側、理解出来る側も不完全なときがある
ここで私が重視するのは、「分からないなりに分かろうとする」行為が失敗したとしても、「分かってもらえない被害者」や「分かっている理解者」も善人とは限らなかったり、その善意が不完全だったりすることです。
『東京SOS』の機龍は人類全体を憎んでいるとも言い切れず、最後に義人を脱出させて、新しいゴジラを道連れに眠っています。しかし、自分が初代ゴジラだった頃に暴れたことや、機龍として勝手に動いて人類全体を脅かしたことへの謝罪はしていません。というより、攻撃をやめて立ち去ることはあっても、ゴジラが人間に謝罪する物語を私は知りません。機龍は「分かってもらえない被害者」でも、完全な善の存在ではないと言えます。
『X』のゴモラも、身近な人間個人の安全を、人類全体の安全より優先しています。また、『X』で怪獣が暴れるきっかけの未知のエネルギーは、のちに地球全体を脅かすことになり、戦いを一時的に放棄したゴモラは、結果的に地球の人間以外の生命も、間接的に危機にさらしたと言えます。ゴモラにはそこまで大局的に考えた善意がなかったのでしょう。
『コントロール』では、女性刑事が勘違いしていたのは、「被害者の3人目の遺族がその3人目を殺した犯人だった」、「容疑者は3人目だけは殺していなかった」ということであり、当然ながら理解してもらえない「被害者」だとしても、この遺族や容疑者も悪人ではあります。
また、それを「事実」として言い当てた南雲も、殺人や犯罪への憤りはあり、親子関係について何らかの感情があるらしいものの、自分が冷静に判断出来ない限界を認めています。理解者だからといって、その善意や努力も不完全なのです。
『築地魚河岸三代目』で、「若」の「分かろうとする」努力が間違えていたとしても、克海の方も環境問題に注目するあまりに、父親に言われた新しい顧客の開拓などの、それこそ経済や需要の問題を「そんなこと」と軽んじる気配があります。特に自然環境と異なり経済は人間関係の問題であり、人に頭を下げるなどの誠意も必要そうですが、克海は大人に生意気と取れる態度もあり、人間関係を軽んじている様子も途中まではありました。
このように、「分からないなりに分かろうとする」努力をする人間には「善意」や「努力」が必要であり、この2条件を満たすものの根本的な勘違いをしている人間はいるようですが、それで「理解されない被害者」にも、あるいは「理解出来る人間」にも不完全なところがみられます。
「不完全だから」「不完全さを」理解出来るのかもしれない
というより、誰も完全な善人でない、視野の限界があるからこそ「分からない」ところを増やしたり、不完全だからこそ「理解し合える」ところもあったりするのかもしれません。
特に、『コントロール』の南雲は、親子関係についての何らかの純粋と言えない感情や、学者ならではのひねくれたところで「教職が聖職である必要はない」と言うなどの「不完全さ」によりかえって不完全な遺族を理解したのかもしれませんし。
『築地魚河岸三代目』の克海を理解した旬太郎も、食欲や売り上げを向上させたい意欲のあまり、「(減少している)江戸前のアサリをじゃんじゃん売りたい」など、魚や貝の減少などの環境問題を軽んじるときが初期はあり、その「自分の不完全さ」を認めるからこそ、「若」より視野の広い「理解」を出来たとも言えます。
まとめ
「分からないなりに分かろうとすることが大事だ」と言う人間は、「分からないなりに分かろうとしている」人間の善意と努力を認められるのか気になったので、ここで挙げました。
誰の善意にもその常識に基づいた視野の狭い不完全さがあり、それにより努力が空回りすることもあり、不完全な相手を理解出来ないこともあるようですし、自分の不完全さを認識する人間が理解を生み出すこともあるものの、「分かる」からといって完全な善人とは限らないこともあるとみられるので、「分かろうとする」ことも「分かる」ことも手放しに肯定出来ないと、とりあえず結論づけました。
参考にした物語
特撮映画
本多猪四郎(監督),村田武雄ほか(脚本),香山滋(原作),1954(公開日),『ゴジラ』,東宝(配給)
手塚昌明(監督),三村渉(脚本),2002,『ゴジラ×メカゴジラ』,東宝
手塚昌明(監督),横谷昌宏(脚本),2003,『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』,東宝
特撮テレビドラマ
村石宏實ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2006 -2007 (放映期間),『ウルトラマンメビウス』,TBS系列(放映局)
坂本浩一ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2014 (放映期間),『ウルトラマンギンガS』,テレビ東京系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2015 (放映期間),『ウルトラマンエックス』,テレビ東京系列(放映局)
坂本浩一ほか(監督),ハヤシナオキほか(脚本),2021-2022,『ウルトラマントリガー』,テレビ東京系列(放映局)
漫画
久部緑郎(作),河合単(画),2002-2009(発行期間),『ラーメン発見伝』,小学館(出版社)
鍋島雅治/九和かずと(原作),はしもとみつお(作画),2000-2013(発表期間),『築地魚河岸三代目』,小学館(出版社)
テレビドラマ
貸川聡子(プロデューサー),村上正典ほか(演出),寺田敏雄ほか(脚本),2011,『コントロール 犯罪心理捜査』,フジテレビ系列(放映局)
参考文献
平野晋,2019,『ロボット法』,弘文堂
瀬名秀明,2008,『瀬名秀明ロボット学論集』,勁草書房